カテゴリ:考えるということ( 777 )

究極の学習法

究極の学習法を思いついた。

その方法とは、参考書を読みながら読んでいる部分の最重要のキーワードを紙に書くという方法だ。

紙はA4のコビー用紙のコピーに失敗したものを半分に切りその裏側を使う。参考書のページを読みながら、そのページで最重要と思われるキーワードを転記する。書き留めるキーワードの数は参考書の1ページに1個くらいがいい。あまりに多いと参考書を読み進められないし、疲れてしまう。また、キーワードを書き溜めた紙がキーワードで一杯になったら躊躇わず捨ててしまう。

キーワードを書き留めるのは、注意をそのキーワードに留めるためで、記録するためではないからだ。

こうすると、不思議に参考書を読み続けることができる。大脳生理学的な理由は知らないが、経験的なものだ。

やってみると分かるが、キーワードを書き写すときはちょっと読書スピードが落ちる。この際にキーワードに関連することをいろいろ考えることができるようだ。分厚い参考書を読むときは読むスピードだけに注意がいってしまうが、ちょっと速度を落として考える時間をとることも大切なことだ。

「学びて思わざれば...」の故事を引用するまでもなく、情報の入力と思考とは車の両輪のようなもので、どちらも欠くことはできない。

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by tnomura9 | 2018-08-22 10:14 | 考えるということ | Comments(0)

横町の御隠居のすすめ

横町の御隠居は落語の人気者だ。人が良く世話好きで、あらゆることに蘊蓄を語るのが好きだ。しかしそれは系統だって得られた知識ではないので、八つあん熊さんにちょっと突っ込まれると、苦しい言い訳をしなくてはいけなくなる。

しかし、この御隠居さんの学習の仕方は案外重要だ。ウェブのCMSのPHPのソースを読むと、プログラムの知識そのものよりも、サーバーの知識や、多言語化の知識など雑多な知識が幅広く要求される。それぞれについてそれほど深い知識が必要なわけではないが、どういうものかくらいは知っていないとソースの意味がわからない。

このちょっと知っておかないといけない知識の範囲が意外に広範囲にわたっているので、プログラムのソースを読むのと並行に学習することは不可能だ。むしろ、日ごろ雑学的につまみ食いをしていて、深い知識もなしに、そんなものだとイメージを作っていたものが結構役に立つ。雑学をため込むためには、たっぷりとした暇な時間が必要なのだ。

ちょっとした空き時間に、ちらっと眺められるような細切れな知識をため込んでおくのは大切なことだ。

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by tnomura9 | 2018-05-31 15:37 | 考えるということ | Comments(0)

フリーセル中毒

管理人は完全なフリーセル中毒だ。ちょっと暇があるとついスマホでフリーセルをやってしまう。いったん始めると10回でも20回でも続けてやることができる。家族には呆れられているが、単純なゲームなのにとにかく飽きない。

これにはいくつか理由を思いつくことができる。それは一つは5分で決着がつくということ。クリアまでの時間が長すぎると空き時間にちょっとやるというわけにはいかない。ゲームをクリアするために毎回違った工夫が必要になってくること。必勝法のパターンなどないので、クリアするための戦略が毎回異なっている。何回も同じことをやるというマンネリ感がない。難しい局面をクリアしたときの達成感が結構ある。クリアするためには必ず難局のようなものがあるので、そこをかいくぐって札を全部山に戻したときの喜びが大きい。

これらは、学習の戦略にも共通するものがある。難しすぎることと、分かり切った単調なことはやりたくない。長時間を要するような学習はごめんだ。自分の工夫が結果に影響を及ぼすような参加感がなければいやだ。わがままな学習者の欲求をみたしてやるような、カリキュラムの研究が大切だということだ。

自習するときも継続するためには上に述べたような戦略が必要かもしれない。

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by tnomura9 | 2018-05-21 15:06 | 考えるということ | Comments(0)

ハードルを下げる

NHKの『ガッテン』で慢性疼痛の特集をしていた。はっきりした原因がわからないのに激しい痛みで苦しめられている患者さんが、脳を訓練することで痛みから解放されるという内容だった。

