カテゴリ:ラッセルのパラドックス( 80 )

帰謬法

命題 A を仮定したときに矛盾が導出できた場合命題 A の否定が証明できたと考える帰謬法は通常の論理的推論でもよく見られる技法だが、命題論理の自然演繹にも現れる。¬記号を導入することになるので¬の導入規則と呼ばれる。

例えば、A->B と ¬B の真理値が T であるとき、¬A の真理値が T であることを論証するときに、A の真理値が T であると仮定したときに矛盾が推論されれば、仮定 A は正しくない、すなわち A の真理値は F で ¬A の真理値は T であると推論できる。この帰謬法の証明図による証明はつぎのようになる。

A(仮定) A->B
-------------------
B

さらに

B ¬B
-------
矛盾

ゆえに ¬A は定理である。

命題 A が真であると仮定して推論すると矛盾が導かれるのなら、仮定の A が真ではなかった。すなわち ¬A が真だったという議論だが、真理表と対比させたとき必ずしもわかりやすい議論ではない。

そこで、帰謬法の議論と真理表の議論の対比を行ってみた。まず、A, B, ¬A, ¬B, A->B の真理表は次のようになる。

A | B | ¬A | ¬B | A->B
T | T | F | F | T
T | F | F | T | F
F | T | T | F | T
F | F | T | T | T

上の真理表からは、¬B と A->B がともに真なのは一つの可能性のみでそのときは A は偽すなわち ¬A が真になる場合だけだということが分かる。真理表の場合は命題 A と B の取り得る真理値の組み合わせの全てを考えるので、Aが真であると仮定するというような帰謬法の議論は現れない。

そこで、帰謬法の議論が、真理表ではどのように表れるのかを考えてみた。A->B と ¬B が真であるとき ¬A が真であることを証明したいわけだが、帰謬法ではまず、A が真であるときにはどのようなことが起きるかを考える。これは真理表では A の真理値が T であるところだけを注目するということになる。A の真理値が T の時は A->B が真となるのは B が真となるときだけだ。これは ¬B が真であるという前提と矛盾する。したがって、A が真であるということは A->B が真であるという条件下ではありえない。

それでは、A が偽で A->B が真である場合には B の真理値はどうなるだろうか。この場合は真理表の A が偽となる部分だけを考える。この時 A が偽で A->B が真であることが同時に成立しているが、B は真の値も偽の値も取り得る。これは A が偽の場合は ¬B が偽であることを妨げないことを示している。

おかしなことになってきたので議論を整理してみよう。命題 A の真理値は真か偽のどちらかであるので、上の議論は A が真の時と A が偽になる場合がある。この場合次の2つのことが真理表から推論できる。

Aが真と仮定する => ¬B が真であることと矛盾する。
Aが偽と仮定する => ¬B が真であることを妨げない。

つまり A が偽のときは B は真でも偽でもあり得るのだ。ところが、逆に¬B が真であることが分かっているときは、Aは必ず偽であることを示している。つまり、A を仮定してそれが矛盾を導くとき、¬A が真であるという帰謬法の議論が成り立つのは A->B の真理表の性質がそれを可能にしているということを示している。

たとえば、Aが偽の時はBが必ず真になるという次のような真理表では帰謬法が成り立たない。

A | B | ¬A | ¬B | A->B
T | T | F | F | T
T | F | F | T | F
F | T | T | F | T
F | T | T | F | T

すなわち ¬B と A->B は A が真であることと矛盾するが、同時に A が偽であることとも矛盾する。

Aを仮定してそれが矛盾を誘導すれば、¬A が立証できるとする帰謬法のうさん臭さは、それが独立な命題 A,B と含意について用いられる議論なのだという前提を明示していないからだ。

自然演繹は古代から続いた論理的思考を記号化しているが、その正当性は真理表と対比させることで検証する必要があるのではないだろうか。真理表は要素命題についてあり得るすべての可能性を列挙しているからだ。それに比べ自然演繹の推論は語られない暗黙の仮定が潜んでいる危険性があるのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2018-09-23 08:11 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

命題論理の自然演繹

命題論理を学ぶとき、要素命題の真理値から複合命題の真理値を計算する真理表を作るのは理解しやすい。しかし、自然演繹の推論規則をつかって命題の証明をするのは理解するのが難しい。これは推論規則の -> 導入や -> 除去などの推論規則の意味が分かりづらいのと、仮定が抜け落ちるという概念が理解しがたいからだ。そこで、これらの概念を真理表を利用してイメージできないか考えてみた。

まず、推論規則の -> 除去を考えてみる。これは推論図では次のように表現される。

A A->B
----------
B

これは A と A->B の真理値がどちらも T であれば、命題 B の真理値も T であることを示している。これは含意 -> の次のような真理表から簡単にわかる。

