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内包的定義が自己言及しなければ問題は解決するか

集合を内包的に定義するとき、自己言及を許可すると集合に自分自身という余計な要素が発生してしまう。そうであれば内包的定義が自己言及するのを禁止すればいいのではないかと思いつくが、これもどうもうまくいかないようなのだ。

例えば「x は犬である」という述語で犬の集合を定義する。すると「犬の集合」という集合が発生する。しかし「x は犬である」という内包的定義は、「犬の集合」には適用されず「『犬の集合』は犬である」という命題は偽となるとしてはどうかということだ。

しかし、この場合「x は犬ではない」という述語について考えると「犬でないものの集合」は「『犬でないものの集合』は犬ではない」という命題を偽とする。この場合「x は犬ではない」という述語は「x は犬である」という述語の否定であるから、排中律から「犬でないものの集合」は「犬の集合」の要素でなければならないというおかしな結論になってしまう。

これを避けるために、「集合は自分自身を要素とはしないが、自分自身を定義する述語を適用された時、真または偽の値を与える属性を持つ」というような付加的な規則を加えてはどうだろう。この規定は集合に色をつけることになる。他の述語に対しては普通の対象として振舞うが、自分自身の内包的定義が自分自身に適用された時その性質に応じて真または偽の値をとる。これを、集合の属性と呼ぶことにしよう。

そうすると、上の例の場合、犬の集合は、自分自身の内包的定義に対する属性は偽である。また犬でないものの集合は自分自身の内包的定義に対する属性は真である。この場合「犬でないものの集合」「x は犬の集合である」という述語を適用しても偽となり、「x は犬でないものの集合である」という述語を適用しても真となって、「x が犬でないものの集合である」という術後の否定である「x は犬の集合である」という述語に対しても偽となるので、「犬でないものの集合」が「犬の集合」の要素となることはない。しかし、残念ながらこの工夫でも「犬でないものの集合」が「x が犬である」という述語に対しても、その否定の述語に対しても集合の要素となることができず、排中律が成立しなくなってしまう。

しかし、原点に戻って内包的定義の自己言及を許可し、自分自身が自分自身の要素になるということを認めると、「犬の集合」には犬の要素だけが属し、「犬でないものの集合」の要素には「犬の集合」と「犬でないものの集合」という要素が含まれてしまうが、すべての要素について「犬である」か「犬ではない」かという排中律が成立することになる。

だが、この場合にはラッセルのパラドックスを回避できなくなる。

どうやら、素朴集合論では自分自身を要素とする事態が問題を引き起こしているのではなくて、集合と要素を同列に対象として取り扱うやり方が、排中律を保つために自分自身を要素とする集合というものを必要としているような気がしてきた。

素朴集合論のわかりやすいイメージが作れないかとあれこれやってみているが、調べれば調べるほど素朴集合論の構造が混沌としたものに見えてくる。ひとつ思いつくのは、自分自身を要素としないようなわかりやすい集合を取り上げて、その集合の内包的定義の否定で定義される集合には上で述べたような混沌とした汚れ仕事をすべて押し付けられないかということだが、まだアイディアが湧いてこない。

素朴集合論の「ものの集まりを集合というものと考える」という一見明白な定義と、排中律というこれまた明瞭な公理のふたつだけで、これだけ色々遊べるのは面白い。
# by tnomura9 | 2014-11-16 17:32 | 考えるということ | Comments(0)

図書館目録のパラドックス

図書館のパラドックスというのがある。
ある図書館の書籍の目録をつくることにした。しかし、その目録に載せるのは自分自身に言及していない書籍だけにしたい。

しかし、図書館のそういう書籍を集めて目録を作った時、最後に問題が発生した。それは、その目録をその目録自身に登録すべきかどうかということだ。

もしその目録を登録すればその目録は自分自身に言及しているので、目録に登録するための条件に反する。もしその目録を登録しないとすれば、その目録は自分自身に言及していない書籍になるので、その目録に登録しなければならない。目録を登録すべきかどうかということについてパラドックスが発生してしまうのだ。
このパラドックスに対する答えは、その目録も含めた、その図書館の書籍目録を、図書館の「外に」作ればいいのだ。図書館の蔵書の中にはそういう目録を作ることはできないが、図書館の蔵書以外にはそれは可能だ。

