カテゴリ:幸福論( 37 )

ギリシア神話

若いころはギリシア神話が嫌いだった。高潔な英雄や心 優しい婦人たちが、気まぐれな神々の横槍で運命に翻弄されるのに我慢ができなかったからだ。こんな理不尽な神を持つ古代ギリシア人の人間性に疑問を持ったりした。

しかし、最近里中満智子著の漫画「ギリシア神話」全8巻を読んで考えが変わってしまった。古代ギリシア人のあくまでも現実的な態度に気がついたのだ。実際、若いときに我慢ができないと思っていた理不尽さは、ごく普通に見られることだった。

世の中のものを良いものと悪いものに分けて、良いものだけ得ようとすることの非現実性をギリシア人はよく知っていたに違いない。過酷な運命に翻弄されながらも、人間としての信義を貫いていこうとする神話の主人公に対するかれらの共感を感じることができる。

ギリシア神話の神々も、英雄もすぐれて人間的だ。強さと弱さが、高潔さと卑劣さが分かちがたく共存している。自分や他人の性格の複雑さに翻弄される人間のさまざまな悲惨な運命とその運命を生き抜く彼らの健気さがギリシア神話の魅力だろう。

ともあれ、こんな理窟をくどくどと並べずにさらっと面白い物語にまとめているところが古代ギリシア人の偉いところだ。
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by tnomura9 | 2005-05-09 07:50 | 幸福論 | Comments(0)

後悔

「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。」     キルケゴール

結婚はしてもしなくても後悔するし、してもしなくても喜ばしいものだ。要するに後悔と喜びとを分離できないのである。それは人生の何を大切と考えるかという選択では解決できない、本質的に一体的な問題なのだ。それは、人が毎秒毎秒、時間とともにすべてを失っていくことと関係している。ひとつの生き方を選択したら、他の生き方は捨てられてしまう。選択して得たものに対する喜びとともに、捨てられた可能性に対する後悔の念も与えられるのだ。そのうえ、選択した生き方すら時間によって日々消し去られてしまうのである。まあ、ことさら哲学的に考えなくても全てを獲得するのは無理だし、死んでしまえばみな同じということなのだ。

だから自分の配偶者に「私と結婚して後悔していない?」と聞いてはいけない。彼がどう答えようと後悔しているに決まっているからだ。
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by tnomura9 | 2005-05-08 17:15 | 幸福論 | Comments(0)

塞翁が馬

またまた excite 辞書で調べた。「塞翁が馬」。

大辞林 第二版 (三省堂)

さいおう ―をう 【塞翁】<

北方の辺境のとりでに住む老人。

――が馬
人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえ。人間万事塞翁が馬。〔「淮南子(人間訓)」から。昔、塞翁の馬が隣国に逃げてしまったが、名馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬に乗っていて落馬し足を折ったが、おかげで隣国との戦乱の際にも兵役をまぬがれて無事であったという話から〕

「順境のときも油断せず、逆境のときもくじけないへそ曲がりの爺さん」の話ではなく、単に「先のことは分からない」ということ。同意語は「ケセラセラ」。

Que Sera, Sera
Doris Day

[Written by Jay Livingston and Ray Evans]


When I was just a little girl
I asked my mother
What will I be
Will I be pretty
Will I be rich
Here's what she said to me

Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future's not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be

以下略 ...
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by tnomura9 | 2005-05-07 07:57 | 幸福論 | Comments(0)

みじめさ

どうしても惨めな気分になって仕方のないときはどうしたらいいだろうか。惨めになるのは自分が欲しいと思っているものを手に入れられないからだ。それなら、欲しいと思わなければ良いのだ。

欲しがりません、勝つまでは。

何に勝つのだろうか。さして大切でもないものを欲しがる自分の幼児性に対して勝つのである。

惨めな気持ちがどんなに辛くて苦しくても、所詮は脳の中の化学反応に過ぎない。行動に移さなければ実体はない。しかし、その気持ちに動かされて行動するとき、さらに惨めな状況を引き起こすかもしれない。行動をしっかりと抑制して、自分の惨めな気持ちに正面から対峙することが大切だ。惨めさから逃げようとせず、克服しようともせず、理由付けもせず、また、慰めもせず。ひたすら自分の惨めな気持ちと向き合うのである。泣き叫びたい気持ちが、結局は気持ちに過ぎないことに気がつくまで。
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by tnomura9 | 2005-05-06 20:49 | 幸福論 | Comments(0)

好奇心

人間にとって最も大切なものとは何だろうか。地位や名誉や財産ではないような気がする。もっとも、ご縁があってもちっとも構わないのだけれど。しかし、好奇心がなくなったら喜びというものを感じられなくなるのではないだろうか。修道院に入って一生外に出てこない修道士もいるそうだが、宗教的な真理を知りたいという好奇心がなかったら耐えられないだろう。小さな子供があんなに元気なのも旺盛な好奇心を持っているからに違いない。
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by tnomura9 | 2005-05-04 07:39 | 幸福論 | Comments(0)

慢性疲労

最近とにかく疲れる。休日に寝ても寝ても疲れがとれない。散歩をする気力もない。本を読んでも続かない。DVDを見ても面白いと思えない。はっきり言って働きすぎだ。それで、新聞とテレビを見ないようにしたら、少し疲れが取れた。世界情勢を知っても動けないくらい疲れてしまったら何にもならないというのに気がついた。教養もあったほうが良いだろうが、所詮専門家にはかなわない。生き生きした好奇心が回復するまでは、休もう、休もう、休もう...... 。

慢性疲労症候群とは要するに情報過多なのではないだろうか。脳の許容量を超えた情報を一度に詰め込もうとすると、脳がオーバーヒートを起こして故障してしまうのである。仕事を変わった友人が疲れが取れないと悩んでいたので、テレビを見ないように勧めたら、次に会ったときは随分すっきりした顔をしていて感謝された。無用の情報をシャットアウトすることが、脳の健康には大切なのかもしれない。
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by tnomura9 | 2005-05-03 20:07 | 幸福論 | Comments(0)

コヘレトの言葉

旧約聖書のコヘレトの言葉のなかに次のような文句がある。

かつてあったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。

人間は昔も今もたいして変わっていないのではないだろうか。子供のころ児童文学で読んだ、倶利伽羅峠の話。木曾の義仲が牛の角に松明を結びつけ平家の大軍に放って大勝した話を読み、すごいことをするものだと思っていたら、古代中国の斉の国の田単という将軍の火牛の計を真似たものだったと最近知り感心した。昔の目を見張るような作戦が、そのまた昔の作戦の真似だったと聞いて愕然としたのだ。

自分は会社勤めをしたことはないが、才能のある若者が抜擢されて大成功を収めるが、上司の猜疑心を刺激して左遷されてしまうというパターンは史記を読むとありふれている。しかし、当人にとってはこんなに力のある自分が不当な仕打ちをなぜ受けなければならないのだろうか、なんと不条理な世の中だと嘆くのである。

人間は何も持たずに赤ん坊として生まれてくるので、何千年も前に他の人が通り過ぎた道を同じように歩いてしまうのだろう。愚かな事だと思うが、誰も教えてくれないので仕方がない。若いうちに史記や聖書のような古典に親しむと良いのかもしれないが、残念ながら古典が面白いと思い始めるのは人生も半ばを過ぎてからのことになる。後の祭りであるが、それも人間の一生なのだろうと思うと面白い。
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by tnomura9 | 2005-05-02 20:46 | 幸福論 | Comments(1)