A | B | A->B
T | T | T
T | F | F
F | T | T
F | F | T

上の真理表では A と A->B がともに T の場合は B の真理値は T しか取り得ないからだ。-> の除去規則は前件肯定を表している。

それでは -> の導入規則はどうだろうか。これは次のような推論図になる。

B
-----------
A -> B

これは後件 B の真理値が T であれば、任意の命題 A について含意 A -> B の真理値が T となることを示している。これは、含意の真理表を見ることで妥当な推論であることが分かる。なぜなら、後件 B の真理値が T の場合、前件 A の真理値が T の場合は当然 A->B の真理値は T であるし、前件 A の真理値が F の場合は後件 B の真理値のいかんにかかわらず、含意 A -> B の真理値は T となるからだ。

このように論理記号についての推論における導入規則、除去規則の正当性は真理表で確認することができる。

最後に「仮定が抜け落ちる」という用語の意味について考えてみる。

そこで A->B と B->C という二つの含意の真理値が T のときの新しい含意 A->C の真理値について考えてみる。まずこの3つの含意についてはつぎのような真理表を作ることができる。

A | B | C | A->B | B->C | A->C
T | T | T | T | T | T
T | T | F | T | F | F
T | F | T | F | T | T
T | F | F | F | T | T
F | T | T | T | T | T
F | T | F | T | F | T
F | F | T | T | T | T
F | F | F | T | T | T

この真理値表で A->B と B->C の真理値がともに T である行は4か所あるが全て A->C の真理値が T であることが分かる。したがって、この推論は正しいが、推論図を使った証明はひと工夫がいる。

まず、含意 A->B について、前件 A の真理値が T の場合を考える。この時前件肯定の推論から B の真理値は T である。前件 A が偽の場合は、含意 A->B の場合は B の真理値が T でも F でも A->B は真であるから、B の真理値は不定である。

A(仮定) A->B
-----------------
B

次に A の真理値が T であるというこの仮定の下で B と B->C から何が推論できるかを考えると、明らかに C の真理値は T である。

B B->C
-----------
C

A の真理値が T であるという仮定から C の真理値は T であると推論できたので、C の真理値が T である場合に -> の導入規則から A -> C が推論される。

C
---------
A->C

結論である A->C の前件の A には A の真理値が T の場合と F の場合が含まれている。A が T の場合には、C の真理値が T であるという結論は A の真理値が T であるという仮定から推論されたのだから、含意 A->C の真理値は当然 T である。一方 A の真理値が F の場合は含意の真理表から C の真理値が T であろうと F であろうと含意 A->C の真理値は T になる。

したがって、A->C の結論を得るのに A の真理値が T であるという仮定は不要であることが分かる。C の真理値が T であることを推論するのに A の真理値が T であるという仮定を用いたが、最終的な結論 A->C においては A が真であるという制約が必要なかったことが分かる。したがって、一連の推論についてA の真理値が T であるという仮定は「抜け落ちる」ことがわかる。したがってこの推論の前提は A->B の真理値が T かつ B->C の真理値が T であり、結論は A->C の真理値が T であるということになる。これを推論図で表すと次のようになる。

A->B B->C
--------------
A->C

また、仮定 A が抜け落ちる理由を上の真理表からも考えてみる。上に記した真理表から A->B と B->C の真理値がともに T になる条件下では A の真理値が T のときは C の真理値も必ず T になる。また、この場合結論の A->C は T となる。

それでは A の真理値が F の時はどうだろうか。この場合は C の真理値が T であっても F であっても、A->C の真理値は T となる。この場合、A->B, A-C の真理値の取り方は A->C の真理値が T であるという結論に影響しない。当然、A->B, A->C の真理値がともに T であるという条件下でも A の真理値が F であるときは A->C の真理値は T である。

結局 A の真理値が T でも F でも、結論である A->C の真理値は T となるから、命題 A が真であるという仮定は必要ないことになる。したがって、A->B B->C ならば A->C であることが証明できる。

こう考えると、仮定 A が抜け落ちるという表現よりも、「A の真理値が T と仮定すると C の真理値は T であるから、A->C の真理値は T である。また、A の真理値が F であると仮定すると A->C の真理値は T である。よって A の真理値が T の場合も F の場合も A->C の真理値は T となるから、A の真理値に対する何の仮定も必要ない。」という論証の方が事情がよくわかる気がする。

自然演繹の証明は、推論規則を用いて論理式を変形していく手続きだ。これは、要素命題に真理値を当てはめて複合命題の真理値を調べる真理表の方法とは概念が異なっている。しかし、自然演繹では変形規則が多く、仮定が落ちるなどの概念も理解しずらいため難しく感じてしまうが、その手続きの意味を理解するために真理表を活用することができる。

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by tnomura9 | 2018-09-16 11:34 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