全ての書籍は、「自分自身に言及しているか」または「自分自身に言及していない」かであるはずなのに、「自分自身に言及していない書籍」の目録をその図書館内に作ることはできない。それは、その目録自身が「自分自身に言及していない書籍」になるからだ。

目録を作成する前は、図書館の蔵書には目録という書籍はなかった。その状態の時は、確かに図書館の蔵書は自分自身に言及している書籍と、自分自身に言及していない書籍の2種類に類別することができていた。しかし、自分自身に言及していない書籍の目録を作成した時、図書館の蔵書には、その目録という新しい書籍が発生したのだ。この新しく発生した書籍に問題がありパラドックスが発生してしまった。

パラドックスにはならないが、「自分自身に言及している書籍」の目録についても同じようなことが言える。そういう目録は図書館には存在していなかった。しかしそういう目録を作成した時、最後に自分自身を登録すれば矛盾なく図書館の蔵書として存在することができる。その場合でも、その目録が図書館の蔵書には元々なく新しく作られた書籍であるということには変わりはない。書籍を集めて、「書籍の集まり」という書籍を作る時、その書籍についての自己言及の問題が必然的に発生する。

書籍の集合を表す目録という書籍を他の書籍と同列に考えると、書籍の集合である目録という書籍には必然的に自己言及の問題がつきまとうことになる。

これは、「赤い表紙の書籍」の目録のような普通の集合という目録についても同じである。自己言及のテストも通過して、普通に書籍として図書館内に存在できるが、「赤い表紙の書籍の目録」という書籍が図書館に最初から存在していたわけではなく、赤い表紙の書籍の集まりを考えた時に目録として新たに作られたことには変わりない。もし、この目録の表紙が赤ければ、この目録には自分自身が登録されるし、もしこの目録の表紙が赤くなければ、この目録は自分自身に登録されないだけである。

このように、集合を表す目録の書籍には常に自分自身を要素として含むか、自分自身を要素として含まないかという問題がつきまとっている。

集合を「ものの集まり」という「もの」として、「もの」と同列に扱う時、集合には自己言及に関連する要素が必ず付随してくる。つまり、集合は「自分自身を要素とする集合」と「自分自身を要素としない集合」に二分される。

集合を物の集まりという「もの」として、素朴集合論のように、集合を集合ではない個体と同列に論じる場合、この自己言及は必然的に発生してしまう。

さて、「素朴集合論には矛盾が存在する」という点についてだが、ここでいう「矛盾」とは排中律が破られるということだ。命題 A が正しく、¬A が同時に正しければ、全ての命題が真になってしまって、数学がなりたたなくなってしまう。ラッセルのパラドックスが数学の危機と考えられたのも無理はない。

それでは、素朴集合論の公理のどこに排中律を破る瑕疵があるのだろうか。ラッセルのパラドックスが内包公理の自己言及によって起きているのは明らかだ。内包公理とは、述語 P(x) を真とする要素 x を集めたものは集合を形成するという公理だ。つまり、

A = {x| P(x)}

である。P(x) はどのような要素 x に対しても排中律から必ず真であるか偽であるかのどちらかであることが要求される。P(x) が「x は赤い表紙である」という述語であれば、どの書籍を x に当てはめても真偽が確定されなければならない。ラッセルのパラドックスは「x は自分自身を含まない集合である」という排中律を満たす述語を使用しながら、この述語 P(x) が集合 A に適用された時、P(A) が真とも偽とも定めることができなくなり、パラドックスを発生させてしまうのだ。

いいかえると、排中律を満たす(はずの)述語に対し、その述語をその述語が定義する集合自身に適用した時にその命題は真とも偽とも言えずパラドックスになってしまうというのが問題だということだ。

述語の自己言及は、ものを集めた集合にその述語が適用されるためにおきる。そこで、述語で集められるものの集まりと、それによって定義される集合とを分けて考えてみよう。これはものの集まりと集合を峻別する階梯理論の立場をとるという訳ではなくて、定義される集合をものと考えて述語を自己言及する前の状態でちょっと止まって考えてみようということだ。

