カントールの定理 その2

カントールの定理では集合 X とその冪集合 2X の間に1対1対応がないことを対角線論法で次のように証明している。

集合 X からその冪集合 2X への写像 φ : X -> 2X において、つぎのような集合 Y = { x ∈ X : x /∈ φ(x) } に対応する x ∈ X は存在しない。なぜなら、x /∈Y ならば x ∈ Y でなければならないし、x /∈ Y ならば x ∈ Y にならなければならなくなるのでパラドックスが生じるからだ。

確かにどのような φ についても、全単射が存在しないのだから、集合とその冪集合とでは濃度が異なると言える。集合と冪集合に全単射が存在するという仮定は反例が一つあれば否定することが出来る。

しかし、この対角線論法のような背理法は何となく納得できない感じがつきまとう。たとえば集合 {1} の冪集合は {{}, {1}} であるが、これには自然数の集合のうち {1, 2} をとると f(1) -> {}, f(2) -> {1} という全単射を作ることができる。また、集合 {1, 2} のべき集合 {{}, {1}, {2}, {1,2}} の場合は {1, 2, 3, 4} を当てれば全単射を作ることができる。この論法でどんなに大きな自然数の部分集合のべき集合を作っても、それに見合う自然数の集合をとれば冪集合との全単射を作ることができる。そうであれれば、自然数全体のべき集合と自然数との全単射を作るのは可能ではないのだろうか。

そこで、集合 A = {1, 2} のべき集合 P(A) = {{}, {1}, {2}, {1,2}} に対し集合 B = {1, 2, 3, 4} の要素を対応させる f(1) = {1}, f(2) = {2}, f(3) = {1,2}, f(4) = {} となるような全単射 f を考える。すると C = {x ∈ B | x ∈ f(x)} = {1, 2}, D = {x ∈ B | x /∈ f(x)} = {3, 4} である。たしかに D = {3,4} に対応する自然数はない。

ここで B = {1,2,3,4} を別の目で見てみよう。これらは全単射で P(A) に対応しているからこれを P(A) の要素である集合と同一視してみよう。すると、1, 2 は自分自身を要素とする集合と見ることができるし、3, 4 は自分自身を要素として含まない集合と見ることができる。そうすると {3, 4} は自分自身を要素として含まない集合の集合になる。これは B = {1,2,3,4} の中には存在しないので、新しく集合を表す自然数として 5 = {3, 4} を B の要素として加えることにする。すると 5 は {3, 4} の要素ではないが、自分自身を要素として含まない集合になってしまい、ラッセルのパラドックスと同じ状況が発生する。

無限集合の冪集合と集合の要素との全単射がつくれないというカントールの定理は、形を変えたラッセルのパラドックスだったのだ。集合 B の要素のように要素が個としての性質と、集合としての性質を同時に持ってしまうことが、パラドックスの発生する原因だ。自然数の部分集合の冪集合の要素にはどのようなものについても自然数を対応付けることができるが、その対応付けによって自然数が数としての意味と集合としての意味を同時に持つようになるため、自分自身を要素としない集合(すべて)の集合に対応する自然数を見つけることができなくなってしまう。なぜならそういう集合はつくれないからだ。これを濃度が違うと言ってもいいのだろうが、どうしても違和感が拭えない。

自然数と実数の対応付けができないのも同じ理由になる。このブログの過去の記事でも述べたように、実数と自然数の冪集合との間に全単射があると考えることができるから、カントールの定理と同じ理由で、自然数と実数の全単射を作ることができない。しかし、それは、実数の中にどれだけでも稠密に自然数を対応付けることができるという性質を妨げるものではないのだ。

自然数の集合とその冪集合との全単射が作れないからその濃度が異なるのは間違いないだろうが、それを無限集合の要素の数が異なるという風に捉えるのは少し問題があるのではないかという気がする。むしろ、集合をものの集まりであるというものであると考えることで、ものに個としての性質と集合としての性質の2重の性質を与えることによる構造的な問題のような気がする。

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by tnomura9 | 2015-07-21 03:47 | 考えるということ | Comments(0)
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