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序論・本論・結論

香西秀信著 『論争と「詭弁」』 のあとがきによると、古代ギリシアのレトリックの教師の授業料は生徒ひとりあたり1億円くらいだったそうだ。

そのように高額な授業料を取ってなにを教えていたかというのが気になるが、初期のソフィストの一人であるコラクスの「秘術」を例にあげてあった。彼の教える順序で演説を行えば演説は成功間違いなしというのだ。その順序と言うのは、1 プロオイミオン、2 アゴーネス、3 エピロゴスである。何のことはない、1 序論、2 本論、3 結論のことなのだ。

序論、本論、結論の構成を意識して文章を作成したり、プレゼンテーションをしたりするのは、だれでも日ごろ無意識にやっている作業だ。しかし、本を読むときに「これが序論だ、これが本論だ、これが結論だ」と意識してやってはいないだろう。ところが、本全体や章の構成の分析のためだけでなく、段落を読むときにもこれを意識していると内容を理解するのが随分楽になる。

例として『論争と「詭弁」』の冒頭の段落を見てみよう。

ぼくがこの本で試みようとすることは、副題どおり「レトリックのための弁明」である。つまり、現在あまりにも偽善的な評価によって正当性が認知されつつあるレトリックを、その居心地の悪い「陽のあたる場所」から救い出し、再びそれにふさわしい日陰者の位置に追いやってやることなのだ。かつては、レトリックと言えば、白を黒と言いくるめる類の詭弁の術か、言葉を無意味に飾り立てるための化粧術、あるいはせいぜいが単なる言葉の遊びとしてしか見なされなかった時代があった。だから、その時代のレトリック研究者の仕事は、何よりもまずレトリックに対する「誤解」を解き、その悪名をはらすことから始めなければならなかった。例えば、現代日本でレトリック流行のきっかけをつくった功労者の一人である佐藤信夫氏は、その代表作の序章を次のような言葉で締めくくっている。「本当は、人を言い負かすためだけではなく、言葉を飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそ、レトリックの技術が必要だったのに。」----が、この考えは間違っている。レトリックはこんな上品で人畜無害な技術ではない。レトリックの悪名をはらし、それを正当な学問として位置づけようとする親心は、かえってレトリックを弱体化させる。レトリックはもっと危険で、狡猾で、邪悪な技術である。雇い主のためなら、たとえ「正しくない」ことでも「正しく」論証してしまいかねないような技術なのだ。いや、むしろ、それこそがレトリックの理想的なあり方だと言えよう。以下、これについて少し敷衍してみる。

最後の「以下、これについて少し敷衍してみる」という文からも分かるように、この段落全体が「序論」なのだが、段落の内部の構成も「序論」、「本論」、「結論」に分けることができる。

つまり冒頭の部分で「レトリックが現在は正当なものとして認知されているがはたしてそれでいいのか(そうではない)」という問題提起がなされ、それに続く「本論」では、レトリックは胡散臭いという以前の一般的な認識や、それに対しレトリックの研究者がどのようにレトリックの評価を変えようと努力してきたか、しかしその結果としてレトリックの邪悪なパワーが失われてきたかについて述べ、最後に実は白を黒と言いくるめる詭弁のパワーこそがレトリックの最も面白いところなのだと結論づけている。

要するに最初に段落の冒頭をチラッと読んで、著者が何を問題としているのか何について語りたいのかを読み取っておく。これが序論の部分である。普通はこの問題提起に対してそれを論証したり例示したりして本論の考察が行われ、最後に問題提起の答えとしての結論が述べられているはずだ。本論の論理構造が簡単なら、序論の問題提起と段落末の結論だけを読んで速読することもできる。このさい特に大切なのは何についての問題提起がされているのかを最初に把握しておくということだ。

このような読み方は文の集合体である文章だけでなく、単体の文に対しても行うことができる。「序論」、「本論」、「結論」のパワーは3000年後の今でも健在なのだ。

ところでこの文章にももちろんレトリックは使っている。「序論」、「本論」、「結論」を意識して文書を読むと分かりやすいよという単純なことを言うために、他人の著作の面白い話題を長々と引用して読者の興味を引き出そうとしているのだ。楽しんでいただけただろうか。
by tnomura9 | 2007-07-13 07:30 | 考えるということ | Comments(0)
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