視野を狭める

どんな速読法の本にも共通して書いてあるのが、視野を広くする技術だ。一回に認識できる単語の数が増えれば当然読書スピードは向上する。

しかし、その方法で本を読んでいると、何が書いてあるのか良く分からないことがある。そのときは意識的に視野を狭めるのが良い。重要だと思うキーワードに意識を集中して、それが何を意味しているのかあれこれ考えるのだ。読書速度は当然低下するが、文章の意味がよく分かるようになる。そうしたら、また、視野を広げて読書速度を上げるようにする。

緩急を自在に使い分けた方がいいのは、何も読書に限ったことではない。実際の仕事でも、忙しいときにわざとゆっくりと考えてみると、大事な見落としに気がついたりして助かることがある。時間をとってゆっくりと考えたり、勉強したことを思い出したりしてみると、急いで速読するより速く知識を習得できることがあるのに気づく。
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# by tnomura9 | 2005-11-13 01:09 | 考えるということ | Comments(0)

KISS

ウェブデザインやプログラミングの世界では KISS(Keep it simple, stupid.) という言葉がよく使われるらしい。同じことを表現するのなら単純で直截的な方法をとろうという主張だ。「オッカムの剃刀」を現代風に表現したもののように思われる。

学生のとき生物学の実習でパンジーのスケッチをするのに、できるだけ葉の少ないものを選んでスケッチして持っていったら、この花では代表例にはならないと再提出になってしまった。物事の本質を見抜いて単純化することは大切だが、単純化を目指すあまり現実にある複雑さをゆがめてしまっては何にもならないだろう。

概念の梯子は、段を上がるにしたがって抽象化され、多くの要素の共通因子となっていくため段々に単純になっていく。単純で抽象的な表現は様々な状況の中でも変化しない共通性を指し示しているのだ。複雑さの中の単純さは、そういう意味で力強い単純さなのだ。

こんなことを書いても何の方法論も見えてこないが、しかし、表面に見える複雑さの背後の本質の単純さとはなんだろうかと考えることが楽しいし、大切なのだ。

それでは本質とは何なのだろうか。それは、抽象化されたアルゴリズムだ。「再帰的定義」のような記号と記号の間の形式的関係なのだ。「犬が西向きゃ尾は東」の頭と尾の関係のようなものである。個々の現象の中に潜む「関係」が本質なのだ。ヒルベルト風のこんな考え方はゲーデルが粉砕したはずだという人もいるだろうが、記号の形式的体系が自己言及命題を発生させそれ自身の無矛盾性を証明できないにしても、「形式的関係」の重要さを否定することはできない。
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# by tnomura9 | 2005-11-12 00:26 | 考えるということ | Comments(0)

対比

連想の方向性を決定する最も基本的なものは対比だろう。

同じか違うか、似ているか似ていないか、同意するか反対するか、関連しているか無関係か、などの対立した方向性は連想の際にもっとも現れる方向性だ。あるキーワードについて熟考する際に、まず、この対比関係にある事項はなんだろうかと思い巡らすのは手っ取り早いだろう。

昔、ラジオの番組で「20の扉」というのがあった。ゲストがある秘密をもって登場すると、回答者たちがひとつづつ質問する。ゲストはその質問に「はい」か「いいえ」だけで答えるのだが、20問も質問しないうちにたいてい当たってしまう。

複雑な概念でも、対比を繰り返しているうちにたいていはその構造が見えてくるものだ。また、紛らわしい概念の間の差異も、同じもの違うものを列挙していくうちに明確になってくるのは、よく経験することだ。

普段無意識に使っているこの「対比」というツールを、連想の方向性をコントロールするツールとして意識的に使うのは有益だろう。
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# by tnomura9 | 2005-11-11 07:48 | 考えるということ | Comments(0)

連想の方向

思考力や記憶力を高めるために連想を利用するとよいと思うが、連想を自在に操るためには連想の方向性をコントロールできるようになる必要があるだろう。

たとえば、「リンゴ」という単語から、ある場合は二ユートンを連想し、大宇宙に思いを馳せるかもしれない。また、アダムとイブの話を連想し、艶っぽい話に連想が飛んでいくかもしれない。出発点は同じ単語であっても、連想の方向性の違いでそれから起こってくる思考の流れはまったく別のものになる。

