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一を聞いて十を知る

「一を聞いて十を知る」という言葉があるが、それは基礎知識が十分にあるために一つの発言からそれに関連する事柄をいくつも思いつけるということであって、本当に一を聞いただけで十を知ることなどできるわけがない。

ただ、そのような人は推論の術に長けているということはあると思う。ひとつの命題は推論を行うことによってさまざまな命題を発生させることができるのだ。推論に習熟している人は、このような命題の連鎖をつぎつぎに作っていくことができるため、「一を聞いて十を知る」ように見えるだけなのだ。

アリストテレス文書が何世紀もにわたって人々を魅了したのは、この推論の技術について非常に明確に、また網羅的にそこに記述されていたからだろう。

推論を効果的に行うために重要なのは、論理と問答法的推論だ。演繹と帰納と言い換えてもいいかもしれない。アリストテレスはこの二つの重要性を意識していたし、かなり完成された形で用いることもできた。

現在さまざまな形の思考法が提案されているが、結局はこの二つの範疇にふくまれてしまう。なんだかつまらないが、人間の脳は2000年くらいではそう進化していないだろうし、古代ギリシアと比べてもそう変わってはいないというところかもしれない。

論理については、現代は記号論理学という整理された学問があるので、それをしっかり学べばほかにやることはない。

しかし、帰納法についてははっきりとした思考法のようなものを見たことがない。ブレーンストーミングやその他の技法は、この帰納法をどううまくやるかという問題意識から生まれたような気がする。いまだにアリストテレスの考え方が参考になるとしたら、まさにこの分野だろう。

帰納法は簡単に言うと「雑多な事実や意見の中からどうやって本質的な法則を発見するか」ということだ。概観的に見ると、この作業には二つの要素がある。「情報の収集」とその「分析」だ。

情報の収集はとにかく多く集めることが大切だ。アリストテレスは『アテナイ人の国政』を書くために158もの国家体制とその歴史的変遷を集めている。現代でもこの数を集めるという作業を怠って、都合の良い事実のみを集めた推論で誤った結論を導き出している例も多くある。とくに、調査にあまり時間を割けないマスコミの記事などに良く見られる例だ。

それでは「分析」のほうはどうだろうか。分析をするにあたって最初に考えられるのは、雑多な個々の情報の共通点を発見すると言う作業だ。要するに分類するという作業だ。分類についてアリストテレスがほかと違っていたのは、類と種による階層的な分類を行ったことだろう。これは、言葉で表現すると、主語と述語の関係あるいは集合とその要素となる。博物学のように近代でも分類のみが学問の対象であった時代があった。しかし、これも現代では日常的に行われている。

したがって、現代の我々がアリストテレスに学ばないといけないとすれば、「問答法的推論」ではないだろうか。アリストテレスが発明した「抽象と具象」「全てとある」「可能と現実」などの用語は対をなしている。問答法はある命題に対し肯定的な論証と、否定的な論証の対を戦わせることによってその構造や本質を明らかにしていく方法だ。この、ソクラテスに端を発する「対話法」は現代ではあまり使われることがないように思われる。

しかし、「失敗の原因は、全く想定していなかった可能性から発生する」という法則を考えると、事実を可能性の両極から眺めて戦わせることで、それに関連する要因をくまなく発見するということの意義は大きい。現代においては、この「問答法的推論」は時代遅れの哲学談義や相手を論破するための詭弁として否定的にとらえられているが、もう少し意識的に利用されてもよいのではないだろうかと言う気がする。

四千年紀にわたって読み継がれてきたアリストテレス文書の本質を考えることは、現代においても歴史的興味以外にも十分意義のあることのような気がする。
by tnomura9 | 2007-06-25 04:55 | 考えるということ | Comments(0)
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