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理解力

新しい知識を吸収する速さは人によって様々だ。

記憶力とともに鍛えたい能力のひとつは理解力だが、理解力とはいったい何なのだろうか。学生時代のことを思い出しても、新しいことを習ったとき、答えは出せるが何をしているのかがもう一つわからないという場合と、「あっ、これはこういうことだったのだ」という「分かった」という感覚を伴う場合とふたつの場合があったような気がする。

エジソンが「なぜ?」を連発して先生を困らせたそうだが、彼もまた、この「分かった」という感じが湧くまで満足できなかったのかもしれない。

ただ、この「分かった」という感じはどうすれば生まれるのかが分からないので、理解力を増すためにはどういうトレーニングをすればいいのかが分からない。突然「わかった」という感じになることはあるのだが、それを引き起こすための方向性のようなものが見えてこないのだ。

過去に「分かった」という感覚を感じた状況を思い返してみると、その知識の仕組みが分かったと思ったときが多いような気がする。仕組みがわかるとはどういうことかというと、適切なアナロジーやモデルを思いついたときではないだろうか。たとえば、Rubyのイテレータを初めて習ったとしよう。次のような例文を理解するときに頭の中でどのようなことが起こっているのだろうか。

['apple', 'orange', 'melon'].each {|x| puts x}

工場のベルトコンベアーに乗ったりんごとオレンジとメロンをひとつづつ取り出してそれをテーブルの上に並べていくイメージを持つ場合もあるのではないだろうか。上のプログラムと工場のベルトコンベアとの類似点は全くないが、並んでいるものをひとつづつ取り出すという「操作」の共通点がある。

この操作というのは目に見えないので、ベルトコンベアの画像イメージが理解を引き起こすわけではない。プログラムとベルトコンベアの「操作」の共通点が「分かった」という感じを引き起こすのだ。従って、分かったという感覚は視覚的なイメージではなく、ものを操作するときの感覚だ。どちらかというと手を使う運動感覚のイメージに近いのではないだろうか。

学校での教育を考えてみても、運動のイメージを開発するという教育はなされていないようだ。どちらかというと視覚的なパターン認識が訓練されているような気がする。しかし、理解力を訓練するためには、画用紙で模型を作ったり、ちょっとした仕掛けのあるおもちゃを作ったりなど、手を使ったものづくりの感覚を鍛えるほうが大切なのではないかという気がする。

見かけの異なるものの間の本質的なしくみの共通点を見破って、モデルを作成しそのモデルを頭の中で操作することによって未知の知識の構造を理解するという能力を養うためには、手を使った運動イメージ(ようするに実験だが)を開発する必要があるのではないだろうか。理解したというイメージが見えないのは、それが本来は視覚的なイメージではないからなのではないだろうか。
by tnomura9 | 2008-01-24 03:13 | 考えるということ | Comments(0)
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