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分節作用と排中律

ソシュールの考え方では、赤い鳥や赤い花や赤い服などをみて、「これは赤い」と言うとき、「赤い」という言葉によって「赤いもの」という概念を表しているのではないという。

「赤いもの」という概念があってそれに対するラベルとして「赤い」という言葉が使われるのではない。現実の世界には「赤いもの」というはっきりとした概念があるわけではなく、赤いものとそうでないものとの境界は曖昧だ。どこまでが赤いものであってどこまでが赤いものでないかは恣意的なものである。「赤い」という言葉は、連続的に変化している現実の現象の中で、他の言葉との関係性の中で、何が赤いものであるかというものを切り出す働きをしているだけである。この働きを分節作用という。

ここで分節作用について論じようとしているわけではないのだが、分節作用という用語は、言葉(単語)のもつ、集合でいう「内包的な定義」の作用の面に焦点を当てているようだ。つまり、内包的定義で集合を定める際には、個々の要素を内包的定義に照らしてそれがその集合に属するかそうでないかを判断することになる。内包的定義で集合の全体像が最初から見えているわけではなく、全体像は個々の要素について検討するうちに定まってくるのだ。

例えば「偶数」という用語は、数のうち2で割り切れるものを指すが、2や4が偶数であるかどうかはその時々で判断しなくてはならない。偶数の定義からは偶数の集合の全体像が初めから見えるわけではないのだ。

このように、語の分節作用によって、現象が、その語の指し示すものに含まれるかそうでないかが明らかになっていくが、その際に、あるものがその語の概念に含まれるか、そうでないかという判断が暗黙のうちに伴ってくる。たとえばある数が「偶数」であるかそうでないかは明瞭に判断できる。そのことによって、必然的に数は「偶数であるもの」と「偶数ではないもの」に分けられることになる。つまり、語の存在によって、世界が相容れない二つのものに分断されることになる。語による定義は、必然的に排中律を伴うことになる。

このような言葉の分節作用のためか、人間の思考は「善悪」、「上下」、「真偽」など二分的な思考になりやすい傾向がある。「偶数」の場合もその対比として「奇数」を持ってきやすい。6は2で割り切れるので「偶数」であり、5は2では割り切れず余りが1になるので「奇数」だ。ある数が「偶数」であって、同時に「奇数」であることはない。したがって、ある数が「偶数」でなければ、それは「奇数」であるはずだという排中律による推論は反射的に行われやすい。

しかし、この例でいくと、2.3はどうなるのだろうか。これは2で割りきることはできないので「偶数」ではない。それでは「奇数」かというと、2で割っても余りが1にならない。数は「偶数」か「奇数」であるはずなのに、「偶数」でも「奇数」でもない数が存在してしまうということになる。もちろん、これは数というものを「偶数」と「奇数」に2分できると考えたのが誤りであって、偶数と奇数に2分できるのは整数であって数ではない。2分するとすれば「偶数」と「偶数でない数」に分けなければならなかったのだ。

ソニーの初代ウォークマンにはヘッドフォンの端子が二つ付いていたそうだ。恋人同士が同じ曲を聴くことができるようにするためだ。その際に、ふたりがヘッドフォンをつけていたのでは会話ができないので、ウォークマン本体のマイクを通じて会話ができるようにするボタンがついていた。

ヘッドフォンをつけていたら同じ曲は聞けないし、会話もできないそれではどうするかという自然な推理だ。ヘッドフォンをつけていて恋人の声がきこえない。それでは、聞こえるようにするにはどうするかという発想でおこなわれた工夫だ。しかし、恋人と会話したいときはヘッドフォンは外せばいいし、そもそも、恋人とデートしているときには音楽は聞かないだろうという発想はなかった。

偶数の例やウォークマンの例のように不都合がはっきりと分かる場合はいいが、抽象的な思考の場合、言葉の分節作用のために無意識に紛れ込んだ排中律による推理が不都合を起こしていることに気がつかないことが多く出てくる。論理的な推論の場合、推論を積み重ねていくので、そのうちの一つでも誤謬が紛れ込むと全体の結論が台無しになってしまう。抽象的な概念の定義を理解するときには、その適用範囲の理解とともに無自覚に紛れ込む排中律による推論についても意識的に注意を払っておく必要がある。
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by tnomura9 | 2009-04-30 03:36 | 考えるということ | Comments(0)