前件肯定 modus ponens

「A 並びに A -> B が真なら、Bは真である」という前件肯定は命題論理の推論の基礎になっている。しかし、この推論の正当性はどうすればわかるのだろうか。

命題論理で A や B で原子命題を表すとき、A や B の真理値が真であるか偽であるかは不定だ。これらは命題変数であり、その真理値は真の可能性も偽の可能性もある。したがって次の含意の真理表のように A と B の真理値のあらゆる組み合わせについて含意の真理値が決まる。

A B A-> B
T T T
T F F
F T T
F F T

Aの真理値とBの真理値の組み合わせは、Aの真理値とBの真理値の間に暗黙の関連がない場合、すなわち、命題Aと命題Bが互いに独立な場合は 2^2= 4 なので、上の真理表はAとBの真理値のあらゆる組み合わせを尽くしている。つまり、含意 A->B の取りえる真理値の全ての可能性を尽くしていることになる。

真理表の以上のような性質を考えると、「A並びにA->Bが真なら、Bは真である」という前件肯定の正当性を真理表から読み取ることができる。AとA->Bがともに真となるのは真理表では、A = T, A->B =T, B = T の場合のみであり、Bが真であるという推論は正当である。

このように命題論理の推論の正当性は、原子命題の真理値の全てを組み合わせた真理表から保証される。命題論理の本質は、すべての起こりえる場合を考えつくすということだ。

論理演算の規則の下で「A と A-> B が真であれば B は真である」という前件肯定が保証されれば、A と A -> B がトートロジーであれば、B は常に真すなわち B もまたトートロジーであることが保証される。すなわち原子命題のどのような真理値の組み合わせにおいても命題 B は真となるからだ。そうして、この方法で無限にトートロジーを作り出していくことができる。

しかし、このようにして体系的にトートロジーを作っていくということが論理的推論なのかどうかというと、少々違和感がある。確かに (A ∧ (A -> B)) -> B はトートロジーだが、これが「A並びにA->Bが真なら、Bは真である」という前件肯定と同じ意味だとは考えにくい。上の論理式がトートロジーであるというのは、命題 A や B に含まれる要素命題のどのような真理値の組み合わせに対しても、その論理式の真理値が真であるということを意味しているが。A や B の要素命題のどのような真理値に対して論理式の真理値が真であることを知りたいわけではなく、A と A->B が真であるという条件の下で B が真であるかどうかを知りたいのだからだ。

命題論理の推論について勉強するときの違和感というのは、そういうところにあるのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2018-09-08 11:49 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

命題論理と全称命題

領域 D のすべての要素 a について、原子的な述語 P(x) による命題 P(a) が必ず真偽の真理値のどちらかを持つとき、すなわち、排中律が成立するとき、領域 D の任意の原子的な命題 P(a) は命題論理に従う。また、原子的な命題 P(a), Q(b), ... 等を論理記号で結合した複合命題も命題論理に従う。なぜなら、命題論理においてこれらの複合命題に含まれる原子命題の個数は有限個だからだ。有限個の原子命題からなる複合命題は再帰的に必ず真偽の真理値のどちらかを持つことが言えるからだ。

しかし、領域 D の要素数が無限の場合、述語論理の全称命題

∀x P(x)

の真理値を命題論理のような方法で決定することはできない。

∀x P(x) = P(a) ∧ P(b) ∧ ...

と全称命題を原子命題の論理積として展開しようとしてもすべての命題を展開することはできないからだ。展開の過程でどれか一つの命題 P(n) でも偽であれば ∀x P(x) は偽となってしまうからだ。

このようなときには、数学では伝統的に「全て」を「任意の」という言い方に置き換える。領域 D のどの要素 a をとっても P(a) が真なら、領域 D の全ての要素についても P(a) が真であると考えてもいいではないかという議論だ。

「全て」と「任意の」という二つの操作は同じものではない。「全て」の場合は要素全てを列挙することができるのに対し、「任意の」というサンプリングの操作では、すべての要素を列挙しているわけではないからだ。

しかし、「全て」と「任意の」が同等なものと考えたとき、命題

∀x P(x)

は任意の a に対し P(a) であると解釈することができる。これならば最初の例のようにすべての P(a) を列挙する必要はないので、これに真理値を割り当てることができる。すなわち、任意の a に対し常に P(a) が真ならば命題 ∀x P(x) は真である。なぜなら P(a) が偽となるような要素 a を見つけ出すことができないからだ。

∀x を「任意のx」と読み替えるやり方は、x を全て列挙しているわけではないので、これを「全て」と同じと考えるのは不適当だ。しかし、それを容認することで、

∀x (P(x)->Q(x))

のような複合的な述語を持った命題も解析できる。すなわち、どのような要素 a についても P(a)->Q(a) が真なのだから。P(a) が真であって Q(a) が偽であることはないということが、命題論理の法則で示される。したがって、P(x), Q(x) の真理集合を P, Q とすると、a ∈ P ならば a ∈ Q 、すなわち、P ⊂ Q であることが推論できる。