問題は、この連想の方向性を規定しているものが一体何であるかということである。連想の方向を支配しているのは、一種の気分のようなものなのだろうが、この気分をコントロールすることができれば、連想の方向性を制御し、想起を支配できるかもしれない。

連想を支配する力のひとつは質問や疑問などの探索行動である。しかし、この質問もキーワードから連想されるので、質問を想起させるための気分とでも言うものが必要だ。おそらく、科学的な気分とか、艶っぽい気分とか情緒的なものが、連想の方向を支配しているのではないかと思うが、それを利用する方法は今のところ思いつかない。
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# by tnomura9 | 2005-11-10 07:57 | 考えるということ | Comments(0)

情報は捨てるべきか、捨てざるべきか

情報を捨てるべきか捨てざるべきかは難しい問題だが、情報を保管する場所に困らないのだったら捨てる必要はないのではないだろうか。

昨今のようにストレージデバイスが発達している状況ではそれがかなり可能になってきている。いろいろな解説を読んでも、容量の上でも、速度の面からも、外付けハードディスクに保存するのが一番使い勝手がいいようだ。もちろん、ハードディスクはクラッシュの心配があるので、バックアップはとっておいたほうがよい。

しかし、個人的に集めた情報は、自分が死んでしまったらほぼ消失すると覚悟しておいたほうがよい。自分にとって大切なものが、家族にとっても大切なものだとは考えないほうがよいだろう。それに、蓄えたけれど二度と見なかった情報も蓄えなかったのと同じなのだ。また、逆に、蓄えた情報を見返すときには、大切な自分の時間が消費されるのである。

こう考えると、情報などというものは必要なときに時間をかけずに取得できるのが一番いいのである。これに関しては、理想的とは言いがたいが、Googleの検索や、Wikipediaの記事などはいい線を行っているのではないだろうか。ネットワークの情報の欠点は玉石混交でS/N比が悪いということである。しっかりした権威のある無料のデータベースがあれば情報についての利便性も格段に増すのではないだろうか。国家的なプロジェクトとして取り上げてもよいのではないかという気もする。

意外に、ブログなども情報の保存法としては優れていると思う。読み返そうと思ったら、いつでもできるし、検索することもできる。かえって、自分で保存しておく場合より紛失する機会も少ないだろう。もし、自分が良質の情報を持っているのであれば、それを利用する人も現れるかもしれない。大げさな言い方かもしれないが、情報のオープンソース化は人類の知的環境に大きなメリットを与えるのではないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-11-09 01:48 | 考えるということ | Comments(0)

思いがけない成功や失敗

名医は平均的な医者が見逃した病気を突き止める。藪医者は普通の医者が診断できる疾患を見逃す。しかし、どちらの場合も生起確率の少ない選択肢を選んだということでは、共通するものがあるのである。

会社運営の成功例や、失敗例にも同じような性質がある。新聞などでそれらの事例が掲載されるときは、思いもかけなかった成功や、起こるはずのなかった失敗の話になる。普通にやっていればうまく運営していける事業や、どうやっても運営できない企業の話は出てこないのだ。

思いもかけない成功や失敗が生まれる原因は、人間が起こりえるすべての可能性を検討することができないからだ。起こりえるすべての可能性を検討するというのは、論理の本質なのである。

論理というと、AならばBだという含意や、それを用いた三段論法のことが頭に浮かぶかもしれない。しかし、AならばBだという含意の場合、どんな可能性を検討してもAであれば必ずBであるということを意味しているのである。数学など論理を用いて構築された体系の確実性は、暗に、すべての可能性を検討したという論理の性質があるからこそ保証されるのだ。

したがって、「風が吹けば桶屋が儲かる」などの場合、含意の形をとっていても前項が真であるときに、後項が必ず真であるという要件を満たしていないので、その推論は誤りとなる。