慢性疼痛ははっきりした原因もないのに激しい痛みを感じる病気だ。痛みの原因がないので原因対策では痛みはとれない。ところがそういう病気の人の脳の PET をとってみると大脳皮質の広範な領域で血流が低下している。一方脳の中心部の扁桃核というところは逆に興奮が見られるようなのだ。扁桃核は恐怖や怒りや不安といった感情に関係する神経の領域だ。この領域が興奮することで広範囲の脳の活動が低下し、それが痛みにつながっているらしい。

これとは別に脳の中心部の近くにある側坐核という領域は、快感や報酬と関連している。モルヒネや覚せい剤が効果を発揮するのは最終的にこの側坐核を刺激するからだといわれている。ところで、この側坐核は抑制性の神経線維を扁桃核に送っており、側坐核が興奮すると、扁桃核の活動が低下し、大脳全体の活動が増加する。したがって、側坐核を興奮させてやれば、扁桃核の興奮を抑えることで慢性の疼痛を緩和させることができる。

この側坐核は、しかし、簡単な方法で興奮させることができる。つまり、課題を設定してそれを達成したときの達成感を感じるとき、この側坐核が興奮しているのだ。

先ほどの慢性疼痛の患者も、小さな目標を設定しそれを達成したときの達成感を繰り返すことで側坐核を刺激し慢性疼痛から解放された。激しい腰痛に悩まされていた男性の患者さんは軽い筋トレを繰り返すことで筋トレをやり切ったという達成感を繰り返しているうちに腰痛がなくなってしまった。腰痛で歩くのも大変だった若い女性は階段を1段のぼるという課題から初めて、課題をクリアしているうちに2回まで階段を登れるようになり、スキップできるまでに腰痛が焼失した。激しい頭痛に悩まされていた女性は、書道をしている間は頭痛がないことに気が付き、意識的に書道をするうちに頭痛から解放された。

学習目標がうまく達成できないときは、ほんを読むのもつらくなるが、上手にハードルを下げることによって苦手感を低減できるようになるのではないだろうか。学習の技術にはモチベーションを保つための技術も含まれるのではないか。

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by tnomura9 | 2018-05-14 18:45 | 考えるということ | Comments(0)

文字の洪水

何か新しいことを学ぼうとすると、大量の文字の洪水に悩まされる。それらの中から自分に必要な情報を取り出すのは結構骨の折れる仕事だ。世に多くの勉強法の本が流布しているのも、この大量の情報の中から有意義な情報を取り出すにはどうすればいいのかという切迫感に答えてのことだろう。

しかし、本当に必要な情報は文字ではない。必要な情報は文字そのものではなく、文字によってあらわそうと試みられている文字以外の知識や情報なのだ。それらの知識を表現するのに文字は必ずしも適切ではない。実際、文字よりも、文字を使って著者が表現しようとした文字ではないイメージのようなものが本当は必要とされている。

文字情報から、文字ならざる情報を取り出すには、どうしても文字によって喚起される情報のイメージ化が必要だ。文字情報がこのようなイメージ的な知識を脳の中に生成できない限り情報の伝達は不可能だ。全ての文書の情報は一旦脳に取り込まれない限りは役に立たない。

この文字に非ざる情報は、一度文字の情報が脳の中に取り込まれて脳内でそのイメージを作られるまでは、理解されたとは言えない。ところが、脳というものは一度に大量の情報を取得するようにはできていない。また、書かれてあることを理解する速度もそんなには早くない。残念ながら大量の新しい情報を一気に処理する能力を脳は持ち合わせていない。

一方一旦脳に取り込まれた情報を利用するのは非常に高速にできる。神経の伝達速度は遅いかもしれないが、けた外れの並行処理によって、脳はそこに取り込まれた情報を効率的に取り出すことができる。

要するに、脳は全く初めての知識を理解するのは苦手だが、一度脳に取り込まれた知識を検索したり加工したりすることには長けているのだ。

このことから、初めての知識を習得する際には、その大量の文字情報の中から手掛かりとなるイメージを脳に作るということが大切になることが分かる。それは、大量の情報から限られた範囲の知識を脳に入力し、それに習熟するということで成し遂げられる。言い換えると大量の情報の中から少量の知識を選び出し、理解して、さらにそれが反射的に出てくるまで繰り返すということでその知識に慣れる必要があるということだ。