定義

抽象的な概念は二つの要素からなっている。

一つはその概念を言い表す名前だ。もう一つはその名前で示唆される概念の意味や内容だ。ソシュール風にいうと、抽象概念は記号表現と記号内容で成り立っている。

抽象的な文章に現れるのはこのうち概念の名前のほうで、定義は暗黙のうちに仮定されているか、別のところで記述されていることが多い。

たとえば、「集合Sの上に同値関係~が定義されているとき、集合Sの要素aを代表元とする同値類を定めることができる。」などという文章を読むとき、「同値関係」、「代表元」、「同値類」などの用語の意味を知らなくては何のことを言っているのか全く分からない。

抽象的な文章を読むのに困難を感じるのはこのように名前の定義が明示的に示されていない場合が多いからだ。

それでは概念の名前の定義を読めば、その概念をすっかり理解できるかというとそうとも言えない。

たとえば、「偶数とは2で割り切れる数のことである」という定義があったとする。しかし「偶数」の意味をこれを読んだだけでは理解したとは言えない。定義はあくまでもある要素がその概念に含まれるか否かの判定をするルールを記述してあるだけだからだ。

「偶数」の場合も、4は2で割り切れるから偶数だ、とか、3は2では割り切れないから偶数ではないなどと、いろいろな具体的な例について、頭の中で定義のルールに合致しているかそうでないかを判定して初めて、「偶数」とはどういうものかを理解することができる。

すなわち、概念の名前の定義とは、あるものがその概念に合致するのかそうでないかを「分節」するためのルールなのだ。したがって、定義を利用して頭の中にその概念の具体的なモデルができるまでは、何となく腑に落ちない気持ちが残ってしまう。

集合の用語を借りると、ある名前の概念の定義はその概念の内包的な定義であり、概念の意味はその概念の要素の外延的な列挙による脳内の概念のモデルである。

したがって、「概念の意味」とは、「概念の名前」、「概念の定義」、「概念のモデル」の三者の動的な相互作用であるということができる。
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by tnomura9 | 2009-04-28 19:36 | 考えるということ | Comments(0)

数学する精神

『数学する精神 正しさの創造、美しさの発見』 加藤文元著 中公新書 は、数学の抽象的な思考の「正しさ」と「美しさに」焦点を当てることで、「人間と数学との関わり」について述べたあまり見かけないタイプの本だ。

数学の証明や公式というとなにか絶対に正しいもので、機械的で非人間的な印象をもたれることが多いが、著者はそうではないという。それらのものも人間らしい活動の手がはいって出来上がったもので時代背景や社会情勢などを反映した仮説的で暫定的なものである。

また、「数学上の記号には意味が不可欠であり、意味が記号を生き生きとさせる。その生き生きとした生命の源に必ず人間がいる以上、それは(程度の差こそあれ)何かの具体性を持つことになる。まさに数学における記号とは、具体と抽象の挟間にある生きた言葉である。」と著者は主張する。

ただ、総論的なことばかりでは「そんなものか」で終わってしまうので、前半の4章を使って「人間と数学について」、後半の4章で「記号と意味について」の記述が実際の数学的な事例を数式もきちんと使って行われている。

取り上げられている題材は高校数学程度の知識があれば十分読みこなせるレベルだ。しかし、その扱い方は受験数学とは全く違う。答えを出すことよりも、どういう視点で考えるのか、どういう意味があるのかというような抽象的な思考の進め方を説明するための材料になっている。

第1部の「人間と数学について」の4章では、まず、具体的イメージと密接な関係を持っていた古代ギリシャ人の数の概念が、代数学の発達により記号としての数という扱いをすることができるようになったことを述べている。そのことで、数学が次第に演算法則の解明など、記号としての数の構造の研究へと重点が移っていった。さらに、無理数や無限小や無限級数を扱うためのモデルとして実数が発明されていく様子や、無限を扱うための数学的帰納法が発明され、さらには数学的帰納法が自然数論の公理として採用されていく過程が説明される。

こうして数は直観的な量から、記号へ、さらに演算法則としての記号の構造へ、有限な数から無限の数や実数の取り扱いへ、そうして無限さえとりこんで演繹される公理体系へと発展していく。その際に、数そのものに対する関心が、数そのものを扱う理論の構造に対する興味へとメタ理論化していく。この数そのものに対する興味がメタ理論的な興味に移ることによって、パスカルの三角形と数式の2項定理の間の関係のように、一見まったく別の理論の間の一致の発見に至る。パスカルの3角形の計算自体はコンピュータにも可能な機械的なアルゴリズムだが、それと2項定理との同値性を見抜くのはメタ理論的なパターンを見抜く人間的な活動によるものだ。

