不登校などの例をあげるまでもなく、ストレスによる心の病気についてメディアで扱われることが多い。その治療としてまず挙げられるのがカウンセリングである。フロイト以来心の病気は無意識の葛藤から起こるもので、カウンセラーとの対話の中で無意識の心の葛藤に気づきそれをほぐすことで治癒していくというのが一般常識のようになっている。しかし、心の病気を治療するのに自分の心を探索するというやり方が本当に治療になっていくのか疑問に思うようになってきた。
単純に考えると、人間は心の世界と現実の世界の間を行ったり来たりしながら生きている。しかし、「マトリックス」や「セル」などの映画でも分かるように、意識の住家は外界から感覚刺激を通じて脳の中に再構成された仮想現実の世界なのである。現実に目に見えていると思っているものは現実の世界を反映してはいるが、眼や脳のフィルターを通じて情報を選択された脳の中の映像でしかないのである。したがって、この仮想現実が病んでいるときに、その中だけでゆがみを直そうと思っても無理なのではないか思うのだ。 心の中だけを探検しても、材料になるのは心の中の仮想現実に存在しているものばかりである。それをどういじっても仮想世界から抜け出すことはできないのではないだろうか。この仮想世界を再構築するためにはどうしても外界からの刺激が必要ではないのだろうかと思う。心理的操作ばかりでなく、行動療法のように行動を変えていくことや、意識が心の中ばかりに目を向けて、外界の刺激を単に記号としか見ないようになっているのを、現実の世界をありのまま観察するように認知の様式を変える必要があるのではないだろうか。最近は認知行動療法という言葉を聞く。どういう手法を使うのか詳しくは知らないが、そういうアプローチの仕方が必要なのではないかと思う。 エピクロス派の哲学では、人間に不幸をもたらすのは認識のゆがみなので、感覚を通して入ってくる現実のありのままの姿を知るようにしなければならないと言っているそうである。今から2300年も昔の古代ギリシア人が既に最新の心理療法と同じことを実行し効果をあげていたというのであるから驚きである。今の日本では餓えたり、寒さに震えたりなどの身体的な苦痛はあまりないだろう。むしろ、現実に対する認識のゆがみから来る心の痛みのほうが苦痛が大きいのではないだろうか。その責任は子供の心にそういうゆがみを与えてしまう社会の心理的構造、つまり、他者の痛みに対しての無関心、利己主義、弱肉強食主義にある。この認識にゆがみを与える世界を作り出した大人自身が自分の仮想世界を再構築することが一番の治療ではないだろうか。 倫理教育の必要性が言われているが、どんな倫理を教えるのかということに目を瞑ってはならない。戦争や貧困や搾取や詐欺を作り出す大人たちが何の倫理を教えるというのだろう。子供たちを不幸にするような倫理なら教えないほうがましなのである。
by tnomura9
| 2005-05-15 08:40
| 幸福論
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