このように「全て」を「任意の」に言い換えることは全く正当なように見える。しかし、ラッセルのパラドックスがこのような無邪気な考え方が成立しない場合があることを示している。

すなわち、どのような「自分自身を要素として含まない集合の集合」を集めてきたとしても、その集合は自分自身を要素としては含まない。すなわち、任意の「自分自身を要素として含まない集合の集合」は自分自身を要素としては含まない。それにも関わらず、全ての「自分自身を要素として含まない集合の集合」は矛盾となるからだ。

すなわち、「全て」を「任意の」に置き換えるやり方は多くの場合妥当だが、しかし、妥当だと考えることはできない場合があることを示している。
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by tnomura9 | 2018-03-15 07:47 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

単純な述語の全称命題と存在命題

領域 D の全要素に対し述語 P(x) が定義されているとき、要素 a と述語のペア P(a) は命題である。また、P(a) は真または偽のどちらかの真理値をとる。P(x) の真理値が真となるような要素 x の集合 {x | P(x)} は述語 P(x) の真理集合である。真理集合は左のような内包的定義で必ず定義できる。また、真理集合 P は領域 D のべき集合の要素である。

この要素的な述語を論理記号で連結した複合的な述語もまた、領域 D の述語である。たとえば、P(x) -> Q(x) という述語は変数 x に領域 D の要素を a を当てはめたとき、P(a) -> Q(a) は必ず真または偽の値をとる。この複合的な述語も当然真理値をもつので、真理集合が存在し、それは、(D - P) ⋁ Q である。この真理集合もやはり領域 D のべき集合の要素である。

領域 D については、このような複合的な述語の他に、原子命題を論理記号で結合した複合命題がある。複合的な述語では主語の x は P(x) と Q(x) は一致していたが、主語が一致していない命題 P(a) と Q(b) についても P(a) -> Q(b) のような複合命題は考えることができる。このような命題については真理集合は考えられない。

領域 D における命題はこのように、要素的な述語と領域 D の要素による命題。複合的な述語と要素による命題、要素的な命題の複合命題、あるいはそれらの組み合わせが存在するが、それらの命題すべてに命題論理の定理は適用することができる。命題論理の定理はあくまでも真理値を持つ命題の関係を述べたものであり、けっきょくのところ述語と領域の要素のペアである命題 P(a) について述べているからだ。実のところ、命題論理の立場からは述語の真理集合が何かということについては無視できる。

一方、述語論理では述語の性質そのものが議論の対象となる。要素的な述語の全称命題、

∀x.P(x)

は領域 D の全ての要素 x について P(x) が真であれば真の真理値をもち、そうでなければ偽の真理値をもつ。この命題は真理値を持つが、それは P(x) と要素 a とのペア P(a) で決まるわけではない。つまり、この命題を構成する述語 Q(x) は存在しない。この命題が規定しているのは述語 P(x) の真理集合 P が領域と等しい、すなわち、P = D であるということである。この命題が偽である場合それは P /= D すなわち集合 (D - P) が空集合ではないということを意味している。

要素的な述語の存在命題、

∃x.P(x)

は、P(a) が真となるような要素 a が少なくとも一つは存在することを規定する。この命題が真であるとき、述語 P(x) の真理集合は存在するすなわち、真理集合 P が存在する。この命題が偽であるときは述語 P(x) の真理集合は存在しない。すなわち、P は空集合である。このとき、(D - P) = D であるから、P の補集合は D と等しくなる。すなわち ∀x.¬P(x) と ¬∃x.P(x) は同値だ。

このように量化子を用いた全称命題や存在命題は、述語 P(x) の真理集合を定めるのではなく、述語の真理集合の性質を規定するものだ。たとえば、

∀x.(P(x)->Q(x))

という命題が真であれば、

(D - P) ⋁ Q = D

であるから、

P ∧ (D - Q)= φ

したがって、

a ∈ P ならば a ∈ Q すなわち P ⊂ Q (または、a /∈ Q ならば a /∈ P)

である。このように全称命題は述語の真理値を定めるものではなく、述語の真理集合の関係性を定めるものだ。さらに、存在命題について考えてみる。

∃x.(P(X)->Q(x))

これは、ある a に対し ¬P(a) ⋁ Q(a) が真であることを意味しているから、P(x), Q(x) の真理集合で言えば (D - P) = Q = φ すなわち、

P = D かつ Q = φ

の時以外は命題が真になることをしめしている。すなわち、P(x) の真理集合が領域 D と一致し、かつ、Q(x) の真理集合が空集合の場合以外は上の命題は妥当な命題だ。

全称命題や存在命題は真理集合そのものではなく、真理集合間の性質を規定する述語論理の方程式のようなものだ。述語と領域 D の要素のペアからなる命題や、その真理集合にくらべ全称命題や存在命題のイメージがつかみにくいのは、それらが、真理集合そのものではなく、真理集合間の関係性を規定するものだからだ。




