対象の集合を領域 D とする。領域 D のべき集合を 2^D とする。2^D の要素は D の可能な部分集合の全てを含んでいる。
述語 P(x) は 領域 D から2値集合 V = {True, False} への写像である。領域 D の任意の要素を a とすると、P(a) は必ず True, または False の値をとる。すなわち、命題 P(a) は必ず真または偽の値をとる。P(x) が真となるような D の要素を集めるとそれは D の部分集合になる。これを P(x) の真理集合と言う。一方 P(x) が偽の値をとるような D の要素 x も集合になる。これは P(x) の真理集合の補集合になる。述語 P(x) に対し領域 D の部分集合は、真理集合とその補集合に二分できる。つまり、真理集合と述語の真偽の間には同値関係が存在し、述語によって無制限の内包的定義で集合を定義できる。 命題 P(x) と領域 D のべき集合 2^D の関係を考えると、P(x)が真であるという条件は 2^D の要素と対応するが、P(x) の真理集合と Q(x) の真理集合が一致する場合、述語 P(x) と Q(x) は同等である。つまり、述語としての表現が変わっていても、真理集合が同じ場合、領域 D については P(x) と Q(x) は論理的に同値である。 べき集合 2^D の要素間の集合演算はべき集合 2 ^ D について閉じている。集合演算と論理演算の同値性を考えると、領域 D における述語 P(x) の全ての論理演算については演算可能である。集合の内包的定義に制限はなく、論理演算は全て真理集合と対応している。 このモデルでは、集合は全て内包的定義で定義され、領域 D におけるすべての論理演算は、べき集合 2^D の集合演算と置き換えることができる。これが本来の論理と集合の関係だったのではないだろうか。論理的推論はこのような領域 D の集合について用いられるときは矛盾を生じないのだ。 領域 D とラッセルのパラドックス さて、それでは矛盾がないはずの内包公理が、どうしてラッセルのパラドックスを発生してしまうのかを考えてみる。そこで、まず、上に述べた領域 D に帰属関係を定める。領域 D の全ての要素について、2項関係 ∈ を定める。a が b に属しているとき a ∈ b は真値をとりそうでないとき偽値をとる。属しているという言葉は無定義用語だ、とくに要素と集合の帰属関係でなくてもいい。ただし、b を固定し x ∈ b が真となる要素 x を集めたときそれは一つの D の部分集合になる。これはまた 2^D の要素でもある。また、この集合は P(x) = x ∈ b という述語に対する真理集合でもある。 この2項関係は a ∈ a のような自己言及も禁止していないとする。そうすると領域 D の全ての要素について x ∈ x であるか x /∈ x であるかの二つのグループに分けることができる。これらは Q(x) = x ∈ x という述語の真理集合と、その真理集合の補集合だ。これらは確かに領域 D の部分集合である。すなわち、2^D の要素でもある。 ところで要素 b を固定したときに x ∈ b を満たす要素を集めるとそれは領域 D の部分集合だ。したがって、要素 b はその真理集合を代表しているという見方もできる。すなわち b は内包的定義が {x | x ∈ b} である集合と同一視してもいい。領域 D については全ての内包的定義による集合が 2^D の要素であるから。b の表す集合は存在する。 それでは内包的定義が {x | x /∈ x} であるような集合は存在するだろうか。それは上の議論から明らかに領域 D の部分集合として存在する。なぜなら領域 D の全ての二つの要素の間には二項関係が定義可能だからだ。領域 D の要素は確かに自分自身の間に帰属関係があるものと、自分自身の間には帰属関係がないものが存在する。これらはまた、べき集合 2^D の要素でもある。このことは R(x) = x /∈ x という述語が領域 D の部分集合を定めることを意味する。領域 D において「自分自身を要素として含まない要素の集合」はあきらかに存在する。 ところが内包的定義が {x | x/∈ x} となるような集合と同一視できる領域 D の要素は存在しない。なぜなら、そのような領域 D の要素を仮定するとラッセルのパラドックスが発生してしまうからだ。このことは内包的定義 {x | x /∈ x} を満たす領域 D の集合は存在するにも関わらず、そのような集合と同一視できる領域 D の要素は存在しないことを示している。これがラッセルのパラドックスの正体だ。 上にも述べたように領域 D において、そのすべての部分集合は述語で定めることができる。しかし、領域 D に帰属関係 ∈ を導入することによって発生する集合を代表する要素を、集合と同一視した場合はそうではない。そのような要素に対する集合を定めることができない述語も存在してしまう。そうすると、無制限な内包的定義では集合を定めることができないのではないかという議論が出てくる。しかし、そうではない。無制限な内包公理で領域 D の集合を定めることができる。無制限な内包的定義が適用できないのは、領域 D の集合を帰属関係で定義しようとした場合の集合と同一視できる領域 D の要素を考えた場合なのだ。 こういう風に考えると「集合とは物の集まりである」という素朴集合論の定義には罪がないことが分かる。それは、領域 D の要素間の帰属関係が全ての集合を定めることができると考えたことによる矛盾なのだ。つまり、領域 D の要素を集合と同一視しようとしたところに齟齬が発生したのである。 領域 D が有限集合の場合、明らかに領域 D の要素数だけで領域 D のべき集合 2^D の全要素を代表させることはできない。また、領域 D が無限集合であったとしても、領域 D の2項関係を考えたとき不動点が発生するためにラッセルのパラドックスが発生してしまう。領域 D の部分集合についての議論を、領域 D の要素の帰属関係だけで完結させようとすることが間違っているのだ。 自分自身を要素とするかしないか こういう風に考えていくと「集合が自分自身を要素とするかしないか」というのは、集合にとって本質的な性質ではないような気がする。集合が自分自身を要素とするかしないかという問いは、領域 D に所属関係という2項関係を導入しなければ発生しない問だからだ。「自分自身を要素として含まない集合の集合は自分自身を要素として含むか」という問いは、集合の一般的な性質ではなく、領域 D に所属関係を導入して領域 D の要素と集合を同一視したことによる副次的な性質についての問いではないだろうかと思う。
by tnomura9
| 2018-02-05 16:22
| ラッセルのパラドックス
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