こうやって、理解のきっかけとなる少量の知識を自家薬籠中の物としておくことで、大量の文字情報に漕ぎ出すための橋頭保にすることができる。

新しい知識を学ぶときは一気に習得しようとせず、関連する小さな知識が簡単に理解できるようになるまで時間をかけて、それをアンカーにして知識を広げていくことが肝要だ。

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by tnomura9 | 2018-05-03 16:02 | 考えるということ | Comments(0)

万物は数である

全く直感的な話で根拠はないが、チューリング機械、ラムダ計算、素朴集合論、可算集合はみな同じものを表しているような気がする。そうしてこれらには不可避的にラッセルのパラドックスが存在する。

小さなプログラムでも作成していると、無限ループや無限の再帰によるスタックオーバーフローなどよく経験するが、これらはラッセルのパラドックスによって起きている。実際にはこれらのバグを避けながらプログラムを作っていく。

集合論を基礎に数学の理論を組み立てていくときも同様なことが起きる。端的なのがゲーデルの不完全性定理だ。これは一階述語論理におきたラッセルのパラドックスだ。

全能者は非全能者となり得るかという哲学の議論もラッセルのパラドックスだ。

これらのラッセルのパラドックスは、その体系が本質的に不動点を抱え込んでいるためにおきる。不動点とは f(x) = x となる x のことだ。不動点をもつシステムではラッセルのパラドックスを回避することはできない。

自然現象の全てはコンピュータでシミュレーションできるので、「万物は数である」というピタゴラスの主張は正しかった。しかし、その数はラッセルのパラドックスを抱えていたために無理数が発見されてしまった。

これからも人間はラッセルのパラドックスを抱えたシステムで、バグをうまく避けながら世界を探求していくのだろう。

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by tnomura9 | 2017-11-08 07:33 | 考えるということ | Comments(0)

利尿薬でどうして血圧が下がらないのか

ある人に、心不全の患者さんに利尿薬が3種類も処方されているのに血圧は下がらないのかと尋ねられた。確かに利尿薬で体液は減るわけだから、血圧は下がってもいい。しかし、ひどく下がるときもあるが大抵はあまり血圧が下がるということはない。なぜなんだろう。

一般に血圧というのは動脈圧を指している。しかし、動脈が分岐して毛細血管になる頃には動脈圧はほとんど0になってしまう。つまり、血圧の影響は毛細血管までしか届かない。血液が毛細血管を抜けて静脈へ行く頃には、心臓の拍出による血圧の影響はなくなり、静脈の還流には心臓の影響はないに等しい。

すなわち、血液循環のシステムは動脈系のコンパートメントと静脈系のコンパートメントにはっきりわけられていると考えることができる。

したがって、利尿薬によって腎臓から失われた体液は動脈系のコンパートメントから失われるのか、静脈系のコンパートメントから失われるのかをはっきりしておく必要がある。

動脈血は腎臓の糸球体で濾過され、尿細管やヘンレのループで再吸収される。この際、再吸収された血液は腎静脈に戻っていき、動脈に戻ることはない。利尿薬によって腎臓から尿として体液が排出されたとしても、体液量が減るのは静脈系の循環血液量が減るのであって、動脈系の血液容量には変化がない。

血圧は動脈系の血液容量と動脈のコンプライアンスで決まるので、動脈系の血液容量の変化がなければ血圧は下がらないのだ。利尿薬を使っても血圧があまり下がらないのはそういう理由からだ。

それでは、どのようなときに血圧は下がるのだろうか。動脈の末梢血管が拡張して末梢血管抵抗が下がると、動脈全体の血液量が減少する。動脈のコンプライアンスが変化しなければ動脈の血液容量が減少するため血圧は下がってしまう。したがって、血圧を下降させるためには利尿剤で体液量を減少させることよりも末梢血管の抵抗を減らしたほうが効果的だ。

また、心拍出量が減少すれば動脈系のインとアウトのバランスから動脈の血液容量が減少し、これも降圧の要因となる。それでは、心拍出量が減少するのはどのようなときだろうか。それは、左房への肺からの血液の還流が減少する場合だ。肺への血液の供給は右室が行うので、右室の拍出量が、左室の心拍出量の鍵を握っていることになる。右室梗塞の時の治療抵抗性の低血圧はこの機序によっている。

