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フォンノイマン・ベルナイス・ゲーデル集合論(NBG)

公理的集合論というと教科書には ZFC 集合論しか載っていないが、フォンノイマン・ベルナイス・ゲーデル(NBG)集合論のほうがわかりやすい集合の世界のイメージを作ることができるような気がする。インターネットでも NBG 集合論の解説を見つけるのが難しいし、しっかり理解したわけでもないのだが、直感的には NBG には次のような集合のイメージモデルを当てはめることができる気がする。

まず、NBG 集合論を構成する対象とはどのようなものかを考えてみる。公理的集合論では集合の要素が全て集合になるように、空集合 {} に集合をつくる操作のみを使ってつくる集合、たとば、{{}}、{{}, {{}}}、などのようなものを集合論の要素的な単位と考えるが、数学以外の分野に集合論を活用しようとすると少し技巧的すぎる気がする。

したがって、NBG のモデルとしては、一匹の犬などのような集合ではない対象(個体)を出発点に考える。このような対象は空集合だけではなく複数個存在して良い。

これらの対象は共通の性質でグループをつくることができる。たとえば犬を集めて犬の集まりをつくることができる。 また、この集まりは「x は犬である」という述語を充足する対象の集まりとしても規定される。また、「x は犬である」という述語を充足しない対象の集まりも考えることができる。このため、ある対象をとりあげて「a は犬である」という命題は必ず真か偽の値をとるため、命題の排中律が成立している。

この状態では、P(x) を充足する対象はその集まりを規定する。すなわちP(x) は A = {x| P(x)} という対象の集まり A を定義することができる。犬の集まりといって犬の集合と言わなかったのは訳がある。このような対象の集まりは NBG では集合ではなくクラスになる。

それでは NBG における集合とはなんだろうか。NBG における集合とは別のクラスの要素となることができる対象の集まりだ。上に述べた状態で犬の集まり(クラス)をつくることができたが、これだけでは他のクラスの要素となることはできない。そこで、これが他のクラスの要素となるために、この犬のクラスをあらわす「犬の集合」という対象を最初の対象の集まりの一員として加える。

「犬の集合」とは犬の集まりではないが、犬の集まりの記号となる存在だ。また、この「犬の集合」という対象は他の対象とおなじように「x は犬である」という述語を適用することができる。すなわち「犬の集合」という対象は犬ではないので、この述語の適用は偽の値を返す。「犬の集合」という対象を加えた集合の世界は、したがって、犬の集まりである犬のクラスと犬のクラスをあらわす「犬の集合」という対象という2重の構造が存在することになる。この場合も「x は犬である」という述語は全ての対象について必ず真か偽の値をとるので、排中律は保たれている。

また、この場合も犬でないもののクラス(集まり)はあるので、これをあらわす記号としての「犬でないものの集合」を作って元の対象の集まりのメンバーとしてみる。この「犬でないものの集合」は犬ではないので犬の集合の要素ではない。それでは「犬でないものの集合」の要素になるだろうか。しかし、犬でないものの集合の要素に「犬でないものの集合」が含まれていると、外延性の公理から悪循環が発生してしまうのは以前の記事で述べた。このため「犬でないものの集合」は犬でないもののクラスには含まれない。このため「犬でないものの集合」は集合の世界の要素のメンバーとして加えることはできない。犬でないもののクラスは存在するが犬でないものの集合は存在しない。

最初の対象だけからなる世界は、このような操作によって、犬のクラスと「犬の集合」という対象と犬でないもののクラスで構成されることになる。この状況では、「x は犬である」という述語は「犬の集合(クラス)」を定めることができるし、「x は犬ではない」という述語は「犬の集合」という要素を含む「犬ではないもののクラス」を定める。このため、全てのものは犬であるか犬でないかという排中律も保たれている。また、「犬の集合」という対象を導入したため、これを要素とする「ぽちと「犬の集合」からなる集合」のようなものも定義することができる。

このように、犬の集まりをクラスと考え、犬の集合をこのクラスを代表する記号的な対象と考えることによって、排中律を満たしたまま、「犬の集合」を他の対象と並ぶ「もの」として取り扱うことができる。「犬の集合」は犬のクラス(集まり)ではないが、犬のクラスを代表する記号としての対象である。このようにして排中律を壊さずに作られた「犬の集合」を構成的な集合と呼ぶことにする。また、「犬でないものの集合」のような排中律や正則公理に背くような対象は集合としては認めない。犬でないものの集まり(クラス)はその記号としての「犬でないものの集合」はもたないが、「x は犬ではない」という述語を充足する対象のあつまり(クラス)として定義できる。

NBG ではものの集まりはクラスであり、他のクラスの要素となることができるものを集合としているが、集合をクラスの記号と考えると NBG の集合とクラスの違いがわかる。集合とは、このように構成的な手続きで排中律を侵害しないように作られた記号としての「集合」を意味する。構成的な集合を作るたびに、余分な集合が増えていくが、この余分な集合は排中律を壊さずに存在できる。また、構成的に定義された集合には述語を適用できる。したがって、自分自身を要素しない集合という述語を充足する集合のクラスは存在するが、自分自身を要素としない集合の「集合」は構成的集合としては存在しないため、ラッセルのパラドックスは発生しない。これらの構成的集合の全体である全ての(構成的)集合のクラスが NBG 集合論の世界である。

集合にはものの集まりとしての一面と、他のクラスの要素となる対象としての2重性があるが、上のような構成的な集合を考えると、排中律を侵害することなく二重性を持った集合を記述することができるようになる。NBG の世界はこのような要素と構成的集合からなる世界と考えることができる。