上の集合の内包的定義を再掲してみる。

A = {x| P(x)}

これを、P(x) を充足する要素で A 以外のものを集めたものととして見てみようということだ。つまり、A は A 以外の元々あった「もの」で P(x) を集めたものの集まりだ。これは、P(x) を A に適用していないので、P(x) を充足するもので A 以外の全ての要素の集まりである。カントールが集合を考えだした時も、このような集合ではなかったのだろうか。ものの集まりを集合というものと考える時、その集合自身がその要素になるなどとは考えなかったに違いない。

しかし、集合 A をものと考える限りは、それは述語 P(x) で試験されなくてはならない。つまり、P(A) の真偽が問われることになる。この際に、P(A) が偽であれば、A は右のカッコの中には入らないので、問題は起きず内包的定義による集合の要素は確定する。しかし、P(A) が真であれば、当然 A も右のカッコの中に含まれないといけない。つまり、

A = {x| P(x)} = {x1, x2, ... }

のとき P(A) が真の場合、上の定義は次のようになる必要がある。

A = {x| P(x)} = {A, x1, x2, ... }

しかし、ここで問題が発生する。すなわち、上の定義では A は二つの定義で定義されることになってしまう。すなわち、P(A) が真であるという条件と、A が A の要素であるための条件の二つだ。

「x は自分自身に言及しない書籍である」という述語を満たすという条件と、自分自身が自分自身の目録に登録されているという条件の間にコンフリクトが起きた時にパラドックスが発生する。この場合自分自身が目録に言及されてしまうと、その目録は自分自身に言及しない書籍の目録にはなりえないから、この目録に目録自身を登録することはありえないが、まさにそのことによって、自身が自分自身に言及しない書籍になってしまう。

しかし、これを図書館の外部から観察すると、図書館の書籍は「自分自身に言及する書籍」と「自分自身に言及しない書籍」の二つのグループに完全に分かれ、排中律が成立していることが分かる。図書館の蔵書の中で、「自分自身に言及しない書籍全て」の目録が存在しないだけだ。

ラッセルの集合は集合の世界には存在できない。それは、

R = {x| x /∈ x}

という定義でラッセルの集合以外の「自分自身を要素としない集合」を全て集めても、ラッセルの集合自身はパラドックスを発生してしまうからだ。しかし、集合の世界の外から眺めると、ラッセルの集合以外の「自分自身集合としない集合」とラッセルの集合を合わせると、「自分自身を要素としない集合」の集合を作ることができる。「自分自身を要素としない集合」の集まりは、排中律と矛盾せずに存在できる(かもしれない)。

「ものの集まりを集合というもの」と考える集合をものと同列に扱う定義は、内包的定義の自己言及を引き起こし、「自分自身」という集合を定義するときにはなかった要素を発生させる。このことが、内包的定義の述語が排中律に従っているにもかかわらず、集合を定義できない場合を引き起こす。しかし、その場合も要素とその集合を要素とする領域を考えた場合、その領域(集合)の外からは、自己言及的な内包的定義についても、排中律をみたす集まりを考えることができる。
# by tnomura9 | 2014-11-16 10:30 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論の復権

「ものの集まりを集合というものと考える」という素朴集合論の一見自明な簡潔な定義は、しかしながら、ラッセルのパラドックスという深刻な矛盾を招いてしまう。そこで、その矛盾を解消するために、公理的集合論が考案されたが、抽象的になって素朴集合論のようなイメージの簡明さを失っている。

この記事では、素朴集合論が単純な有向グラフとして完全にモデル化できることを示し、この有向グラフが、自然にラッセルのパラドックスを排除できることを示す。素朴集合論は有向グラフとしてモデル化することによって、その全体が直観的に理解できるようになる。

1.集合という対象

まず、一匹の犬、一個の飴のように個体として認識できるものを対象と呼ぶことにする。対象は、こういう具体的なものに限らない。たとえば、犬の個体を全て集めた「犬の集合」は概念であり、目に見えないがこれも一個の対象と考えることができる。数の 1 や 2 のようなものも厳密には概念だが、ひとつの数として対象として扱うのが便利である。そこで、上述した集合の定義を言い換えて「対象の集まりを集合という対象であるとする。」と定義する。

2.集合は自分自身を要素とするか?

