自然数と実数の全単射がないことを証明したカントールの対角線論法は二つの無限の濃度差を鮮やかに示したが、その濃度差がどのくらいなのかを示してはくれない。つまり、自然数と実数の濃度差が一点だけなのか、それとも無限にあるのかということである。
そこで、カントールのやり方を少し変えて、自然数と実数の対応をつけるたびに実数を整列するようにしてみた。これは挿入ソートを利用すれば無限の自然数に対しても可能である。 カントールの方法では自然数 n と0以上1未満の実数 an の対応を自然数の順に次のように並べていた。 0 : a0 1 : a1 2 : a2 ... n : an ... しかし、これは n に対応する an が決まるたびに挿入ソートによって次のように実数の大きさ順に並べ替えていくことができる。 i : ai j : aj ... 0 : a0 ... n : an もちろん、このやり方では自然数 n の列は n に対応する an が決まるたびに変化していく。しかし、どんなに変化しても変わらないことがある。すなわち、隣り合う ai と aj の値が異なる限り、その間に自然数と対応していない実数が必ず存在するということだ。n の数は無限に大きくしていくことができ、n が増すたびに実数の an の列は変化していくが、どの n についても n までの自然数に対応する実数列の間に最低 n - 1 個の実数が存在する。これは、n を無限に大きくしていけば自然数と実数の濃度差が無限に大きくなるということを示している。 なぜこのようなことが起きるかというと、実数を無限小数で表現してもそれは実数の一点を示すことができず、実数の一点の存在する範囲を示しているに過ぎないからだ。つまり、カントールの対角線論法は、実数の一点が無限小数で表現できるという不十分な仮定から出発していることを示している。実数を無限小数で表現しても、それは実数の一点を表してはくれない。無限小数が完了しない限りそれは一点としては認められず、一点の存在する範囲しか示してくれないからだ。 実数の一点が無限小数で表現できない限り、自然数と実数の「一点」の全単射を考えることはできない。自然数と実数の間に全単射ができないというカントールの定理は誤ってはいないが、実数の無限小数表記と自然数の一点の違いを無視することになってしまっている。これはゼノンの飛ぶ矢のパラドックスにも似て、多少の居心地の悪さを感じさせる。 無限に増大する自然数を全て集めて自然数の集合と考える実無限の考え方は便利で、現代数学の壮大な建築群もこれなしには築くことができないだろう。しかし、実数の一点を無限小数で表記してしまうことは、実無限の誤った使い方を誘導してしまうのではないだろうか。このことは、実無限の考え方が誤っているということを示しているという訳ではないだろう。しかし、実無限をつねに可能無限とのペアで考える慎重さは必要なのではないだろうか。
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by tnomura9
| 2015-09-30 04:41
| 考えるということ
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ラッセルのパラドックスに現れるラッセルの集合のような真のクラスほど理解し難いものはない。述語 P(x) を充足する要素の集まりは確かに存在するのに、それを全て集めたものは集合にならず、他の集合の要素にもならないというのは納得できない感じがする。
世界の森羅万象は述語 P(x) を充足するか、充足しないかのどちらかであるという排中律には何の問題もないように見えるのに、「P(x) : x は自分自身を要素として含まない集合」を充足する集合の集合を考えるとパラドックスになってしまう。 これが人間の知性の限界を示している、人間にはどうしても理解できない領域が存在するのだと神秘的に感動してもいいかもしれないが、一体どのような述語は集合を定義できて、どのような述語は集合を定義できるのだろうかという疑問が浮かぶのは当然だ。 もうこのブログでしつこいように考察したテーマなので、簡単に要約すると、述語で定義した集合はそれ自身が述語を充足する場合と充足しない場合があるということだ。排中律的にも問題ない。これは述語で定義された集合それ自身が自分自身の要素として含まれるという意味ではない。