公理的集合論は ZFC が代表的だが、NBG 集合論の方が直感的なイメージを作りやすいのではないかと思う。

追記

公理的集合論の世界といっても、個体と集合の集まりで素朴集合論の構成と見分けがつかない。ただし、集合が構成的集合であるというところが違っている。構成的集合の際立った特徴は2つある。一つは述語の自己言及にたいしては必ず偽となるということだ。つまり、自分自身を要素として含むことはない。このため述語の自己言及によってその要素の構成が変わるということはない。二つ目は正則公理をみたしているということ。つまり構成的集合に集合が含まれていても要素を辿っていけば有限の手続きで必ず集合でない個体に到達するということだ。このことによって悪循環を発生させず集合の内容が確定できる。

この二つの特徴のために、公理的集合論のどの集合 a についても述語 P(x) を a に適用した時 P(a) が真か偽の値を持つという排中律は成立している。つまり、公理的集合論の世界には論理が安全に適用できる。

素朴集合論における最大の困難はラッセルのパラドックスだった。「自分自身を要素として含まない集合」の集まりは存在するように思えるのに、「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまう。つまり、「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合は「自分自身を要素としては含まない」ため自分自身を規定する述語を充足してしまう。

公理的集合論では、構成的集合は必ず自己言及に対しては偽の値を返さなければならないので、ラッセルの集合は構成的集合ではない。ラッセルの集合は公理的集合論の構成要素となることはできない。したがって公理的集合論の世界にはラッセルのパラドックスは発生しない。しかし構成的集合は全てラッセルの述語を充足するのにその集まりを考えられないというのはどういうことだという疑問が発生するが、公理的集合論の世界にはそのような集まりは存在する。構成的集合の全ての集まりはそのような集まりだ。しかし、そのような集まりはクラスという用語で表される。

NBG 集合論では、集合や個体などの「もの」の集まりはクラスであると考える。それでは集合とは何かという話になるが、集合は個体と同じ「もの」であるが、ものの集まりであるクラスを指し示す記号である。集合はものの集まりをあらわす記号であって、ものの集まりそのものではない。公理的集合論の世界を観察すると、様々な個体や要素の集まりを見つけることができるが、それをあらわす「集合」は必ずその集まりの外に存在する。任意の集合を集めて集合を作る場合、その集合の要素となっているのは、この記号としての集合であって、その記号としての集合が表すものの集まりそのものではない。

ものの集まりとその記号としての「集合」を分けて考えることによって、「集合」をもたないものの集まりである「真のクラス」が理解出来る。ラッセルの集合は、「自分自身を要素として含まない集合」の集まりであるが、それをあらわす記号としての「集合」を持たないのだ。このような「真のクラス」はそれをあらわす記号としての「集合」を持たないので、「真のクラス」を要素とする集合は作ることができない。

真のクラスの特徴は、その要素を集めた時にそれを表す記号としての「集合」自体が自分自身を規定する述語を充足してしまうことだ。構成的集合は全て自分自身を要素として含むことはできないので、そのような「集合」は作ることができない。この現象は別に無限とは関係がない。図書館のパラドックスでもわかるように、「自分自身に言及しない書籍」の目録はそれ自身が「自分自身に言及しない書籍」でないといけない。しかし、そのような目録をつくるとパラドックスになってしまうため、図書館には確かに「自分自身に言及しない書籍」の集まりがあるのにその集まりを表す目録をつくることができない。

このような真のクラスはラッセルのパラドックスのような特殊な述語に限らない。たとえば、「犬でないものの集合」はそれ自身が犬ではないので自己言及を充足してしまい構成的集合にはなり得ない。すなわち、犬でないものの集まりはあるのに、それを表す記号としての「集合」を作ることはできない。これは記号としての集合に自己言及が起きた時の振る舞いに関係しているからだ。集まりの記号としての「集合」に自己言及が起きた時に偽となる場合はその集合は矛盾を起こさず公理的集合論の世界のメンバーとなることができるが、自己言及で真になる場合はその集合をメンバーに加えることによって公理的集合論の世界に矛盾が発生してしまうからだ。公理的集合論の世界では、「ものの集まり」は自由に存在できるが、その「ものの集まり」を示す記号としての「集合」はいつも存在できるというわけではない。

ラッセルのパラドックスの困難は、「自分自身を要素として含まない集合」の集まりは確かに存在するのに、それを集合と考えるとパラドックスになってしまうという点だったが、ものの集まりとしての「クラス」とそのクラスを示す記号としての「集合」を分けて考えることによって、矛盾なく論理が適用できる集合の世界を構築できる。

内包的定義 A = {x| P(x)} は必ずクラスを定義できるが、P(A) が偽の場合はそのクラスを表す記号としての集合 A が定義され、 P(A) が真となる場合は、クラスを表す記号としての集合 A は定義できない。内包的定義は集合と論理をつなぐための要であるが、論理を集合に変換するために内包的定義が使われた場合その内包的定義が定義するのは実際はクラスである。このクラスを指し示す記号である「集合」という「もの」は内包的定義を適用した「もの」の世界に新しい「もの」を付け加えてしまうため、その性質によっては集合の世界に矛盾を持ち込んでしまう。このため、構成的集合はいつでも定義できるとは限らない。集合はものの集まりをものとして扱うための便利な道具だが、元の世界の論理を破壊しないために扱いに気をつけなければならない代物だ。

このように、ものの集まりである「クラス」とそのクラスを指し示す記号としての「集合」との関係を明らかにすることで、ラッセルのパラドックスは回避され、集合の世界に安全に論理を適用できるようになる。

by tnomura9 | 2015-08-30 02:31 | 考えるということ | Comments(0)
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