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by tnomura9 | 2018-03-11 17:25 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

領域と存在命題

領域 D における論理の構成要素は明確だ。命題論理の場合も述語論理の場合も変わりない。それは、述語 P(x) と領域 D の要素とのペア P(a) が命題であるということだ。

命題論理の場合は、命題 P(a) が真か偽の真理値のどちらかを持つという条件があれば、命題論理の定理を適用することができる。命題論理の場合は量化子が導入されているので、命題が真か偽の真理値のどれかを取るという条件だけでは、命題論理を領域 D に適用できない。述語論理では述語 P(x) の真理集合 P = {x| P(x)} を考えることで、領域 D の要素 a が述語 P(x) を充足することを

a ∈ P

で表すことができる。

論理と集合で循環しているようだが、命題論理と述語論理の関係を考えるのには集合で考えるのが便利だ。存在命題

∃x.P(x)

を集合で表すと、

a ∈ P となるような a が存在する。(P(x) の真理集合 P は存在する。)

という表現になる。注意が必要なのは、真理集合 P が存在することはわかるが、真理集合 P がどのような集合なのかはこの命題ではわからないということだ。a がたった一つしか含まれないのか、それともかなりの量の要素を P が含んでいるのか、存在命題だけからは知ることはできない。

それでは、次の場合はどうだろうか。

∃x.P(x)->Q(x)

真理集合でこの命題を論じる場合は P(x)->Q(x) と同値の ¬P(x)⋁Q(x) を利用したほうがいい。この命題の真理集合は便宜的に P の補集合を ¬P と書くことにすると、¬P∪Q である。したがって上の存在命題は、

a ∈ ¬P∪Q となる領域 D の要素 a が存在する

という意味を表している。これは ¬P∪Q という集合が存在するということである。すなわち真理集合 ¬P と Q の和集合が存在することを示している。しかし、¬ P と Q の和集合はどのような場合にも存在する。ただし、P = D, Q = φのときは、¬P∪Q はどのような要素も含まない。したがって、

∃x.P(x)->Q(x)

は P = D, Q = φ でない限りは、自明な命題だ。このように、量化子を含んだ命題は、真理集合と真理集合の関係性を述べている。P(x) という述語は真理集合 P を定めるが、Ex.P(x)->Q(x) は特定の真理集合ではなく、真理集合と真理集合の関係を定めているのだ。

このように、命題論理は確定した真理集合を扱うのに対し、述語論理の量化子を含む命題は、真理集合と真理集合の関係性を記述している。命題論理の命題にくらべ、量化子を含む命題の取り扱いが難しく感じるのは両者の命題の性質が異なっているからだ。



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by tnomura9 | 2018-03-06 07:29 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

領域と述語論理

領域 D の一階述語論理の場合も述語 P(x) と対象 a のペア P(a) を命題と考えるのは、命題論理の場合と同じだ。また、P(a) が真となるような要素の集合は領域 D の部分集合であり、これを真理集合 P で表すことができる。このとき、述語 P(a) が真であることと a ∈ P であることは同値と考えることができる。すなわち述語論理の命題を集合の演算に置き換えることができる。

しかし、述語論理の場合は量化子のついた命題を扱う。すなわち、∀x.P(x) や∃x.Q(x) のようなものも命題と考える。このような命題はどうすれば集合の表現に置き換えることができるだろうか。

たとえば、∀x.P(x) はどのように解釈したらよいのだろうか。領域 D の全ての要素 x について P(x) が真となるということだから、これは 述語 P(x) の真理集合が領域 D と一致していることを意味する。すなわち、

P = D

である。それでは ∀x.P(x)->Q(x) はどうだろう。いま述語 R(x) を考え、

R(x) = P(x)->Q(x)

とする。この時 R(x) の真理集合はどのようなものだろうか。R(a) = P(a)->Q(a) が真となるのは命題論理の性質から P(a) が偽かまたは Q(a) が真の時である。すなわち R(a) = P(a) -> Q(a) が真になるのは a /∈ P または、a ∈ Q の時だ。

これは述語 R(x) = P(x)->Q(x) の真理集合が Pの補集合と Q の和集合であることを意味している。Pの補集合を便宜的に¬P で表すことにすると、P(x)->Q(x) の真理集合は ¬P ∩ Q である。

したがって、

∀x.P(x)->Q(x) は

¬P ∪ Q = D

このことから

P ∩ ¬Q = φ

つまり、

a ∈ P かつ a ∈ ¬Q を満たす a は存在しない。

a ∈ P ならば必ず a ∈ Q

すなわち

P ⊂ Q

であることが分かる。

これは、∀x.P(x)->Q(x) が真ならば、P ⊂ Q が真であるので、a ∈ P ならばかならず a ∈ Q であることが推論できる。

このことは、すべての人間は死すべきものである。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死すべきものであるという推論の正当性を示している。