述語で定義された集合が自分自身を要素として含まないにもかかわらず、それ自身がその述語を充足してしまうという場合だ。 集合が述語を充足しない場合は述語による内包的定義には何の問題点も発生しない。実際、集合とはそのようなものの集まりだ。 しかし、内包的定義で定義された集合それ自身が述語を充足する場合は、内包的定義では集合を定義できない。なぜなら、A = {x| P(x)} のとき P(A) が真の場合、A は A 自身の要素でなくてはならなくなる。だからといって、A が A 自身の要素となるような集合は色々な意味で好ましくない。A は自分自身を要素としては含まないと考えるべきだ。A は自分自身を含んではいないが、内包的定義で作り上げた集合が述語を充足してしまったというような場合だ。 ただし、この場合は A は P(x) を満たす全ての要素を集めた集合とは言えない。A に含まれない自分自身という要素があるからだ。そこで、A' = {A, a, b, c, ... } のように A の要素とAを加えて新しい集合 A' を作ってこれを述語 P(x) による内包的定義を満たす集合と考えることにしたらどうだろうか、しかし、残念ながら A' も P(x) を満たすつまり P(A') が真となるような述語が存在するのだ。「自分自身を要素として含まない集合」という述語や「犬でないものの集合」という述語がそうだ。このような述語では P(x) を充足する要素を集める操作を無限に続けても集合を作ることができない。無理にそういう集合を仮定するとラッセルのパラドックスのような矛盾が発生してしまう。このような場合は述語は集合を定義できず(真の)クラスを定義してしまう。 ところで、述語 P(x) によって集合が定義できる場合と、定義できない場合があるとなると、困ったことが起きる。それは排中律が保証されなくなることだ。世界は P(x) を充足するものとそうでないものに排他的に類別されるはずなのに、それが不可能になる。この場合、述語 P(x) によって定義されるものが集合ではなく、集合と真のクラスを包含した要素の集まりであるクラスであると考えることだ。こう考えると述語 P(x) によって森羅万象は P(x) を充足するクラスとそうでないクラスに分けることができる。 それでは集合とクラスの違いはなんだろうか。それは、集合は A = {x| P(x)} という内包的定義で集合 A という個体を定義できるため、それが他のクラスの要素となることができるということだ。一方真のクラスの方は {x| P(x)} という内包的定義で要素の集まりは定義できるが、それを A = {x| P(x)} という集合 A にまとめようとしてもできない。真のクラスを表す A という記号を作ることができないのだ。このためクラスはそれを他のクラスの要素とすることができない。 以上が述語による内包的定義についての集合とクラスの定義だ。これは、ものの集まりとしての集合というより述語 P(x) の性質による定義だ。 しかし、集合の定義には者の集まりという見方からの定義がある。この定義はゲーデルの構成的集合の考え方からもたらされる。つまり空集合 φ から始まって、ものを集めて集合を作るという操作でできたもののみが集合であるという定義法だ。ランク α までに作られた集合すべてを集めた集合を R(α) とすると、R(0) = {φ}、R(1) = { φ, {φ} }、R(2) = { φ, {φ}, {{φ}}, {φ, {φ}} }、... と次々にランクが上がるごとに集合が増えていくが、R(α) の要素はランク α までにはっきりと集合であると定義された集合である。言い換えると構成的集合とはどのランク α でもよいが、R(α) に含まれる要素であるものだ。また、明らかに構成的集合はすべて有限集合である。 このような構成的集合の特徴は何が集合であるかがはっきりと定義されているということだ。述語の内包的定義による方法では述語の性質によって集合が定義されたり、真のクラスが定義されたりしたが、構成的集合では何が集合であるかは、述語によらずはっきりしている。第一、構成的集合の造られ方の中に述語は存在しない。この構成的集合にもはたして集合にならない真のクラスは存在するのだろうか。 実は、構成的集合の中にも真のクラスは存在する。それは「有限集合全てを集めた集合」というクラスである。 