空のマインドマップ

マインドマップを作ってみると、知識というものが、項目と項目のネットワークで構成されていることが分かる。

それでは、マインドマップの丸印のなかの項目を隠してしまったらどうなるだろうか。ラベルのついていない丸印と線だけのマインドマップはその知識の構造を表している。

たとえば、単純な木構造の知識は、部分木の集合からなっているし、TCAサイクルの化学反応の図式は、アセチルCoAによって注入されたアセチル基が化学反応のサイクルの間で消費され、3分子のNADHと1分子のGTPと1分子のFADH2を産生するという機能の概略を表している。

マインドマップを構造という観点から見直してみると、意外に多くの知識が似たような構造になっていることに驚かされる、と言うより、ほとんどが階層構造なのだ。階層構造の知識と言うのは、互いに無関係な部分に分割できるということなのだ。それだけ、知識の相互関係が整然としていて単純なのだ。

それとは逆に、階層構造にならず、ループやフィードバックなどの相互作用のある知識構造は、全体の振舞が複雑でそれゆえ理解が難しいと言える。

いずれにせよ、知識の構造に注意を払うことによって、その知識をマスターするための戦略がたてやすくなるだろう。
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# by tnomura9 | 2005-09-18 10:18 | 考えるということ | Comments(0)

生涯ノート

一生のうちに考えたこと全てを記録するノートを作ると面白いかもしれない。

毎日毎日思いついたことを一冊の大学ノートに記録する。ジャンルはごちゃ混ぜで構わない。ジャンル別のノートが必要ならコピーして製本すれば良い。ルーズリーフは使わない。

ノートは見開きで使い、左にマインドマップ、右にそれを文章化したものを書く。文章化はブログの要領で、段落の行数を少なくし、段落の間は空行で開ける。

ワープロで打ったものを印刷して貼っても構わない。

こうやって手当たり次第に書いていっても、一生のうちに1000冊溜るだろうか。ノートパソコンなら1台に収まってしまうかもしれない。邪魔にはならないだろう。

やってみると、これが楽しいのだ。マインドマップを書くのは楽しいし、それを文章化するのも、ちょっと苦労はするが苦しいと言う程でもない。

生涯ノートを作るくらい、安上がりで楽しめるものはない。
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# by tnomura9 | 2005-09-17 00:21 | 考えるということ | Comments(0)

ブログの文体

ブログを読んだり、書いたりしていて気づいたのだが、
ブログの文体は通常の紙の文章とは違っている。

紙に書く要領でブログに文章を載せると、段落がべたっと重たい感じがして読みたくなくなる。逆にブログの文章を紙に印刷してみると行間がスカスカした感じで軽すぎるのだ。

それから、ブログの文章は一画面で読みきるくらいが丁度良い。スクロールしなければ読めない長い文章は読むのがおっくうになる。

したがって、ブログの文章は、改行が多く、段落の文の数が少ないという特徴がある。

しかし、これはノートを取るときには都合の良い文体なのだ、なにより読みかえしやすい。ノートの目的は頻繁に見かえすことなのだが、通常の文章では読みかえすのに時間がかかるし、箇条書では意味が分からなくなる。ブログの文章くらいが丁度いいのだ。

ノートを取るときに、箇条書ではなく、ブログの文体を意識して書くといいのではないか。
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# by tnomura9 | 2005-09-16 11:43 | 考えるということ | Comments(0)

マインドマップ

発想や学習のための特殊なノートのとり方としてマインドマップがよく引用される(『人生に奇跡を起こすノート術 マインドマップ 放射思考』 トニー ブザン著 田中孝顕訳 きこ書房)。作り方は概ね次のようになる。

  1. 中心となるテーマをノートの真ん中に書き、丸で囲む。
  2. そのテーマに関連する事項をその周囲に書き丸で囲んで、中心のテーマの丸印と放射状に線で結ぶ。
  3. それらの子項目にさらに孫項目を結び付けていく。

マインドマップを発想法に使う場合はこのように組織化せず、気ままに関連のありそうな項目を線で結んでいくのである。

しかし、実際にやってみると、この方法では出来上がったマップを後で見返したときに意味がかえって分かりづらいという欠点がある。書いたときの思考の流れを見返したときに忘れていることが多いからである。

マインドマップは、本質的には、2つの項目を連想で結び付けただけのものである。作成する時点ではあまり構造化や論理の流れは考慮されていない。思考というものは、本来そのようなものかもしれないが、読み返す際にはあまり雑然としていても困るのである。

したがって、マインドマップを有効に活用しようと思うなら、これを文章化しなければならない。実際にマインドマップから文章を起こしてみると、いろいろな細かい点で変更を余儀なくされることが多い。マインドマップではひとつの項目から次にどの項目へ移ればよいのか分かり辛いが、文章化することでその順序が指定され、思考の流れが整理されるのである。

こう考えると、ノートを見開きで使い、左にマインドマップ、右にそれを文章化したものを書くというのはよい方法のような気がする。
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# by tnomura9 | 2005-09-14 16:53 | 考えるということ | Comments(0)