ラッセルのパラドックスでは、全ての集合は「自分自身を要素とする集合」と「自分自身を要素とはしない集合」という二つの集合に二分されるという仮定から推論された。たとえば、全ての動物のうちから犬を集めて、「犬の集合」をつくるとする。つまり全ての対象に対して「これは犬であるかどうか」と問い、犬であると判断したものだけを集めたものが犬の集合である。しかし、全ての対象に対して「犬であるかどうか」と問われるのであれば、「犬の集合」自身が犬であるかどうかが問われるだろう。「犬の集合」は「犬の集合」を要素としては含まないので、これは「自分自身を要素として含まない集合」である。一方「犬でないものの集合」を考えてみると、「犬でないものの集合」は犬ではないので、これは「犬でないものの集合」の要素となる。すなわち、「犬でないものの集合」は「自分自身を要素とする集合」であるということになる。

しかし、犬という対象を全て集めた時に「犬の集合」が出現する。「犬の集合」は確かに対象とみなすことができるが、しかし、それは犬の集合を定義する前には対象としては存在していなかったはずだ。「犬の集合」を定義するまでは存在していなかった「犬の集合」という対象を「犬の集合」の要素として考えるというのは問題がある。対象を集めて作られた「犬の集合」という対象は、定義によって、「新しく生まれた」対象である。これは、a が自然数ならば a + 1 は自然数であるという、ペアノの再帰的定義のように、再帰的定義によって新しく生まれた集合という対象と考えるべきだ。したがって、集合 A が集合 A の要素として含まれるかという問はナンセンスである。集合 A は自分自身を要素としては含み得ないと考えるのが自然だろう。

3.素朴集合論は有向グラフで表現できる。

ただし、「犬の集合」を対象のひとつとして認めることで、個体の犬と同列に扱うことができるようになる。したがって、集合を含めて全ての対象は有向グラフのノードとして均一に扱うことにする。このノードの中身を覗くことはできない。その代わり、対象と対象の間に要素と集合の所属関係を表す射を考える。つまり、A ∈ B ならば、A -> B である。また、集合 A の要素の全体は所属関係の射の domain の対象を全て調べることで知ることができる。こうすることで、興味の対象となる全ての個体と集合とその所属関係を有向グラフとして表すことができる。この有向グラフでは個体と集合は同じ対象として扱われ区別されない。

4.全ての集合の集合は有向グラフに記述できるか?

ここで、興味がでてくるのは、これらの対象全てを集めた集合という対象があるかどうかということだ。そこで、これらの全ての対象を集めた集合を考える。これは、このグラフの一つの対象であり、グラフのノードとして表現できる。このノードには他の全てのノードからの射を受けている。しかしながら、この対象(ノード)から、送られる射がないのだ。それは、この対象が全ての対象を集めるという操作から生じた「新しい対象」であり、集めるときに存在した全ての対象とは異なる対象だからだ。自分自身への射があれば、それは自分自身を要素として含んでおり、全ての対象を要素とするということができるだろうが、上に述べた集合の定義からそれはありえない。

したがって、「すべての集合を集めた集合」を表す対象は作ることができない。それまでのすべての対象からの射を受ける対象を作ると、その対象は、以前に存在していた全ての対象とは異なる新しい対象になってしまうからだ。

4.集合の定義の再帰性

「対象の集まりを集合という対象とする」という集合の定義が、再帰的定義であったために、どうしても定義の度に新しい対象を発生させてしまう。全ての対象を集めた集合は作れない仕組みになっているのだ。これが、ラッセルのパラドックスの正体だ。上の定義では集合は自分自身を要素としないのだから、「自分自身を要素としない集合の集合」とは単に「全ての集合の集合」ということだ。それは、集合の定義の再帰性のため作ることができない。

この辺りの事情は自然数には最大数は存在しないという議論ににている。最大数を N と仮定しても、再帰的定義から N + 1 はそれより大きい自然数になってしまう。全ての対象を集めた集合も定義の度に新しい対象を発生させてしまうので、集合の有向グラフでは、全ての対象からの射をうける対象を見つけることはできない。