右室の収縮力が機能している場合、右室からの拍出量は、右房への静脈還流量に依存している。そうして、右房への静脈還流量は大静脈と右房の圧較差、すなわち大静脈の静脈圧に依存する。さらに、大静脈の静脈圧は静脈系の血液容量と静脈系のコンプライアンスに依存することになる。

静脈のコンプライアンスは、動脈のコンプライアンスより遥かに大きいので、静脈系の血液容量の変化は、動脈に比べ静脈圧にあまり影響しない。すなわち、利尿薬で利尿を行っても、静脈圧の変化は動脈に比べ僅かなものになる。このため利尿薬による体液の減少は静脈圧の現象にあまり寄与せず、そのため右室の拍出量は減少せず、ひいては左室の心拍出量の減少にも繋がらず、血圧低下がみられない。

血圧は心拍出量と末梢血管抵抗と循環血液量に影響をうけるとしても、動脈系と静脈系に分けて考えなければ利尿剤の影響を予測できないことが分かる。

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by tnomura9 | 2017-10-23 22:10 | 考えるということ | Comments(0)

理解のタイムラグ

『世界記憶力グランドマスターが教える脳にまかせる勉強法』池田義博著を読んだ。その中でも「3サイクル反復速習法」が独創的だったので今実行してみている。要するに1回の読書でベージを3回読み返しながら読み進めていく方法だが、その読み進め方が独特だ。1ページを読み終わって次のページに進む前に、そのページの一つ前のページから読み返すのだ。

今読んでいるページを読み終えたら、次のページに進む前に今読んでいるページの一つ前のページを読み返す。その後今読んでいるページをもう一度読み、それから、次のページに進むのだ。このサイクルを繰り返していくと、一回の読書で同じページを3回読むことになる。

面倒くさそうに見えるが、やってみるとそれほどでもない。速度が気になるなら、スキミングすればよい。実際にやってみると面白いことに気がついた。それは、次のページに移る前に今読んでいる一つ前のページを読むと内容がよく分かるのだ。それは繰り返しの3回目だからというだけでなく、書いてあることの構成や著者の意図が1回目に読んだときよりはるかによく見える。

そこで思いついたのは、3回目というタイムラグの間に、脳が1回目に読んだことを咀嚼して理解を深めているのではないかということだ。つまり一回目の読書では文字情報から内容を読み取るが、その内容を理解するために少しタイムラグが発生するのではないだろうか。さらに、文字情報の読み取りと同時に、意識には上らないが、意識下でそれを既存の記憶に関連付けて理解するという作業が行われているのではないだろうか。

どうやら、読書の際には文字情報から内容を読み取るという作業と、読み取った内容を既存の記憶と関連付けて理解するという2つの作業が同時進行的に行われており、読み取る作業とそれを理解する作業の間には少しのタイムラグがあるようなのだ。この理解する作業は意識下で行われているため読み取り作業の表面には現れないが、読み返す操作で意識に上らせることができる。この意識下の作業を読み返しで意識に上らせることで記憶の再定着ができるのだろう。

読み返しの操作は、ある程度細切れに行うのが有効だ。おそらく、本を3回通読してもこの分かったという感じはおこらないだろう。脳が新しい情報を処理するための適切な情報量があるに違いない。その情報の単位というのはどうも新書版1ページくらいのようだ。専門分野の教科書などは1ページの情報量が多く、読み返しの効果が薄れるような気がする。この場合は参考書の1ページ分を3等分して、それを新書の1ページとして取り扱うといいかもしれない。

この考えはノートの取り方にも応用できるのではないだろうか。参考書を読みながら丸写しするのではなく、前のページを読み返すときにノートに記入するのだ。あるいは脳が疲れなければ、前のページの内容を思い出して記入しても良い。いずれにせよ、意識的な読み取り作業に隠れている同時進行の意識下の理解の作業を有効活用することが大切だ。

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by tnomura9 | 2017-10-02 06:05 | 考えるということ | Comments(0)