ドラゴン桜

テレビ番組のドラゴン桜の受験指導法がおもしろかったので、原作のまんがを買い込んで読んだ。

このまんがを読んで思ったのは、結局主人公達がやっている受験勉強は、東大理1に入るということに目的を特化して合理的に受験勉強の手順を組み立てていると言うところが面白いのだ。メモリーツリーなど様々なテクニックが出てくるが、それ自体はそう珍しいものではない。しかしながら、意外に使われていないというのも事実なのだ。受験というのは結局多量の情報を期日内に習得するということに尽きるだろう。その意味でこのまんがに書かれている方法は、使いようによっては、充分実務にも役立つものである。

目的の明確化、合理的な学習法について少し実践してみるのも面白いかも知れない。
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# by tnomura9 | 2005-09-13 16:04 | 考えるということ | Comments(0)

ノートの意味

以前、「プロジェクトX」を見たときに、ミシンの開発者が段ボール箱一杯のノートを持っているところが写っていた。

ノートをとる意味はいろいろあるだろうが、いちばん先に思いつくのが講義ノートなど、消失してしまう情報の記録をとることだ。そのほか、同時通訳の人がつかう使い棄てのノートがある。発言者の長いコメントを正確に訳すためにはどうしても記憶だけでなくノートを活用しないといけないようだ。そのための速くメモをとる技術もある。しかし、記録すると言っても、参考書の丸写しのようなノートではあまり意味がないような気がする。

管理人の今の情况では、自分の思考の過程を外在化させるという意味のノートがいちばん有意義なような気がする。自分の思考の過程をノートに記述することによって、それを、客観的なものにする。さらに、それを、見直しながら自分の思索を深めて行くような型のノートである。そのようなノートであれば、段ボールにいれて永久保存したくもなるのではないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-09-04 14:22 | 考えるということ | Comments(0)

ノートの取り方

管理人は学生時代ほとんどノートを取らなかった。

注意散漫でノート本体をすぐ失くしてしまうので完成しないのだ。また、教科書や参考書を丸写ししたノートを作っても二度手間になるだけだと思っていた。それに、書くスピードが遅かったので坂書は書き写す前に消されていた。

しかし、ふと思いついてGoogleで「ノートの取り方」を検索したら、本当に沢山でてきた。皆、ノートの取り方に対しては、一方ならぬ思い入れがあるようだ。

試験の終わったノートなど見返すことも無かったし、今の生活でノートをとる機会などもないが、しかし、80歳くらいになってから、焼酎を飲みながら、自分のノートを読み返して楽しむようなノートを今から作っていくのも楽しいかもしれない。
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# by tnomura9 | 2005-08-31 13:12 | 考えるということ | Comments(0)

失敗に学ぶ

畑村洋太郎著 『失敗学のすすめ』 以来、失敗の事例を研究することが盛んになってきているようだが、どうして失敗するのだろうか。また、失敗の事例を研究することがどうして大事なのだろうか。

考えてみると、失敗をしたときは、想定外の事態が発生しているのだ。

将棋の例でも分かるように、考えるということは全ての選択肢について検討することなのである。しかし、全ての選択肢について考えるのは、やはり、将棋で分かるように、簡単に膨大な選択肢が発生するために事実上不可能だ。

したがって、実際にはありえない選択肢については検討しないようにして、枝刈りを行って選択肢を減らすようにしている。しかし、この枝刈りが必ずしも妥当だという保証はないのだ。そのため、ありえないと思われていた事態が発生して、失敗してしまうのである。

このようにありえない事態が発生するのはなぜだろうか。それは、人間の考えの癖が、必要な選択肢を無視してしまうのだ。同じ失敗を何人もの人が経験する場合、そこには、人間の普遍的な考え方の癖が反映しているとも考えられる。失敗事例の検討は、失敗にいたる人間の思考の傾向を見つけようとすることでより有益なものになるのではないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-08-25 07:13 | 考えるということ | Comments(0)

論理哲学論考の文番号

『論理哲学論考』を読んでまずびっくりするのは、各文の先頭に打たれた謎の番号である。藤本隆志/坂井秀寿訳 法政大学出版部の版の解説にも次のように書いてある。

およそ哲学の著作のうち、『論理哲学論考』ほどふう変わりな書は、類を見ないであろう。それは一見したところ、番号を打たれた、たがいに何の脈絡も持たぬアフォリズムの集積にすぎない。


しかし、この番号は各文の階層構造をあらわしていることが最初のページの原註に説明されているのだ。

個々の命題の番号として付けられた小数は、その命題の論理的な重要性、つまりわたしが叙述にさいして強調した度合いを表している。n.1、n.2、n.3、等の命題はn番目の命題に対する註であり、n.m1、n.m2、等の命題はn.m番目の命題に対する註となる、といった具合いである。


つまり、『論考』はスレッド式掲示板の要領で書かれているのだ。ヴィトゲンシュタインは実に几帳面に自分の頭の中にある命題の構造を書き表していたのだ。したがって、『論考』は最初から順に読むべきものでなく著者が明示した命題の構造に沿って読むべきなのである。たとえば主な命題とその一階層だけ下の命題を抜き出してみると次のようになる。