このように領域 D という集合を定めるとき、領域 D における対象と述語に関して一階述語論理は真理集合の関係として表現できる。この時、命題と命題の関係である命題論理の法則が、一階述語論理の推論に活用される。また、それによって、量化子を含む命題から真理集合の間の関係が導き出される。このことによって、命題論理では表現できない主語と述語の論理的な関係を、集合の性質として記述できることが分かる。

公理系の観点からはイメージしずらかった命題論理と一階述語論理の関係は、一階述語論理の適用範囲を領域 D に制限することによってわかりやすいものとなる。

論理を領域 D に制限することは論理の一般性を制限することになるかもしれないが、そのことによって、かえって、論理の本質とは何かという問いに答えやすくなるのではないだろうか。すなわち、論理の本質とは集合なのである。
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by tnomura9 | 2018-03-02 21:47 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

領域と命題論理

領域 D が集合であれば、領域 D における命題は述語と命題のペア P(a) になる。また命題 P(a) の真理値は述語 P(x) と領域 D の要素のペアで一意的に決まる。

命題 P(a) と命題 Q(b) の複合命題の真理値については、P(a) の真理値と Q(b) の真理値の組み合わせで決まる。例えば含意については次の真理表で決定される。

P(a) Q(b) P(a)->Q(b)

T .. T .. ...T...
T .. F .. ...F...
F .. T .. ...T...
F .. F .. ...T...

領域 D においては P(a) や Q(b) は真か偽のどちらかの値を必ず取るから P(a)->Q(b) の真理値の場合も、それによって真か偽のどちらかの値をとる。たとえば P(a) = T, Q(b) = F のとき P(a)->Q(b) = F である。このように領域 D における命題については全て真理値はすべて決定している。

しかし、命題論理学の定理では論理式の命題は全て命題変数である。すなわち、命題変数 A は真の値も偽の値もとり得る。領域 D の命題と命題論理学の関係はどのようなものだろうか。

命題論理学の命題は真または偽の値をとり得る変数だ。つまり、領域 D の構造にかかわらず、命題論理学の定理は成り立つ。命題論理学の定理に領域 D の構造が関与するとすればそれは、述語 P(x) と要素 a からなる命題 P(a) が必ず真か偽の値をとるということである。

言い換えると、領域 D に命題論理が適用できる条件は、領域 D の命題 P(a) が必ず真または偽の値をとるということである。P(a) の真理値がパラドックスによる不定値となる場合は、領域 D に命題論理を適用することはできない。

また、領域 D の命題 P(a) と Q(a) に依存関係、たとえば P(a) が真なら Q(a) も真という関連性があったとしてもそれは命題論理の定理には影響しない。それらの真理値を単に定理の変数に代入するだけだからだ。

このように領域 D の命題に命題論理が適用される必要十分条件は、それらの命題が必ず真または偽の値のどちらかをとるということだ。


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by tnomura9 | 2018-03-01 12:54 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

命題論理と一階述語論理

論理学の本を読んでも命題論理と(一階)述語論理の関係がもうひとつよくわからない。例えば、∀x.P(x) というような命題は、領域 D の要素が有限個ならば

∀x.P(x) = P(a1) ∧ P(a2) ∧ ... ∧ P(an)

のように置き換えることができる。しかし、領域 D が無限集合の場合は論理積の項は無限になってしまうのでこのやり方は使えない。このように述語論理と命題論理の関係がいまひとつあやふやなのに、述語論理は命題論理の拡張であるといわれても不満が残る。

これは、命題論理も述語論理も公理系で論じられるからだ。つまり、命題論理の公理に、量化子を加えた公理から組み立てたものが述語論理とされている。こういう意味で述語論理は、命題論理の拡張なのである。公理と推論で体系を組み立てていくやり方は数学の王道だが、このやり方だと、論理とは何かという具体的なイメージを作るのが難しい。論理の本質とは何かというすっきりしたイメージが欲しいのだ。

実は、述語論理とは何かという問いには集合におけるベン図ですべてを答えることができる。論理演算と集合演算は同値なのだ。つまり、ラッセルのパラドックスによって素朴集合論から追放された、命題関数と集合を同値と考える内包公理は、矛盾を起こさないようにできるのだ。

集合がどのような命題関数によっても、内包的に定義できれば、論理的推論はそのまま集合の演算となり、その逆も可能だ。しかし、素朴集合論ではラッセルのパラドックスによって無制限の内包公理は矛盾を引き起こす。ところが、発想を変えれば、無制限の内包公理を矛盾なく採用することができる。つまり、無制限の内包公理が矛盾を起こさないような論理のモデルを作ればいいのだ。