長江文明

宮崎と鹿児島の南九州の古代の文化は、北九州の文化と非常に異なっている。例えば、地下式横穴墓などはほとんどが南九州でしか見られないものだ。また、花弁状竪穴住居もそうである。これほど際立った文化の違いは重要だ。

北九州の文化は、魏志倭人伝にも見られるように漢人の文化の影響を強く受けていると考えられる。しかし、宮崎や鹿児島の文化は漢人のものとは違う。どうもこれは揚子江流域で発展した長江文明の文化ではないかと思われる。

長江文明とは長江流域で起こった中国の複数の古代文明の総称である。その始まりは紀元前14000年とも言われている。稲作と漁労を主な生業としていたため稲作漁撈文化とも言われる。紀元前2500年ころの地球の気候の寒冷化とともに南下してきた黄河流域の漢人との抗争に敗れ、雲南省の苗族や、カンボジア、日本などへの民族移動が起きたと言われている。

長江文明の特徴は、母系社会であること、稲作や高度な航海技術を持っていたこと。文字を持たなかったこと。太陽と鳥を崇める宗教を持っていたこと。鏡と剣による祭祀があったこと。高度の玉の加工技術があったこと。呪術が盛んだったこと。顔に入れ墨を入れていたことなど、魏志倭人伝の邪馬台国の描写に共通するものがある。

大陸から長江文明の集団が東シナ海を渡って直接鹿児島や宮崎に渡来してきたことは大いに有り得ることだ。やっぱり邪馬台国は宮崎平野にあったのだ。


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by tnomura9 | 2017-05-12 22:51 | 考えるということ | Comments(0)

読み返しやすいノートのとりかた

参考書を読みながらノートをとるというと、本の目次のように階層性に用語を整理していく方法が一般的だが、ノートを読み返すときにはこれが意外に読みにくい。それは項目の階層が変るたびに連想が分岐するからだ。連想は本来数珠つなぎになっているものの想起が自然だからだ。連想の連鎖の中に分岐が入ると連想の流れが途切れ先へ進めなくなる。例えば次のような文章について考えてみる。

CD4ヘルパー細胞には(1)IFN-γ、IL-2を産生し細胞免疫に関与するTh1細胞(2)IL-4、IL-5、IL-13を産生しアレルギー疾患の発症に関与するTh2細胞(3)IL-17Aなどの炎症性サイトカインを産生し、自己免疫疾患の病態に関与するTh17細胞、(4)IL-9とIL-10を主に産生しアレルギー疾患の病態に寄与するTH9細胞(5)ケモカイン受容体CXCR5を発現することにより二次リンパ組織の濾胞胚中心にちちし、ICOSなど副刺激分子の発現とIL-21の産生を介して抗体産生を誘導する濾胞ヘルパーT細胞(Tfh細胞)の5種類が存在する。

これを一般的なノート法で記述すると、

A. CD4ヘルパー細胞
(1)Th1細胞
  (a) IFN−γ
  (b) IL-2
(2)Th2細胞
  ....

のような書き方になるが、ノートの木構造の分岐部で連想が途切れ切れやすく読み返しても内容を思い出せない。これを数珠つなぎの連想の順番に書き直すと次のようになる。

CD4陽性ヘルパー細胞 - Th1細胞 - Th2細胞 - Th17細胞 - Th9細胞 - Tfh細胞
Th1細胞 - IF-γ産生 - IL-2産生 - 細胞性免疫に関与
Th2細胞 - IL-4を産生 - IL-5産生 - IL-13産生 - アレルギー疾患の発症
Th17細胞 - IL-17産生 - 自己免疫疾患に関与
Th9細胞 - IL-9産生 - IL-10産生 - アレルギー疾患の病態に寄与
Tfh細胞 - CXCR5を発現 - 濾胞胚中心に位置 - ICOS発現 - IL21産生 - 抗体産生を誘導

このノートには最初のノートのような整然とした階層構造はないが、分岐がないので、冒頭の語句から数珠つなぎに連想を辿っていくことができる。そのため、読み返すときに各行の冒頭の語句からその内容を容易に思い出すことができる。想起のための連想にやさしいノートの録り方になっている。

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by tnomura9 | 2017-04-11 08:20 | 考えるということ | Comments(0)