1 世界は、成立している事柄の全体である。
1.1 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。
1.2 世界は事実へと解体する。

2 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。
2.1 われわれは事実の映像をこしらえる。
2.2 映像は描写の論理形式を被写体と共有する。

3 事実の論理的映像が思考である。
3.1 思考は、命題において、知覚可能な表現となる。
3.2 思考の対象に文-記号の要素が対応するような具合に、思考を命題で表現することが出来る。
3.3 命題のみが意味を持つ。命題の脈絡においてのみ、名辞は意義をもつ。
3.4 命題は論理空間の中に、ある位置を指定する。この論理的場の存在は、ひとえに命題の構成要素の存在により-有意味な命題の存在により-保証される。
3.5 適用され、考えらた文-記号が思考である。

4 思考とは意味を持つ命題のことである。
4.1 命題は事態の成立・不成立を述べる。
4.2 命題の意味とは、事態の成立・不成立の可能性とその命題との、一致・不一致にほかならない。
4.3 要素命題の真・偽の可能性は、事態が成立ないし不成立である可能性を意味している。
4.4 命題とは、いくつかの要素命題の真・偽の可能性との、一致・不一致の表現である。
4.5 いまや、最も普遍的な命題形式をかかげることができそうに思える。いいかえれば、どの可能な意味も、それに対する記述に適合する一個のシンボルによって表現でき、さらに記述が適合するどのシンボルも一つの意味を表現することができる、そのように適宜名辞の意義が選択されたなんらかの記号言語について、その命題を述べることができそうにおもえる。(以下略)

5 命題は、要素命題の真理関数である。
5.1 真理関数は、順序をつけて配列できる。
5.2 命題の構造は、たがいに内的関係にある。
5.3 すべての命題は、要素命題に真・偽操作を適用した結果である。(以下略)
5.4 ここにおいて、「論理的対象」「論理的定項」は、(フレーゲやラッセルが考えている意味では)存在しないことが明瞭となる。
5.5 いかなる真理関数も、要素命題に対してNAND操作を連続的に適用した結果である。
5.6 わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。

6 真理関数の一般形式・・(数式省略)・・は命題の一般形式である。
6.1 論理の諸命題は、同語反復(トートロジー)である。
6.2 数学とは、一つの論理的手続きである。数学の命題は等式であり、それゆえ、見せかけの命題である。
6.3 論理の探求とは、あらゆる合法則性の探求を意味する。そして論理の外にあるものはすべて、偶然である。
6.4 全ての命題は等価値である。
6.5 いい表すすべのない答えに対しては、また、問いをいい表わすべを知らぬ。「これが謎だ」といえるものは存在しない。そもそも、ある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることもまた可能である。

7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


これをざっと見ると、ヴィトゲンシュタインの考えのアウトラインが次のようなものではなかったのではないだろうかと思われる。つまり、

世界は命題で記号化できる。世界と命題の体系の間には論理形式についての相同性がある。命題の体系で行われる論理操作はすべて同語反復(トートロジー)である。したがって、命題の真偽は本質的に要素命題の真偽に依存する。要素命題の真偽については、命題の論理的体系は何も語ることが出来ない。したがって、論理は世界の真偽について何も語らない。


ということである。
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# by tnomura9 | 2005-08-13 12:05 | 考えるということ | Comments(2)

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の本文の分かりにくさにもかかわらず、彼が主張したところの結論は分かりやすい。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


という結論で、何を言おうとしたかは、彼自らの説明がある。

6.53 哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外なにも語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外なにも語らぬこと。ゆえに、哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと。----- そして他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。この方法はそのひとの意にそぐわないであろうし、かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。


つまり、厳正に論理学を用いる限り、形而上学について述べようとすると、意義を持たない命題( 真とも偽とも言えない命題)を仮定として使用せざるを得ないのだということだ。

このことに関連して思い出すのは、「形式的体系は自らの記号で自分の無矛盾性を証明することは不可能である」というゲーデルの不完全性定理である。この定理は、帰納的方法で記号を使って論理体系を構築しようとすると、どうしても自己言及的な命題が発生して、その影響でその体系自身の無矛盾性をその体系の記号では証明できないという定理だ。論理学という言葉を使って世界を記述しようとした場合の限界をあらわしたという意味では『論理哲学論考』の主張と似たものがあるように思える。

ただし、ヴィトゲンシュタインはゲーデルの証明は読んでいないようである。いずれにせよ、絶対確実なものと考えられていた論理学についてその力の及ぼす範囲の限界について述べたものとして、『論理哲学論考』は画期的なものだった。

まあ、論理学は万能ではないんだよとヴィトゲンシュタインが言ったということくらい知っていれば、形而上学を語る友人に、「あなたの主張は根拠の無い命題を必ず含んでいるのだ」と教えて煙に巻くことができる。
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# by tnomura9 | 2005-08-11 07:57 | 考えるということ | Comments(0)