第2部の「記号と意味について」の4章では、パスカルの3角形について、行nと列rを正の整数から、負の数へ、さらに有利数へと拡張していった時、演算規則がどのように保存されまた、拡張されていくのかを述べている。

パスカルの三角形から、特定の行列の要素の規則が導かれるが、その規則を保存したままで行列の数値を自然数から負数、有利数と拡張していくとどういう規則が現れるのかを調べ、具体的な計算から抽象した要素の規則が、その規則を保存しながら拡張したときに、逆に、法則の具体的な意味自体が拡張されていく様子を示していく。

具体例から抽象的な規則へ、抽象的な規則を保存しながら拡張したときに起きる具体例の意味の変化へという具体例と抽象的概念の相互作用を述べていく。その変化の様子はさながら数学的なスリラー小説のようで、具体的で明白だったパスカルの三角形の様相が次々に変化していき、ついには次のような数式が正しいという証明に至るまでになる。

1 + 10 + 100 + 1000 + ...= -1/9


読後の印象としては、「具体的な数を抽象化し記号とすることで、数そのものに縛られない数の構造を取り扱うことができるようになるが、抽象化された記号の意味をもう一度具体的例に引き戻して理解することによって、さらに具体例についても抽象的な記号についても理解が進んでいく。また、数が記号として抽象化されると、その抽象的な規則の性質をさらに抽象化するメタ理論が自然発生的する。その過程の中で、本質的に変わらない法則が発見され、複雑な内容をもつ法則が簡潔な記号として表現された時、数学の抽象的な概念に「美しさ」を感じることができるのだろう。」という気がした。

数学における抽象化の性質は、数学特有のもので他の抽象的な思考全般に適用できるというわけではない。しかし、数学の例を検討することによって、具体例を抽象化して記号や用語に置き換えることや、その抽象化した概念からさらにその記号の構造を抽象化してメタ理論が作られること、また、抽象化された記号の意味を問うという抽象化とは逆の方向への思考によって具体例や抽象的概念についての理解が深められ発展することなど、具体例と抽象的概念の間の緊張関係により抽象的思考が発展していく様子を見ることができる。

いずれにせよ、抽象的な記号の背後の「意味」を問うことで、抽象的な思考の理解が深められるようだ。
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by tnomura9 | 2009-04-26 20:54 | 考えるということ | Comments(0)

本質を見つける

考える楽しみの一つは、雑多な事象の中に本質をみつけることだ。

『ブッダ論理学5つの難問』 石飛道子著 講談社選書メチエ のなかに、仏陀の言葉の引用がある。

比丘たちよ、傾聴に値しない人は、喩をもたない人である。傾聴してよい人は、喩えて言える人である。喩えて言える人であるならば、ただひとつの法を自ら知り、ただ一つの法をあまねく知り、ただ一つの法を捨てさり、ただ一つの法を直観する。ただひとつの法を自ら知り、ただ一つの法をあまねく知り、ただ一つの法を捨て去り、ただ一つの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。(アングッタラ・ニカーヤ」 3.67.6)


抽象的な概念は、具体的な事例から抽象されなくてはならないし、抽象された概念からは、それに適合するあまたの具体例を導き出されなければならない。具体性と抽象概念の間のこのような運動が自在にできるとき、その抽象概念は本質であるということができる。

また、そのようにして抽象された概念の表現は美しくもある。

次の引用も同書からの仏陀の言葉の引用だが、

最初の説法
尊師はこのように言った。心かなえる五群の比丘たちは尊師の説を大いに喜んだ。そして、この解説がなされている最中に、コーンダンニャに、貪りと穢れを離れた法を見る目が生じた。「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」と。(「サンユッタ・ニカーヤ」56.11.15)

この、「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」という命題は、変化というものについてのパラドックスを見事に言い表している。生ずるものが滅するのは普通に見られることだが、その変化を刹那まで短縮していくと、「生ずると同時に滅する」というパラドックスに至る。この故に「存在と非存在は両立しないという」排中律を基本とする実在論は否定され、すべてのものは空であるという論理的な結論が導き出される。