R(α) を考える時 α は無限に大きくしていくことができる。しかし、どのように大きく α をとったとしても R(α) の要素数は有限である。ところが、有限集合全てを集めた集合の要素数は無限であるはずだ。なぜなら、そのような集合の要素数を n とすると、要素数が n より大きい R(α) を取ることができる。しかし、R(α) の冪集合を考えると、その冪集合の要素の中には R(α) に含まれないものが存在する。これは R(α) が有限集合全てを集めた集合であるという仮定に反する。したがって、「有限集合全てを集めた集合」の要素数は無限でなければならない。ところが、構成的集合は全て有限集合である。したがって、「有限集合全てを集めた集合」は構成的集合ではなく真のクラスである。その場合でも、あきらかにどのような有限集合をとっても、α を適切にとって R(α) の要素とすることができる。すなわち、「有限集合」は無限に存在する。つまり、「有限集合」の(要素の集まりという意味の)クラスは定義できる。 集合を述語による内包的定義からとらえた場合も、集合をものの集まりというものという観点からとらえた場合も、集合として定義できないクラスが存在することが分かった。このようなクラスは他の集合の要素となることはできないため、真のクラスであるラッセルの集合は自分自身の要素となることはできず、ラッセルのパラドックスは発生しない。このような真のクラスがどのような生態をしているのかを内包的述語による集合の定義の立場からと、物の集まりを集合とするという集合の定義の視点からとで考えてみた。 論理における排中律は、内包的定義が(集合ではなく)クラスを定義すると考えることで、集合の世界に持ち込むことができる。また、クラスのなかでどのような物が集合となり、どのようなものが真のクラスになるのかを考えると、ラッセルのパラドックスを回避することができる。 ものの集まりは全て集合であると単純に考えることができない理由は、集合はものの集まりというものであるという集合を個体と考える定義によって発生するのは以前の記事で述べた。 また、この記事とは直接には関連しないが、前回の記事で述べたように構成的集合には無限集合は含まれておらず、集合の世界に無限集合を持ち込むためには、自然数の全てを集めたものは集合であるという公理が必要だという考え方も面白いのではないだろうかと思う。実無限が正しいのか、可能無限が正しいのかという議論をよく目にするが、自然数の全てを集めた集合が存在するという実無限の考え方を導入することによって、ものの集まりという集合の世界の広がりが格段に増すことがわかる。実無限の考え方と可能無限の考え方はお互いに補い合いながら集合の適用範囲を格段に広げてくれているのは、昨今のコンピューターの発展をみれば一目瞭然だ。 ラッセルのパラドックスを端緒に作成した一連の記事は、素朴集合論に矛盾があったから公理的集合論で矛盾の解消を解決したという数学の説明に納得がいかなかったからだ。矛盾があるのならどうしてそのような矛盾が発生してくるのか、どうすればその矛盾を解決するのかについての視覚的なイメージが欲しかった。数学の専門家ではないので論理だけで説明されても辛い。専門家でなくても分かるようなイメージのモデルがほしかった。 色々と考えたり参考書を読んだりして分かってきたのは、物の集まりとそれを集合という対象として考えるという定義や、全ての自然数の集まりは集合であるという実無限の単純な定義から、集合の世界の複雑な構造が導き出されるているということだ。集合の定義の単純性とそれから構築されるジャングルのような複雑な構造が面白かった。 ラッセルのパラドックスの記事が続いてしまったが、一応今回の記事でおしまいにしたい。このブログのラッセルのパラドックスに関する一連の記事は、あくまでも素人がふらりと数学の世界を訪れてさまよっている状態のレポートなので、これが正しいのかどうかは何の保障もない。おそらく致命的な多くの誤りを含んでいるだろうがそれを知る縁もない。しかし、色々と考えるのは面白かった。SFの一種と思って楽しんでいただければ幸いだ。 #
by tnomura9
| 2015-09-27 18:12
| 考えるということ
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ゲーデルの構成的集合は空集合 φ から初めて、ランクを一つ上がるごとに、現在のランクの集合を元にした集合を追加していく。
