森田療法

今日は書くことがないので、岩井寛著「森田療法」(講談社現代新書)からの引用を紹介する。

神経質(症)の苦しみのさなかでは、対人恐怖症のように人間関係にとらわれたり、不安神経症のように自己の身体不調にとらわれたり、強迫神経症のように縁起や雑念にとらわれたりするが、それは視野が狭小化され、自分のこと以外に目が向かなくなり、自分の症状以外に関心がなくなっていくからである。そこでは、往々にして他者に対する配慮や、自分と社会、あるいは文化との関係など、自分を包んでくれる大きな存在との関わりを無視してしまいがちである。

ところが、神経質(症)の「とらわれ」から脱して、自己確立ができるようになると、他人を配慮する目や、社会や文化に対する目が大きく見開かれるようになる。つまり、自分が生きていることが自分一人で生きているのではないことに気づかされるのである。誰かが作ってくれる食事を食べ、誰かが運転してくれる電車に乗り、誰かが話してくれる語り言葉に耳を傾ける、すなわち、こうした関連と連帯の中で自分自身が生かされていることに気がつくのである。

そのようにして、症状の「とらわれ」から自由になった彼は、自らを家族や、社会や、さまざまな人間関係の中で生かし、人間としての意味を求めることに努力をするようになるであろう。これは、人間としての自由を獲得し、広げていったことになる。

なぜなら、彼の前には、不安であるから症状を盾にして神経質(症)の世界に埋没していたいという欲望と、不安があってもより人間的な意味を求めて自己実現したいという欲望と、二つの欲望の方向が存在する。つまりそのどちらかを選ぶのは彼自身であり、彼は選ぶ自由を所有しているといえるのである。ここでは彼は、神経質(症)者としての選択を行っているのではなく、一個の自己確立のできた日常人として選択の自由を行使しようとしているのである。


自分の不幸に苦しんでいるときは、ある意味神経症の患者とおなじ心理状態に陥っているのかもしれない。苦痛を回避しようとしてもっと苦痛を招くような状態に陥ってしまうのだ。視野が狭くなり、他の見方や生き方があるのを考えられなくなってしまう。勇気を持って自分の苦痛にしっかりと向き合うことができたとき、はじめて、広い世界が開けていることや、自分だけで生きているのではなく、自分の生というものも他者によって支えられていることに気がつくようになるのだ。
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by tnomura9 | 2005-05-21 08:17 | 幸福論 | Comments(0)
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