しかし、起こりえるすべての可能性を検討するというのは実際には不可能なことが多い。将棋の各局面での差し手の選択肢は有限だが、全体の差し手となると各局面の選択肢の積となり到底すべてを調べることは不可能なのだ。

こう考えると、誤診や失敗の可能性をゼロにするのは事実上不可能なのだ。それではどうすればよいかというと、やはり、フェイルセーフを用意するしかないだろう。失敗が起こったときにその被害を最小限に食い止めるにはどうすればよいかということである。システムの運営に冗長性を持たせることである。通信の場合信号に冗長性を持たせることで、チェックサムなどによる信号のエラーチェックをしたり、エラーの出た信号の回復をしたりしているが、それに似た冗長性によるエラー防止が必要になってくる。

病気の診断や、会社の運営や、ロケットの打ち上げなど、生起確率の低い事態でもそれが起こったときの結果が致命的になる場合がある。したがって、それらを決断する際に、できうる限りすべての可能性を検討し、また、不測の事態が起きたときのフェイルセーフを用意するためのシステム的な思考法が必要なのではないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-11-06 11:36 | 考えるということ | Comments(0)

下線引きのコツ

参考書のキーワードに下線を引くコツは、できるだけ下線の数を減らすということだ。

原則的に、ひとつの段落に引く下線の数は一個だけにする。英語圏のパラグラフライティングの考えの影響か、日本語の文章にも、段々と、一文が短く、ひとつの段落にはひとつの中心文しか含まないような文体が浸透してきている。したがってひとつの段落には、ひとつのキーワードで十分な事が多い。

ただし、その段落の内容がひとつのキーワードで要約できない場合がある。それは、その段落にいくつかの下部構造がある場合だ。その場合は、サブパラグラフとでも言えるような下部構造ひとつ毎に一個だけ、キーワードに下線を引くとよい。

また、その下部構造が直列に配列されているのか、並列に配列されているのかを意識すると、よく理解できる。直列の配列と並列の配列については、このブログの「考えるということ」というカテゴリのどこかに書いているはずだ。

下線を引いたキーワードが少ないと、読み返すときにきれいだし、そのキーワードに注目してあれこれ考えることで理解を深めることができる。
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# by tnomura9 | 2005-11-05 08:18 | 考えるということ | Comments(0)

将棋のコンピュータソフト

将棋の世界では、プロ棋士とコンピュータソフトの正式の対局が禁止されたそうだ。

序盤中盤はコンピュータはまだ弱いが、終盤の詰めは、羽生名人などもコンピュータを使って確認するという。終盤の詰めは、全ての可能性を機械的に計算するという部分が大きいのでコンピュータの能力が発揮しやすいのだろう。将棋は各局面で取り得る手は有限だ。ただ、全ての可能性を計算することは、各局面の取り得る手の積になる爆発的な手筋の可能性の増大のために事実上不可能である。

したがって人間同士の対局の場合は、一種のパターン認識の能力を競い合うことになる。ところが、そのパターン認識の能力すら、コンピュータソフトが獲得しはじめたようなのだ。裏をかえせば、人間の独創的な創造性というのも、本質的には機械的なアルゴリズムで置き換えることができるということだ。

このことは、単純な定型的な計算以外の知的労働にコンピュータが利用される可能性が出てきているのを意味している。人間にしかできないと思われていた知的作業をコンピュータが肩代わりする可能性も出てきたのだ。

たとえば、今、医療の費用と質について色々と取りざたされている。しかし、費用と質とは相反する要因なのだ。両方を向上させるのは難しい。単純に考えても医療は労働集約型の業態なので、人件費の割合が異常に大きいからだ。費用を削減するためには人件費の圧縮が必須であるが、給与を下げても、人員を削減しても医療の質の低下は必須なのである。

その人件費についても、日本の健康保険を視察にきたヒラリー・クリントン氏が「日本の医師はまるで修道士のように安い給与で献身的に働いている」という感想を述べて帰ったくらいだから、推して知るべしだ。数年前から病院は構造不況業種なのだ。