たとえばランク 0 の集合は φ だ。ランク 1 の集合はこれを作って {φ} を作ることができる。すでにある φ も含めてランク 1 以下の集合からなる集合 R(0) を考えると R(1) = {φ, {φ}} である。同様の手続きで R(2) = {φ, {φ}, {{φ}}, {φ, {φ}}}, R(3) = {φ, {φ}, {{φ}}, {{{φ}}}, {{φ, {φ}}, {φ, {φ}}, {φ, {{φ}}, {φ, {φ, {φ}}}, {{φ}, {{φ}}}, {{φ}, {{φ}, {φ, {φ}}}, {{{φ}}, {φ, {φ}}}, {φ, {φ}, {{φ}}}, {φ, {{φ}}, {φ, {φ}, {φ, {φ}}}, {φ, {{φ}}, {φ, {φ}}}, {{φ}, {{φ}}, {φ, {φ}}}, {φ, {φ}, {{φ}}, {φ, {φ}}}, R(4) = { .... }, ... とR(α) の数は2αで増えていく。また集合 A のべき集合を P(A) とすると、 R(α+1) = P(R(α)) である。 このように R(α) の要素の集合はランクを上がるごとに無限に増えていくが、しかしどのように α が増加したとしても R(α) の要素は有限集合である。ここまでのやり方では無限集合を作り出すことができない。 そこで、無限集合を定義するためにトリックが使われる。全ての自然数の集合 ω = {0, 1, 2, ..., } を自然数の無限大の次に来る数と考えて R(ω) を考えることにするのだ。つまり、0, 1, 2, ... , ω と考える。無限に存在する自然数を集めて集合を作れるかどうかは自然数をランクとする構成的手法では導きだせない。その手法で作られる集合は全て有限集合だからだ。したがって、ω が集合であると考える根拠はなく、そういうものとして考えましょうという公理であると考えるべきだ。つまり、ものの集まりは集合であるという公理のほかに、自然数全体のあつまりは集合であるという第2の公理が暗黙のうちに仮定される。 このωを使って R(ω) を考えると、R(ω) の要素の中にはめでたく、自然数の集合を始めとする無限集合が含まれることになる。それだけでなく、R(ω + 1)、R(ω + 2)、... と自然数の無限の地平を超えてさらに遠くに集合の世界を広げていくことができる。 このように「ものの集まりは集合というものである」という定義は、「自然数の全てもまた集合である」という無限集合の公理を得て、集合の概念が無限の要素を含む無限集合に拡張されることになる。 自分自身の部分集合と全単射を作ることができるという自然数の集合の不可解な性質は、有限集合には絶対にみられない。これは、自然数の集合という無限集合が有限集合を拡張するものとして新たな公理によって定められた約束事であるからではないか。
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by tnomura9
| 2015-09-26 18:38
| 考えるということ
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集合にはものの集まりとしての定義と、ある性質を満たす要素の全体としての定義の二つがある。
たとえば、目の前に色とりどりのボールがあるときに、赤いボールだけを一つずつ集めるとそれは「赤いボールを集めた」集合になる。また、ボールの赤いという性質に注目すると、「赤いボールの集合」について考えることができ、それも集合だ。前者は実際にボールを集めてきて作った集合だが、後者は「赤いボールを集めると集合になるだろう」という判断だけで実際にボールを全て集めた訳ではない。有限集合の場合はこの二つの定義方法の結果は一致するので問題ない。実際に数え尽くすことができるからだ。 しかし、無限集合の場合は事情が少し異なってくる。たとえば、自然数の集合の場合について考えてみよう。自然数は有理数や実数とはあきらかに異なるので、自然数全てを集めた集合を考えるのは明白なような気がする。しかし、自然数を 1, 2, 3, ... と集めていってもいつまでも自然数全体には達しないのだ。