0と1の間の実数を表現するには、結局無限小数を利用するのが一番だ。0.1415... という無限小数は一つの実数を表すと考えることが自然だし、この表記では0から1までの全ての実数を表現できる。
ところで、無限小数による実数の表記は何も10進表記でなくとも良い。0.100101.... のような2進表記でも構わない。2進数表記の実数の中には、1桁で終わるものもある。例えば0は0で1は1だ。その他は小数点下1桁で終わるものもある。0.0, 0.1, などだ。小数点下2桁で終わるものには、0.01, 0.10, 0.10, 0.11, 3桁で終わるものは0.000, 0.001, 0.010, 0.011, 0.100, 0.101, 0.110, 0.111, ... (省略)がある。ところが、これらの数の小数点下をひっくり返すと、これらは2進表記の自然数になる。0.1 なら 1 で、0.01 なら 10 すなわち 2 である。 上のような小数点下の数とそれをひっくり返してできる2進数は自然に1対1対応の関係になる。したがって、小数点下の桁数を無限に広げていけば、自然数と実数の1対1対応ができるのではないだろうか。確かに n 桁までの小数には実数は含まれていない。しかし、n 桁を無限に大きくしていけば、その中には無限小数が含まれているのではないだろうか。しかし、残念ながら円周率の小数部分のような無限小数に対応する自然数は無限大になってしまう。 しかし、この考え方にも利点がある。小数点下の桁数 n を十分大きく取ることによって。実数の無限小数に限りなく近い有限小数を見つけることができ、それについては、自然数と1対1対応していると言うことができるのだ。n が大きければ、十分に精度の高い実数値を得ることができ、それを自然数と1対1対応させることができる。また、どんなに n が大きくなっても、実数の近似値に対応する自然数を見つけることができる。これは、実質的に実数と自然数の全単射関係があると考えることはできないだろうか。 それでは、カントールの対角線論法の意味はなんだろうか。それは、小数点下の桁数 n の数が 2^n 個あるときに、対角線論法では n 個の数に対応するものしか取り上げないからではないだろうか。カントールの議論では小数点下第 n 桁の数値と異なる数値を取る数を作ることになっているが、そのやり方では 2^n 個ある小数点下 n 桁までの数のうち n 個の数と自然数との対応しか考えていない。 例えば小数点下3桁までの数を考えてみよう。それは次のように8個の数値になる。そうしてこれらは左右を反転させることによって右の自然数との自然な1対1対応を作ることができる。 0.000 ---> 0 0.001 ---> 4 0.010 ---> 2 0.011 ---> 6 0.100 ---> 1 0.101 ---> 5 0.110 ---> 3 0.111 ---> 7 ここで、これらの任意の3つをとって自然数 1, 2, 3 と対応させてみる。 1---> 0.011 2 ---> 0.100 3 ---> 0.111 これから対角線論法でいう自然数に対応しない数 0.110 を見つけることができる。これは確かに自然数 1, 2, 3 に対応づけられていない数である。しかし、この数の内在的に対応する自然数は 3 である。内在的に自然数に対応している8つの数の3つだけを取り上げて、自然数1, 2, 3 に対応している数以外に対応していない数があると主張するのが桁数 3 についての対角線論法なのである。このようなやり方なら、小数点下 n をどんなに大きくしても 1 から n までの数に対応づけることのできない数が存在することになる。対角線論法では、内在的に自然数に対応している数ですら、自然数に対応しないことにすることができるのだ。 このようにカントールの方法は小数点下 n 桁について考察するたびに生じる現象であり、その現象を n が無限大になるまで拡張した議論であることを示している。対角線論法を行う限りどんな n についても 2^n 個の数のうちの n 個だけを自然数に対応付けするので自然数に対応づけられない数が発生するのは当然だ。この切り口からの議論は n が無限大になっても同じなので、結局自然数に対応づけられない無限小数があるという結論になる。 カントールの対角線論法の議論についてもう一度見てみると、対角線論法で作られた自然数に対応しない実数は、しかしながら、元の対応関係の先頭に挿入すれば、自然数1と対応づけることができる。しかし、この場合もこの対応関係では対応づけることのできない新しい実数を求めることができるから全単射にはならない。最初の仮定では自然数と実数の対応関係は、少なくとも自然数については完了していたはずである。それにも関わらず新しい実数を含めた対応関係が構築できるというところが、無限に関する議論の怪しいところだ。 対角線論法の実数と自然数の全単射を作ることができないという結論は覆せないが、実数と自然数の差はどれくらいなのか1つなのか無数なのかと言う問いが生まれる。それに対する答えは、限りなく全単射に近いところまでは追い詰めていけるが、常に、逃げ水のように捕まえることのできない実数が無限に見つかると言う訳のわからないものになってしまう。 無限集合間の要素の全単射は、静的なものというよりは、常に変化し続ける運動のようなものという捉え方が必要なのではないかという気がする。無限そのものは捕まえることができないので、そのため、局所的な性質が無限大になっても変化しないという仮定で無限の要素について推論しなければならないが、それゆえに、全単射の対応づけの方法によっては、自然数がそれ自身と全単射なのに、別の対応づけを使うと自然数がその部分集合である偶数と全単射の関係にあるというちょっと疑わしい結論をも導き出すことができる。
by tnomura9
| 2015-10-20 22:15
| 考えるということ
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