内包公理が矛盾を起こさないような論理のモデルは次のようになる。

まず、対象を集めた素朴集合論の意味での集合を領域 D として考える。この領域Dの部分集合全てを集めた集合をべき集合 2^D とする。領域 D が有限集合の時はこれらの存在は明らかだが、領域 D の要素が無限にあっても 2^D は存在すると考える。

この領域 D において、述語 P(x) を考える。P(x) は領域 D を定義域とし値域が2値集合 {True, False} であるような関数である。領域 D の任意の要素 a について P(a) は 必ずTrue または False の値をとる。このような P(a) は命題である。すなわち、命題 P(a) は必ず True または False の値をとるので領域 D においては命題は排中律をみたす。

P(a) の排中律によって、内包的定義 {x| P(x) が真} は領域 D の部分集合を定める。これを述語 P(x) の真理集合 P という。術後 A(x) と B(x) の表現が違ってていてもその真理集合 A, B が一致する場合この二つの述語は同等と考える。このことは、領域 D の実質的な述語 P は 2^D の要素で類別できることが分かる。したがって、領域 D に関する述語は 2^D の要素と同一視できる。

A(x) ∧ B(x) のような複合命題の真理集合は、A ∩ B のような真理集合の演算結果と一致する。したがって、領域 D の論理演算は、2^D の集合演算に置き換えることができる。したがって、領域 D についての論理演算は 2^D の集合演算に置き換えて議論することができる。領域 D における論理的議論は、領域 D と 2^D における集合の議論として集合論の立場に置き換えられる。

この領域 D は通常の集合でなくてはならない。つまり、D の任意の要素 a について P(a) が真となるが、領域 D に属さない対象 b については P(b) が偽となるような述語 P(x) が存在し、任意の述語 Q(x) に対し領域 D の任意の対象について Q(a) が必ず真または偽の値をとらなければならない。この定義からは、すべての集合の集合は領域にはなりえない。それはその要素である「自分自身を要素として含まない集合の集合」は、「自分自身を要素として含まない」という述語もその否定も充足しないからだ。

これは、集合とは何かという問いへの答えでもある。集合とは「任意の述語 P(x) とその集合の任意の要素 a について必ず P(a) が真または偽の値をとる」対象の集まりである。言葉を変えると集合とは、「その任意の要素と任意の述語の対からなる命題について排中律が存在する要素の集まり」である。

しかし、これは、領域 D が「自分自身を要素として含まない集合」や「自分自身を要素として含む集合」を要素としてとりえないということを意味しているのではない。領域 D の要素にそのような集合が含まれる場合を考えることはできる。ただ、領域 D は「自分自身を要素として含まない集合の集合」を要素としては含まないだけだ。領域 D の部分集合として「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えることはできるが、そのようなものは領域 D の要素としては存在しない。

この領域 D はベン図でいうところの全体集合である。全体集合がなければ、集合 A の補集合は無意味になる。それだけではなく、全体集合が存在することで、論理と集合は同値であると考えることができるようになる。つまり、全体集合である領域 D を考えることで、集合の内包的定義が可能になり、命題の排中律が成立するのである。論理とは、このような内包的定義と排中律が成立する領域 D の演算のことを意味している。

このように、述語 P(x) についての論理を考えるときにその対象を領域 D という集合に制限することによって、排中律と内包公理は成立し、述語 P(x) についての矛盾のない論理を組み立てることができる。領域 D に論理を制限するこのようなモデルではすべての論理的推論は矛盾を含まず、命題論理と述語論理の関係を明確に説明することができるが。それは別の記事になる。


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by tnomura9 | 2018-02-27 04:57 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

集合と論理

対象の集合を領域 D とする。領域 D のべき集合を 2^D とする。2^D の要素は D の可能な部分集合の全てを含んでいる。

述語 P(x) は 領域 D から2値集合 V = {True, False} への写像である。領域 D の任意の要素を a とすると、P(a) は必ず True, または False の値をとる。すなわち、命題 P(a) は必ず真または偽の値をとる。P(x) が真となるような D の要素を集めるとそれは D の部分集合になる。これを P(x) の真理集合と言う。一方 P(x) が偽の値をとるような D の要素 x も集合になる。これは P(x) の真理集合の補集合になる。述語 P(x) に対し領域 D の部分集合は、真理集合とその補集合に二分できる。つまり、真理集合と述語の真偽の間には同値関係が存在し、述語によって無制限の内包的定義で集合を定義できる。

命題 P(x) と領域 D のべき集合 2^D の関係を考えると、P(x)が真であるという条件は 2^D の要素と対応するが、P(x) の真理集合と Q(x) の真理集合が一致する場合、述語 P(x) と Q(x) は同等である。つまり、述語としての表現が変わっていても、真理集合が同じ場合、領域 D については P(x) と Q(x) は論理的に同値である。