これが、本当に真実かどうかは管理人にはわからないが、しかし、変化の本質の不可思議な所が「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」という短い言葉に凝集されていることに美を感じることができる。

ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」という言葉のように、本質的なものを射抜いた言葉は、その真意が理解されなくても、その美しさのゆえに生き残っていくのだろう。
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by tnomura9 | 2009-04-26 08:29 | 考えるということ | Comments(0)

ルバイヤート

『ルバイヤート』 オマル・ハイヤーム作 小川亮作訳 岩波文庫を読んだ。

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きて悩みのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来たり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

とか、

朝風に薔薇の蕾はほころび、
鶯も花の色香に酔い心地。
お前もしばしその下陰で憩えよ。
そら、花は土から咲いて土に散る。

とか、

酒姫よ、寄る年波の憂いの波にさらわれてしまった、
おれの酔いは程度を越してしまった。
だがつもる齢の盃になお君の酒をよろこぶのは、
頭に霜をいだいてもこころに春の風が吹くから。

なんかに共感するようになったらもうおしまいだ。
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by tnomura9 | 2009-04-25 06:40 | 心の話 | Comments(4)

スキーマと抽象度

スキーマとは「概念」の事例の共通要素を抽出するという性質をもう少し拡大したものだ。

「柴犬」と「チワワ」という事例に共通する性質を抽出して「犬」という概念が作られるが、「火を焚くと煙が立つ」というような場合の要素「火」と「煙」の共通部分を抽出しても「概念」にはならない。しかし、「火」と「煙」という事例の共通点にこだわらず、「火」と「煙」は分かちがたく存在するという意味で、「火と煙の不可分性」として「スキーマ」にまとめることができる。またさまざまな概念もスキーマの一種と考えることができる。スキーマは概念の抽象化の働きを拡張したものともいえる。

スキーマは概念のようなきれいな階層構造を作ることはできないが、適用範囲が広くなる。そうして、事例からの「抽象化」の働きを「スキーマを作ること」と定義すると、抽象化というつかみどころのない用語をもうすこし直観的に取り扱うことができる。

すなわち、抽象化を「スキーマを作ること」と定義すると、抽象的なスキーマの抽象度を数値化できる。たとえば、「柴犬」のような概念は、目に見える犬を一段階だけ抽象化したものだから、抽象度は1である。また、スキーマが他のスキーマを抽象化して作られるときは、元となるスキーマのうち抽象度の最も高いものに1を加えたものがそのスキーマの抽象度となる。たとえば、「犬」の抽象度は2である。

この抽象度はあくまでも概念的なもので厳密化することはできない。たとえば上の例の「犬」にしても、個々の犬の個体から抽象したものと考えれば、抽象度は2ではなく1である。ただ、こういうふうに抽象度を定義することによって、ある抽象的な概念がなぜ理解できないのかがわかる。つまり、その下位のスキーマのどこかで理解できていない部分があるのだ。

概念あるいはスキーマの抽象度を検討することで、高度に抽象的な概念も特別の人だけが理解できる聖域のようなものではなく、誰でも積み重ねさえすれば到達できるものだという見通しと、それを達成するための戦略が見えてくる。
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by tnomura9 | 2009-04-21 08:24 | 考えるということ | Comments(0)

概念のはしご

個々の事例から共通の性質を抽出したものが概念だが、この概念は階層構造をしている。たとえば、「柴犬」、「チワワ」という事例から抽象して「犬」という概念ができるが、この「犬」という概念と、「猫」という概念から抽象して「動物」という概念を作ることができる。このような概念の階層構造は「概念のはしご」と呼ばれることがある。

さまざまな事例から抽象することによって概念の梯子のネットワークができるが、そのネットワークの全体に注目すると、ソシュールの述べた「ラング」というものになる。しかし、このような抽象的な全体を問題にしなくても、日常的な文章も、この概念のはしごを登ったり下ったりして表現されているのだ。

たとえば、「環境車向け新素材開発」という見出しの今日の日経新聞の記事の一部を見てみよう。
富士電機ホールディングス、昭和電工など、重電、石油化学、電機メーカがハイブリッド車など環境対応車向け新素材の開発を本格化する。環境車の低価格化や性能向上につながる新素材を開発し、成長が見込める環境車市場に参入する狙い。環境車の性能を引き上げる半導体や電池の開発が進めば、世界の環境車市場でも日本メーカーの競争力が増すことになる。

