宮崎県串間市の王の山古墳から、漢のものと思われる玉壁が出土している。九州の南の端からこのような中国の王侯貴族の持つ玉壁が出土すること自体が場違いだが、次のブログの作者の推論では、東越王の子孫が新(紀元8年~23年)の混乱時に中国を脱出し宮崎に渡来したのだろうということだ。これが邪馬台国になったらしい。
串間市、王の山古墳出土の玉壁 越の国は、長江文明が起源の越人を秦が征服した後、支配層が越人の文化を取り入れ同化したものらしい。文化的には長江文明の特徴をもち、支配体系は中原のそれを継承している。魏志倭人伝の風俗の記述が南方の越人のそれに類似しているのはそのためだろう。ただ、この玉璽の所持者が本当に東越の王族のものであったかどうかは確かめる術がない。王権が滅亡した後人手に渡ったものなのかもしれない。 長江文明起源の越人の文化がどのようなものであったかわからないが、台湾の先住民族の由来は越人らしいので、調べてみた。 アミ族 アミ族の母系社会であること。水辺に住み農業と漁業を生業としていること。呪術が盛んなこと。アルタヤ族の顔に入れ墨をする習慣。タオ族の多数の人が乗るオール式の準構造船、ツオウ族の高床式住居などが魏志倭人伝の記述に適合しているように見える。 弥生時代と南方の海の民の関係を示すような興味深い発掘がある。鳥取県の稲吉角田遺跡という弥生中期の環濠遺跡から出土した弥生式土器の首に書かれていた船の絵だ。舳先がせり上がった船を頭に羽の被り物をつけた人たちがオールで漕いでいる。船は上に述べたタオ族のそれを彷彿させるし。頭の羽飾りは Wikipedia の台湾原住民の記事に乗っているツオウ族の青年の被り物とそっくりだ。 邪馬台国の遥か以前から日本と海の民の交流は活発だったのではないだろうか。 隼人などの南九州の民が長江文明に起源を持つ海の民に親和性があるのは間違いないだろうが、東越という先進国が渡来してきたのか、あるいは小規模な民族集団が移住して土着化した民が発展して建国したのかで邪馬台国のイメージが全く変わってしまう。
by tnomura9
| 2017-05-15 19:27
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