福岡県糸島市の平原遺跡の古墳からは、日本最大の銅鏡を含む多数の銅鏡が出土している。それだけでなく鉄の大刀一振り、多数のガラス製のビーズ、ガラス製の勾玉などが副葬されていた。その副葬品の多さからこの古墳は王の墓と思われるが、大刀以外の武器は見られなかった。さらに、女性のピアスに特徴的な部品が出土していた。この墓には女性が葬られていたのだ。つまり平原王墓は女王の墓だった。
平原遺跡の王墓が女王の墓だからと言って、これがすなわち天照大神や卑弥呼の墓だという議論にはならないだろうが、弥生時代後期の九州では、この女王のように女性が王として君臨していた可能性があることを示している。 追記 女王が埋葬された古墳が他にないか調べてみたら、山口県熊毛郡平生町の神花山古墳に20代の女王の遺骨が発掘されていた。海沿いの小山の山頂に築造された30mほどの前方後円墳の後円部の石棺から全身の骨格が発掘されていたが戦後の混乱で頭蓋骨だけが残された。それを元に生前の姿が復元されている。5世紀前半のものと推定されている。 これ以外にははっきりとした女王墓の情報を見つけられなかった。邪馬台国の卑弥呼の人気も、それが女王であるという珍しさも手伝っているのだろう。弥生時代や古墳時代の女王の墓の少なさを考えても、南方の民族のような母系社会は弥生時代にはなかったのではないだろうか。魏志倭人伝の風俗が南方の民族のそれを強く連想させると言っても、母系社会だったとは書かれていない。実際、魏志倭人伝に記載された婚姻の形態も一夫多妻であり父系社会のようだ。 女王は王の血脈であるために即位したのか、またはシャーマニズムの巫女としての役割によって王として認められていただけのような気がする。 隼人に関する記録では、日本書紀に明らかに母系社会を示唆する記述があるようだが、その他の地域では長江文明の母系社会ではなく(長江文明が母系社会だと仮定すれば)、黄河文明の父系社会の影響が強いような気がする。あるいは、基本的には長江文明だが支配層は黄河文明であるような河南文化の影響が強い可能性もある。
追記 ネットで調べたら女王の墓は結構あるようだ。古墳9基をまとめたページがあった。場所は、山口県熊毛郡、熊本県宇土市、京都府京丹後市、福島県糸島市、鳥取県湯梨浜町、岐阜県中津川市、奈良県桜井市、兵庫県神戸市だそうだ。王の配偶者や家族かもしれないので断定はできないが、全国に女王の墓は存在するようだ。 女性が埋葬された古墳9基 こうなると邪馬台国論争は銅鏡か金印が見つからない限り決着はつかなそうだ。調べているうちに邪馬台国がどこかという議論よりも、弥生時代が国外や国内との交易や政治的交流という観点からも開放的な時代だったのだというのが面白くなってきた。また、女性の地位も結構高そうだったのが面白い。教科書に書いてあったような大陸からの渡来人の一方的な征服というのではなくて、活力のある面白い時代だったような気がする。御先祖様結構やるじゃんと言いたくなってきた。
by tnomura9
| 2017-05-17 23:22
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