したがって、医療のシステムをコンピュータ化する方向は必須だと思われる。日常の診療で遭遇する疾患の診断や治療法の決定などについては、かなりの部分がコンピュータに代替できる時代が近づいているような気がする。これを、医療従事者にとっての脅威と考えるのではなく、安価で良質な医療を提供するための補助手段として考えていかなければならないのではないだろうか。

ただし、電子化が必要だからといってやみくもに電子カルテ化するという方向には疑問を感じる。電子的なデータを作成するための労力が大きすぎるし、データの保存性や、災害時のデータの保守性に疑問が残るからだ。

医療のシステムを電子化するにしても、問診票から簡単な病歴を作成し、鑑別診断を列挙するなど、ハッキリとした省力化とエラー防止効果が期待できるものについて、充分に実地診療で使い込んでから広める必要がある。何でも思いつきで電子化するのではなく、使えるシステムを本気で検証しないと、無駄な費用がコンピュータ業界へ流れて行くだけになるだろう。

また、書物の知識だけでなく、経験が重視される医療現場の情况をうまくシミュレーションするようなプログラムや教材はコンピュータ化する有望な分野だろう。新人の医師や看護師にたいするそのような訓練を充分に与えたら、一戦のスタッフはより診療に集中することができる。たとえは悪いが、アメリカ陸軍の徹底したシミュレーションプログラムによる訓練を受けた新兵だけの部隊が、5倍の人数のイラク兵を撃退したという例もあるのである。

今のように経済の面からだけ、医療の構造改革をすすめていったら、未来の医療は心寒いものになるだろう。現にイギリスでは医療費抑制のための改悪をすすめたために、適切な医療が受けられなくなっている。髄膜炎で死亡する幼児が多く、胃がんの手術のための入院が6か月待ちになるなど、今の日本からは信じられないような状態になってしまっているのだ。医療の改革は医療システムそのものの構造改革を含めて考えなければならない。また、その改革は現場を知らない有識者の意見だけではなく、現場からの「カイゼン」活動からくるアイディアを積極的に採り入れていかないと、かえって、非効率な意味のない改悪になってしまうだろう。
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# by tnomura9 | 2005-11-03 03:54 | 話のネタ | Comments(0)

学習の動機

学習法の本を読むと、学習時間の管理について書かれている。しかし、学習時間以外の時間の管理について書かれているものはないような気がする。参考書を読んで知識を得るのにも時間を使うが、それを思いだすためにもやはり時間は使われるのだ。それは、何もしていないときに以前に読んだ本の内容を思いだそうとすると良く分かる。

効率的な学習を考えるなら、本を読む時間より、読んだ内容を思いだす方に時間をかけたほうが良いのではないかという気がする。また、仕事の合い間のくず時間に、読んだ本の内容を思いだすようにしていると、色々と疑問が湧いてきて次に本を読むときはあれを確認しようとか、読んだ部分の先には何が書いてあるのだろうかなどと、本を再び読むための動機付けもできるようだ。おたくが、関心のある分野に詳しいのは、いつもそのことを考えているからなのだろう。

読んだ参考書の内容をいつも考えているというのは、学習の定着の上からも、動機付けの意味からも有効な方法だ。

学習の鍵を握っているのは、本当は、どううまく動機付けをするかということなのだ。
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# by tnomura9 | 2005-11-01 07:26 | 考えるということ | Comments(0)

たのしみ

ふと気がついたことだが、楽しいことというのは、皆、役に立たないことなのだ。宴会も、釣も、ゴルフも、碁や将棋も、皆無ければ無くても済ませられることばかりだ。

なぜ、役にも立たないことの方が楽しいのかというと、楽しさのメカニズムの中には、時間を自由に使うということが含まれているからではないだろうか。何の強制もなく自分の思うままに時間を使うことが楽しさの本質なのかも知れない。

そうすると、楽しい人生を送りたければ、役に立たないことをするのが正解かもしれない。仕事だって、見方を変えればあまり役に立つことばかりやっているわけではない。仕事も必要のないことまでやるようにすれば、意外に楽しくなるかもしれない。

ブログを書くことは、まさに役に立たないことだから、楽しいのだ。
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# by tnomura9 | 2005-10-30 18:25 | 考えるということ | Comments(0)