5.素朴集合論と排中律

次の疑問は、このような有向グラフに排中律はどのように関わっているかということだ。全ての対象は、「犬の集合」と「犬の集合ではないものの集合」に分けることができるのだろうか。それに対する答えは簡単だ。全ての対象を集めた対象ができないのだから、「犬の集合」ではない対象の集合を作ることはできない。それは、犬の集合に含まれる対象とそれ以外の対象という分け方をしても同様だ。述語命題の述語は個体や集合として確定している対象についてのみ適用できると考えるべきだ。排中律は述語命題の述語が適用可能な場合に必ず真か偽のどちらかであるという意味であると考えられるべきだ。これは整数が偶数か奇数のどちらかであるが、無限大については偶数とも奇数とも確定できないのと似ている。

集合は内包的定義では、自分自身を要素とすることはないという制限をかけた素朴集合の世界では、そのどの対象をとっても「犬である」か「犬ではない」かであるという排中律は成立するが、「犬の集合」と「犬ではないものの集合」に二分することはできない。「犬ではないものの」集合は作れないからだ。

素朴集合論の全体を有向グラフとして表現することで、ラッセルの集合「すべての集合の集合」は自然に除外される。また、排中律は対象(すなわち個体と集合と定めることのできる対象)についてのみ適用できることが分かる。このような観点からは、素朴集合論には何らの矛盾点もみられない事が分かる。


追記(集合の定義の再帰性について)

集合の定義とペアノの公理の類似点は、集合を次のように定義すると良く分かる。

1.個体は集合である。
2.集合の集まりは(そのメンバーには一致しない新しい)集合である。

ペアノの公理の場合のように、集合を集めて定義することで、それまでの集合にはない新しい集合が定義される。ペアノの定義では最大数というものはない。N が最大数であると仮定しても、N + 1 はそれより大きい自然数になるからだ。集合の定義の場合も、それまでの集合を全て集めて集合を作っても、その集合はそれまでの集合にはない新しい集合であるから、「全ての集合の集合」を作ることはできない。

この観点から見ると、クラスの意味がはっきりする。クラスとは内包的定義で集合を作ると、その集合がその要素には含まれない新しい自身の内包的定義を満たすような構造である。このような構造では、内包的定義を満たす全ての集合を集めた集合を作ることはできない。

「全ての集合の集合」のようなクラスは、自然数のような無限集合とは異なる。自然数の再帰的定義はあくまでも自然数という集合の要素を作るが、クラスの場合は新しい集合ができてしまうので、集合という概念でまとめることができない。それは、要素の無限性ではなく、概念の無限性を体現しているからだ。

ラッセルのパラドックスは、このような集合の定義の再帰性を無視していたための現象だ。


追記その2(素朴集合論と排中律の関係について)

ラッセルのパラドックスで問題視されたのは集合の内包的定義の無制限な適用だった。しかし、ラッセルのパラドックスの問題点が集合の再帰的な定義であることが分かったので、内包的定義の制限は公理的集合論のものより緩める事ができる。

すなわち、内包的定義で集合を定義する場合、定義された集合がその内包的定義を充足しなければ、それは集合として認められるということだ。定義された集合が内包的定義を満たしてしまう場合、それは集合ではなくクラスとなる。また、内包的定義で定義すると、それは集合かまたはクラスのどちらかになる。

内包的定義では、全ての対象について述語 P(x) を充足するものを集めたものが集合であるとする。この場合述語 P(x) は x の値によってその振る舞いを変えてはならない。床屋のパラドックスのように述語 P(x) が x の値によってその振る舞いを変えるときは、述語 P(x) を用いて集合を定めることはできない。

述語 P(x) の振る舞いが x の値とは独立している時は、全ての対象は、述語 P(x) を真とするか、偽とするかのいずれかになり、排中律を充足する。つまり、全ての対象 x について P(x) が真であるか、P(x) が偽であるかのどちらかが成立する。

このとき、定義された集合は、排中律から P(x) を真とするか偽とするかのいずれかである。このように述語について排中律が成立しているにもかかわらず、矛盾が起きてしまうのがラッセルのパラドックスであったが、集合の定義の再帰性を考慮に入れると、内包的定義で集合を定めることができるのは、このうち、定義された集合が内包的定義を充足しないものであるということがわかる。しかし、述語で定義された集合が内包的定義を充足する場合もある。この場合は、内包的定義で集合を定義することはできず、定義されるのはクラスである。

したがって、内包的定義の適用を集合の要素の集まりに対して行われない時は、内包的定義を充足する集合と内包的定義を満たさないクラスに二分することができる。あるいは、内包的定義がクラスを定義するときは、その否定命題で集合が定義される。