富士電機ホールディングス、昭和電工は具体的な企業の事例だ、これらは、重電、石油化学、電機メーカとして概念化されているので、これらの企業以外の同種の企業が含まれることを示唆している。また、ハイブリッド車も事例だが、これも環境対応車として概念化されている。概念化されているということは環境対象車はほかにもあるわけで、電気自動車や、高効率のエンジン車、バイオ燃料車なども含まれるだろう。これらの企業が環境対応車に対応する新素材を開発すると言っているが、新素材というのは抽象度の高い言葉なので、さまざまな事例を含んでおり、これだけでは、事例を特定することができない。記事の後半を読むと、それが、半導体や電池のことであることが分かる。

このように、普通の文章を読んでいても、視点が概念の梯子を頻繁に上り下りしていることが分かる。

大規模なソフトウェアは膨大な数の小さなプログラムを集めて作られた巨大なシステムだが、これもモジュールに分けることができる。さらにそのモジュールは下位のモジュールにというふうにモジュールの梯子があり、その梯子のどの部分に注目しているかを「粒度」という用語で表現している。このシステムを理解するときもやはり、概念の梯子を頻繁に上り下りすることになる。

事例の抽象としての概念。概念の具体例としての事例。この2方向の動きを組み合わせることで知識の理解や伝達が進められることになる。抽象的な思考といってもこの概念の梯子を行ったり来たりしているだけなのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2009-04-20 08:03 | 考えるということ | Comments(0)

例示

インド論理学では、論証の際にその根拠として喩例をもちいる。たとえば、「山の上に煙が見られるから、山の中には火があるはずである。なぜなら、かまどの場合のように煙があれば火があるからだ。」というような論証の仕方をする。論証の根拠として、かまどの場合という事例を用いるのは、現代の論証の感覚からすると危ない気がするが、事例が十分に一般的な法則を代表するものであれば問題ない。

抽象的な問題を扱った文章でも、例示がないと分かりづらい。次のような、用語の定義を抽象的に行う場合も、例示を追加してあると分かりやすい。

変動する認知障害とは、患者さんの注意や覚醒状態によって認知症状に動揺がみられ、とても状態がよいときと明らかに調子が悪い時が交代してみられるものです。たとえば、朝起床時や昼寝の後のように十分覚醒していないときに症状が目立って悪い、起床後しばらくするとうそのように調子がよくなる。、同じ薬を飲んでいるのに調子の良い日と悪い日がみられる、といった具合です。(『知っておきたい認知症の基本』 川畑信也著 集英社新書)

この例では、「変動する認知障害」という抽象的な用語を定義するのに、「患者さんの注意や覚醒状態によって認知症状に動揺が見られる場合」という抽象的な定義がなされている。注意、覚醒状態、認知症状、動揺などの抽象的な用語は、その抽象性のため対応する事例が幅広く、実際にどのような場合にこの用語を適用しているのかわかりづらいところがある。しかし、後の例示で、覚醒状態が起床時や昼寝の時の意識状態を表していることが分かり、また、変動が、一日の時間内だけでなく日によっても違うということを示してあるので、この著者が、覚醒状態、変動などの抽象的な概念をどういう視点で使っているのかが分かる。

抽象的な操作は、そう難しいものではなく、日常的によくやっていることだ。たとえば、「あの店は美味しい」などという表現も、実際の料理の味から「おいしさ」という性質を抽象しなければ判断できない。抽象的な用語は使っている当の本人にとっては難しいものではない。その用語の適用範囲と事例を頭の中で容易に検索できるからだ。しかし、それを人に伝える場合には、何らかの事例を通してその事例から抽象される一般的な性質としての抽象概念を伝えなければ、相手にはその概念が伝わらない。ことばで表現してきちんと伝わる可能性があるのは具体的な事例だけだからだ。抽象概念は目に見えないので具体的に伝えることができない。

抽象的な文章が難しいのは、その思考過程が難しいのではなく、抽象的な概念を直接に伝達する方法がなく、一旦その概念を例示として具体化して、その例示に内在している抽象性を伝達しなければならないからだ。

例示は抽象概念に慣れていない読者に対するサービスではなく、抽象的な概念を的確に伝達するために必須の要件なのだ。
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by tnomura9 | 2009-04-18 06:42 | 考えるということ | Comments(0)