自然数の集合については、そういうものがあるという判断だけで、自然数全体を集めることはできない。内包的定義に対応するものの集まりを提示することができない。 無限集合とはそういうものなのだろうが、有限集合の場合と違ってふたつの定義法による集合が一致するという保証はない。有限集合の性質、たとえば一対一対応による要素数の比較が無限集合にも適用されるという保証はないと考えた方がよいのではないか。あるいは無限集合にも有限集合の場合のような一対一対応があると考えてもいいかもしれない。しかし、どちらの場合もそれを確かめる方法がない。 無限集合にもののあつまりとしての性質と内包的定義による集合の定義とのすり合わせを行いたいと思っても、たとえばゲーデルの構成的集合についてもその体系の中に無限集合を持ち込むには、集合の構成法から無限集合を作り出すのは不可能で、どうしても無限集合の存在を公理として持ち込まなければならない(ような気がする)。無限集合とは結局のところ約束としての公理によって取り扱うことしかできない存在なのではないだろうか。
ラッセルのパラドックスも集合とクラスのどこが違うのかがはっきりと分かれば落ち着くのだろうが、集合とクラスの違いを構成的集合で理解するのは不可能で、あくまでも述語の性質の観点からのアプローチが必要なのだろう。 結局のところ集合とクラスを分ける条件とは次のような表現になるのではないだろうか。 述語を P(x) とするとき A = {x| P(x)} について P(A) が偽となる場合 A は集合である。また、任意の P(ai) が真である ai について、A' = {a1, a2, .., ai} を作った時 p(A') が真となる場合 A = {x| P(x)} は真のクラスとなる。 例えば「全ての集合の集合」の場合を考えてみる。任意の集合を集めて作った集合 A' はそれ自身が集合である。どのような A' を作ってもそれは全て集合になるので「全ての集合の集合」は集合ではなく真のクラスでありこれは他の集合の要素とはならない。 #
by tnomura9
| 2015-09-25 08:32
| 考えるということ
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この記事は正統的な理解とは異なるので誤りである可能性が高いと思うが、疑問に思ったので書いておく。
公理的集合論では空集合 φ を 0 と見なす。それを出発点に再帰的定義で自然数を作り出していく。すなわち 0 のみを要素とする集合 {0} を 1 とみなす。また、0 と 1 の集合 {0, 1} を 2 とみなす。φ を使った表記では 2 = {φ, {φ}} である。こうして次々に自然数を作っていくが、自然数全ての集合 {0, 1, ..., n, ... } も集合であるのでこれを ω と表す。そこで、0, 1, 2, ..., ω を要素とする集合を考えると ω + 1 = {0, 1, ..., n, ..., ω} を考えることができるとされている。 しかし、ゲーデルの構成的集合を集合と考えることにすると、ω はどの R(α) にも見つけることはできないのだ!!つまり ω は構成的集合ではなく真のクラスと言えるのではないだろうか。そうだとすれば、ω は他の構成的集合の要素となることはできないので、ω + 1 を考えることはできなくなる。 また、ω が集合でなければ自然数全てを集めたものも集合と考えることはできない。無限集合についての考え方を根底から考え直す必要がでてくる。 この考え方は正統的な考え方とは異なるのでおそらく誤っているのだろうと思うが、不思議なことだ。 追記 この論法でいくと構成的集合は有限集合しかないような気がする。どの R(α) についても R(α) に含まれる構成的集合は有限集合だからだ。α は無限に大きくしていくことができるが、どの時点でも R(α) に含まれる構成的集合の要素は有限である。 多分、構成的集合の捉え方に何か誤解しているところがあるのだろう。やはり、公理的集合論は手強い。
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by tnomura9
| 2015-09-22 18:17
| 考えるということ
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