一方、内包的定義が集合の要素に限定されているときは、必ずその定義を充足する集合と充足しない集合に二分できる。なぜなら、充足しない要素の集まりは、集合の部分集合であることが分かっているからだ。たとえば、「動物の集合」について「犬でないものの集合」を考えたとする。そうして定義された「犬でないものの集合」は「犬ではない」が、「犬でないものの集合」は「動物」ではない。したがって、動物の集合の要素に対して内包的定義を適用された場合は述語を充足するものも充足しないものも集合を作ることができる。

このように、集合の定義の再帰性に着目し、集合とクラスを混同しなければ、述語についての内包的定義は排中律に関して矛盾を発生させずに、集合を定義できる。


追記その3(アイディアの骨子)

この記事の考察の目的は、素朴集合論にラッセルのパラドックスを起こさせずに排中律を適用することだ。そのアイディアの骨子は次のようになる。

1.まず、対象を集めて作った集合は、集めた対象のどれとも異なる新しい対象であるということを明確にしておく。集合の定義は本質的に新しい対象を作り出すことだ。この、対象を集めて新しい対象を作り出すという集合の定義の再帰的な性質を明確にすることが、ラッセルのパラドックスを回避する鍵になる。

2.集合を再帰的に定義するということは、集合の定義が一種のアルゴリズムであるということを示している。

例えば犬の集合を作るときも、最初の犬をみつけ、次に2番めの犬をみつけ、次に ... というように全ての犬が見つかるまでこの操作を続けた結果であると考える。

ラッセルの集合の場合も、当面考えられる「自分自身を要素としない集合」を集めた集合を作る。すると、その集合自身が「自分自身を要素として含まない集合」なので、それを新たな要素として集合を作りなおすと、それもまた「自分自身を要素としない集合」になる。

このように、ラッセルの集合の場合は、要素を集めるというアルゴリズムが永遠に終了しないため、最終的な集合を作り出すことができない。ラッセルの集合は、集合の無限大のようなものになってくる。自然数の無限大が自然数ではないように、ラッセルの集合も集合ではないので、無理にこれを集合と考えるとパラドックスが発生する。

3.ある対象は内包的定義を満たすか満たさないかのどちらかであるというのが排中律だ。対象を内包的な定義の基準で集めて集合という新しい対象を作り出すと、その対象は、排中律によって内包的な定義を満たすか、内包的定義を満たさないかのどちらかである。

新しく作られた集合が自身の内包的定義を満たさなければ、要素を集めるというアルゴリズムは停止して、集合が定義される。しかし、この集合が自身の内包的定義を満たしていれば、これを新しい要素として、集合の定義をやり直さなければならない。こうやって、やり直した集合が再び内包的定義を満たしてしまうという状況が止まらない場合は、要素を集めて集合を作るというアルゴリズムは停止できず、いつまでも集合を確定することができない。

この場合、排中律を充足する内包的定義があるにも関わらず、その内包的定義によって集合を確定することができない。これがクラスである。

4.ラッセルのパラドックスはこのような確定可能な集合と、集合として確定するものが作れないクラスを同列に扱ったために発生したものだ。クラスが発生するのは、集合という新しい対象が対象を集めることで創りだされるという集合の定義の再帰的性質が関係している。

5.排中律を充足する内包的定義とその否定命題によって創りだされるのは、2つの集合ではなく、集合とクラスである。このクラスを集合としては扱えないので、ラッセルのパラドックスは自然に排除される。つまり、内包的定義の排中律と素朴集合論の間に矛盾は発生しない。

6.クラスは無限集合とは異なる。無限集合は要素の生成が無限に行われるがそれらは全て集合の要素である。クラスの場合は、集合自体が無限に変化するので、集合を定めることができない。
# by tnomura9 | 2014-11-08 19:47 | 考えるということ | Comments(0)

集合の定義の再帰性について

ペアノの公理を使った自然数の定義は再帰的定義だ。つまり、a が自然数であれば a + 1 も自然数であるという定義の仕方をする。このような再帰的定義では自然数の最大数を求めることができない。なぜならば、最大数が N であると仮定しても、N + 1 という最大数より大きい自然数が発生してしまうからだ。