べき集合 2^D の要素間の集合演算はべき集合 2 ^ D について閉じている。集合演算と論理演算の同値性を考えると、領域 D における述語 P(x) の全ての論理演算については演算可能である。集合の内包的定義に制限はなく、論理演算は全て真理集合と対応している。

このモデルでは、集合は全て内包的定義で定義され、領域 D におけるすべての論理演算は、べき集合 2^D の集合演算と置き換えることができる。これが本来の論理と集合の関係だったのではないだろうか。論理的推論はこのような領域 D の集合について用いられるときは矛盾を生じないのだ。

領域 D とラッセルのパラドックス

さて、それでは矛盾がないはずの内包公理が、どうしてラッセルのパラドックスを発生してしまうのかを考えてみる。そこで、まず、上に述べた領域 D に帰属関係を定める。領域 D の全ての要素について、2項関係 ∈ を定める。a が b に属しているとき a ∈ b は真値をとりそうでないとき偽値をとる。属しているという言葉は無定義用語だ、とくに要素と集合の帰属関係でなくてもいい。ただし、b を固定し x ∈ b が真となる要素 x を集めたときそれは一つの D の部分集合になる。これはまた 2^D の要素でもある。また、この集合は P(x) = x ∈ b という述語に対する真理集合でもある。

この2項関係は a ∈ a のような自己言及も禁止していないとする。そうすると領域 D の全ての要素について x ∈ x であるか x /∈ x であるかの二つのグループに分けることができる。これらは Q(x) = x ∈ x という述語の真理集合と、その真理集合の補集合だ。これらは確かに領域 D の部分集合である。すなわち、2^D の要素でもある。

ところで要素 b を固定したときに x ∈ b を満たす要素を集めるとそれは領域 D の部分集合だ。したがって、要素 b はその真理集合を代表しているという見方もできる。すなわち b は内包的定義が {x | x ∈ b} である集合と同一視してもいい。領域 D については全ての内包的定義による集合が 2^D の要素であるから。b の表す集合は存在する。

それでは内包的定義が {x | x /∈ x} であるような集合は存在するだろうか。それは上の議論から明らかに領域 D の部分集合として存在する。なぜなら領域 D の全ての二つの要素の間には二項関係が定義可能だからだ。領域 D の要素は確かに自分自身の間に帰属関係があるものと、自分自身の間には帰属関係がないものが存在する。これらはまた、べき集合 2^D の要素でもある。このことは R(x) = x /∈ x という述語が領域 D の部分集合を定めることを意味する。領域 D において「自分自身を要素として含まない要素の集合」はあきらかに存在する。

ところが内包的定義が {x | x/∈ x} となるような集合と同一視できる領域 D の要素は存在しない。なぜなら、そのような領域 D の要素を仮定するとラッセルのパラドックスが発生してしまうからだ。このことは内包的定義 {x | x /∈ x} を満たす領域 D の集合は存在するにも関わらず、そのような集合と同一視できる領域 D の要素は存在しないことを示している。これがラッセルのパラドックスの正体だ。

上にも述べたように領域 D において、そのすべての部分集合は述語で定めることができる。しかし、領域 D に帰属関係 ∈ を導入することによって発生する集合を代表する要素を、集合と同一視した場合はそうではない。そのような要素に対する集合を定めることができない述語も存在してしまう。そうすると、無制限な内包的定義では集合を定めることができないのではないかという議論が出てくる。しかし、そうではない。無制限な内包公理で領域 D の集合を定めることができる。無制限な内包的定義が適用できないのは、領域 D の集合を帰属関係で定義しようとした場合の集合と同一視できる領域 D の要素を考えた場合なのだ。

こういう風に考えると「集合とは物の集まりである」という素朴集合論の定義には罪がないことが分かる。それは、領域 D の要素間の帰属関係が全ての集合を定めることができると考えたことによる矛盾なのだ。つまり、領域 D の要素を集合と同一視しようとしたところに齟齬が発生したのである。

領域 D が有限集合の場合、明らかに領域 D の要素数だけで領域 D のべき集合 2^D の全要素を代表させることはできない。また、領域 D が無限集合であったとしても、領域 D の2項関係を考えたとき不動点が発生するためにラッセルのパラドックスが発生してしまう。領域 D の部分集合についての議論を、領域 D の要素の帰属関係だけで完結させようとすることが間違っているのだ。

自分自身を要素とするかしないか

こういう風に考えていくと「集合が自分自身を要素とするかしないか」というのは、集合にとって本質的な性質ではないような気がする。集合が自分自身を要素とするかしないかという問いは、領域 D に所属関係という2項関係を導入しなければ発生しない問だからだ。「自分自身を要素として含まない集合の集合は自分自身を要素として含むか」という問いは、集合の一般的な性質ではなく、領域 D に所属関係を導入して領域 D の要素と集合を同一視したことによる副次的な性質についての問いではないだろうかと思う。

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by tnomura9 | 2018-02-05 16:22 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)