抽象概念

「リンゴ」という言葉を聞いた時どう理解しているだろうか。「りんご」という言葉で反射的に赤いリンゴの像を思い浮かべるかもしれない。また、アップルパイを食べたときのにおいや甘みを思い浮かべるかもしれない。いずれにせよ、「りんご」という言葉をきっかけに反射的に想起したイメージでその言葉の内容を理解している。

それでは、「勇気」という言葉の場合はどうだろうか。ちょっと漫画的なイメージだが、不良にからまれている少女を助けようとしてぼこぼこにされたところを想像するかもしれない。ただ、「勇気」というものは、そういう直接的なイメージではなく、「身の危険を顧みず、正しいと思ったことを実行する。」というような、この例や他の例に共通する抽象的な意味を表している。

しかし、抽象的な意味はもはや視覚的なイメージとして思い浮かべることはできない。「勇気」というような抽象的な意味は、直接的な視覚的イメージにすることができないからだ。そうはいっても、上の例のような具体的なイメージがなければ、目に見えない抽象的な「勇気」の意味も浮かび上がってこない。抽象的な意味は、具体例とその具体例から喚起される抽象的な意味の抽出という二段階で理解されるとは言えないだろうか。

「勇気」というのはまだ身近な気がするが、「全単射」という言葉はどうだろうか。

その、具体例として、男子と女子のグループから、フォークダンスのペアを作るところを想像してもよい。一人の男子に一人の女子をパートナーとして割り当てるとする。一人の男子に二人の女子を割り当てることはないから、これは「写像」だ。また、二人の男子が同じ女子をパートナーにすることはないので、これは「単射」になる。また、どの女子をとっても、その相手である男子がいるので、「全射」である。「全射」で「単射」なので、この組み合わせ方は「全単射」である。

また、全ての女子はパートナーの男子がいるが、ある女子のパートナーはある男子になるが、ほかの男子ともペアになっているということはないので、すべての女子はただ一人の男子とペアになっていることになる。全ての女子のパートナーの男子がひとりだけ決まっており、すべての男子もひとりだけの女子をパートナーとしているので、結局男子と女子の総数は同じになる。

こうなってくると、具体例のあるほうが、かえって繁雑になって分かりにくい感じがする。抽象的な概念は、目に見えないので、具体例で確認する必要があるが、具体例で煩雑になる部分を抽象化することで逆に見通しが良くなる場合もある。

いずれにせよ、抽象的な概念を理解するためには、反射的なイメージだけではなく、そのイメージが持つ意味を理解するために、具体性と抽象性の間を行ったり来たりする必要がある。
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by tnomura9 | 2009-04-13 07:31 | 考えるということ | Comments(0)

計算術

下一桁が5の二桁の数の二乗は簡単に暗算ができる。たとえば75の二乗は5625だ。

どうやって計算するかというと、二桁目の数字とそれに1を足した数の積を書き、そのあとに一桁の数5の二乗25を書き加えるだけだ。上の例でいけば、7×(7+1)=56 の後ろに 25 を書いて、5625 が答えになる。

なぜこうなるかは、中学校の時に習った二乗の公式で十分説明できる。(a + b)^2 = a^2 + 2ab + b^2 というあれだ。上の計算法はそのうちの一桁の数が5という特殊な場合になる。いま二桁の数が a で一桁の数が5である数を考えてみよう。それは、10a + 5 で表すことができる。これを先ほどの公式に当てはめると、次のようになる。

(10a + 5)^2
= (10a)^2 + 2 * (10a) * 5 + 5^2
= 100a^2 + 100a + 25
= 100(a + 1)a + 25

したがって (a+1)a は100倍されるので25とはかぶらない。そこで3ケタ以上と25を並べるだけで答えになるのだ。同じような発想で、一桁の数字が合わせて10になる数も簡単に計算できる。たとえば 22 * 28 = 616 だ。

二桁の掛け算という具体例を抽象化して文字式の公式にすることで、逆に特殊なタイプの掛け算の速算法を見つけることができる。具象->抽象->具象といったん抽象化を経ることによって具体例に対する新しい洞察を得られる例だ。

抽象化という作業は、個々の具体例に共通な要素や仕組みを取り出すので、全体像を得ることができる。したがって、全体から見渡したうえで個別の特殊なグループも発見することができるようになる。
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by tnomura9 | 2009-04-09 10:58 | 考えるということ | Comments(0)