集合の「対象の集まりは集合という対象である。」という定義も同じような再帰性がある。考えられる全ての(集合を含む)対象を集めても、それらを集めた集合という新しい対象が発生してしまう。したがって、「すべての集合の集合」はつくることができない。それ自身がすべての集合に含まれない新しい対象になってしまうからだ。ラッセルの集合の場合も同じことが言える。考えられる限りの「自分自身を要素としない集合」を集めて集合を作っても、それ自身が「自分自身を要素としない集合」になってしまう。これらすべては、ひとえに集合の定義が再帰的定義であるために起こるのだ。

このような状況に辻褄を合わせようとすると、「全ての集合の集合は自分自身を要素とするはずだ。」などのおかしい議論が出てくる。素人の常識的な感覚から言うと、対象の集まりとしての「集合」はひとつの概念なのだから、それを対象と考えるにしても、自分自身の要素とはならない。そうでないと、対象を集めた途端に、その集合という新しい対象が忽然と出現してくる。集合を定義したと同時にその要素の内容が変わってくるというのは同意できない。集合は自分自身を要素とすることはないと考えるのが自然だ。

集合を定義することによって集合の内容が変わってくるというおかしなことが起きなければ、集合の要素については排中律は完全に機能する。ある集合の要素について、述語を満たす要素からなる部分集合とそれ以外の要素からなる部分集合に類別することはいつでも可能だからだ。

しかし、排中律を再帰的定義によってダイナミックに変化していく集合の外側の世界に適用するとたちまちラッセルのパラドックスのようなものが発生してくる。全ての集合の集合のようなものは、再帰的定義を採用する限り作ることができないからだ。全ての集合の集合は自然数の無限大のようなものだ。自然数は偶数か奇数かのどちらかであるはずだが、無限大はそのどちらとも決めることができない。無限大という自然数はつくれないからだ。したがって、集合の場合も、集合の内部については排中律はいつでも適用できるが、「全ての集合の集合」のようなものに排中律を適用することはできない。「全ての集合の集合」は集合ではないからだ。

このように素朴集合論について、「集合は自分自身を要素とはしない」、「全ての集合の集合は集合ではない」、「排中律は集合の内部にしか適用できない」という付加的なルールをはっきりとさせることで、ラッセルのパラドックスも含まず、排中律も安全に適用できる健全な姿を呈するのではないだろうか。
# by tnomura9 | 2014-11-08 07:29 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論と排中律

前回までの記事で、素朴集合論の世界は対象と所属関係という射からなるメタグラフで完全にモデル化できることがわかった。このモデルでは自分自身を要素として含む集合も表現できるし、「自分自身を集合として含まない集合の集合」も自然に排除できた。それでは、このモデルに排中律が適用できるのだろうか。

つまり、素朴集合論のメタグラフの対象を、ある集合と、その集合ではない対象の集合に二分することができるかということだ。

これに対する完全な解答は思いつかないが、自分自身を要素とする集合を集合とは認めないような、集合論のメタグラフについては面白い結論が得られる。

例えば、メタグラフの対象Aを一つとると、これは集合である。そうして残りの対象の全てはこの集合ではない対象である。したがって、排中律から集合のメタグラフの対象の全体はこの集合 A と A ではない対象の集合に分けられるはずだ。そこで集合 A 以外の対象を集めた集合を B とする。B には A 以外の全ての対象からの射が向けられているはずだ。ところで B には A 以外の全ての対象からの射が向けられているので、当然 B からの射もなければならない。しかし、この場合 B は自分自身を要素とする集合となってしまい、自分自身を要素としないとする集合の定義に反する。したがって、A 以外の全ての対象をあつめた集合 B は定義できない。

集合のメタグラフに排中律を適用しようとしても、集合Aと「集合Aではないものの集合」に分けることはできない。集合 A 以外の対象を一つの集合にまとめることはできないのだ。メタグラフを集合 A と「集合 A 以外の対象の集合」に分けようとしても分ける事ができない。

素朴集合論のメタグラフは、本当に排中律と相性が悪い。それは、物の集まりを集合という一つの対象とみなすという、集合の根幹的な考え方から発生しているようだ。要素の集まりを集合という対象とみなすことによって、無限に新しい集合が発生してしまうためだ。
# by tnomura9 | 2014-11-07 23:33 | 考えるということ | Comments(0)