人気ブログランキング | 話題のタグを見る

素朴集合論からパラドックスを追い出す

前回までの議論を再考して、素朴集合論からラッセルのパラドックスを追い出す方法を整理してみる。

ラッセルのパラドックス

ラッセルの集合に自分自身の内包的定義を適用するとパラドックスになってしまう。つまり、「自分自身を要素として含まない集合」というラッセルの集合の述語を R(x) = x /∈ x とすると、R(x)を満たす集合は普通に見られるのに、R(R) について考えると R ∈ R ⇔ R /∈ R となってパラドックスになってしまう。

しかし、Rの性質について詳しく見てみると、パラドックスの原因がわかる。すなわち、考えられる限りの自分自身を要素として含まない集合 x1, x2, ... を集めて集合 R' = {x1, x2, ... } を作ると R' はその要素の中には含まれない。なぜなら、R' = {R', x1, x2, ... } とすると、要素の R' が自分自身を要素として含む集合になってしまうからだ。したがって、R' は R' を含むことはないが、まさにそのために「自分自身を要素として含まない集合」という内包的定義をみたしてしまうのだ。

R' は自分自身の要素としては含まれないにもかかわらず、自分自身を規定する述語を充足してしまう。このような構造の集まりを内包公理で集合として定義することはできない。このような集まりを無理に内包公理で集合として定義してしまうとパラドックスが発生してしまう。

クラス

こういう、個々の要素は内包的定義を充足するが、その要素全体を集めたものが集合とは考えられないものはクラス(類)と呼ばれている。全ての集合の集合のようなものも類である。

このように集合に対して内包的定義の述語を適用すると真か偽の値がえられるが、クラスに対してはクラスは集合ではないため述語を適用することができないということがポイントのひとつだ。クラスには述語が適用できないのだから、ラッセルのパラドックスは発生しなくなる。

自分自身を要素として含む集合(クラス)

素朴集合論の困難のもうひとつは、どうしても「自分自身を要素として含む集合」という取り扱いに困るものが発生してしまうことだ。「自分自身を要素として含まない集合」が存在すれば、排中律から「自分自身を要素として含む集合」も存在するはずだ。

例えば「犬の集合」を考えてみよう。「犬の集合」は犬ではないので自分自身を要素としては含まない普通の集合という事ができる。

しかし、排中律から「犬ではないものの集合」も考えなければならない。「犬ではないものの集合」は「犬ではない」のでこれは自分自身の内包的定義を満たしている。したがって、「犬ではないものの集合」は自分自身を要素として含む集合であるといえる。

全ての集合は「犬である」か「犬ではない」という述語の排中律が成立するためには、どうしても自分自身を要素として含む集合が発生するように見える。しかし、自分自身を要素として含む集合を許容するとラッセルの集合のようなものが発生してしまう。

クラスと内包公理

上述の困難は、しかし、「犬ではないもの」の集まりが集合ではなく「クラス」であると考えると回避することができる。

「犬ではない」という述語は全ての集合について適用可能でなければならないが、「犬ではないものの集合」がクラスであれば、述語は適用できない。「犬でないものの集合」が「自分自身を要素として含む集合」ではなく、「自分自身を要素としては含まない」が「自分自身が自分自身を規定する述語を充足してしまうクラス」であると考えれば、ラッセルの集合が自分自身を要素として含むということは排除できる。

実際、全ての集合の集合がクラスであれば、「犬の集合」に対しては「犬ではないものの集合」ではなく、「犬ではないもののクラス」でなければならない。

内包的定義の自己言及については、どこかおかしいところがある。述語に適合するものを集めると集合ができるのは当然だが、その集合は内包的定義で集合を作るときには元々存在していなかったはずだ。集合が出来上がった後で、その集合に対し自分自身の内包的定義を適用するというのは、やはりおかしい話ではないだろうか。

しかし、ラッセルの集合だけでなく、自分以外の要素を集めた時にその集合が自分自身の内包的定義を満たしてしまう場合は多い。上にあげた「犬ではない物の集合」のように集合の補集合(クラス)は全てそのようなクラスになる。したがって、ラッセルのパラドックスを回避するためには、それらの自分自身の内包的定義を満たす集合は「自分自身を要素として含む集合」ではなく、「自分自身を要素としては含まないが自分自身を規定する述語を充足してしまうクラス」とかんがえるべきだ。

クラスの特徴は、自分自身が自分自身の要素ではないにもかかわらず、自身の内包的定義を満たすということだ。述語によって要素を集めた時に、それらの要素に含まれない自分自身という新しい要素を生成してしまう。したがって、新しい要素である自分自身ををそれまでに集めた要素に加えて新しい集合を作っても、新しい集合が再び自分自身の内包的定義を満たしてしまう。まるで、集合の無限大のようなものだ。これは無限集合とはことなり、次々に新しい集合を作っていってしまうため集合として確定できない。

このようなクラスには述語は適用できないので、「自分自身を要素とする集合の集合」は発生しない。集合は全て「自分自身を要素とはしない」ものになる。「自分自身を要素として含む」ようにみえるものは、集合ではなくクラスなのである。

集合とクラス

このように、全ての集合のクラスは「犬の集合」と「犬でないもののクラス」に類別できると考えることによって、素朴集合論の世界が随分見通しよくなる。

素朴集合論の世界を「集合」と「クラス」に分けても、述語の排中律は成立する。集合の要素もクラスの要素も等しく集合であるからだ。

全ての集合の集まりはクラスであって、それは「集合」と「その補集合(クラス)」に二分できると考えることによって、素朴集合論の世界にパラドックスを引き起こすことなく排中律を適用できることがわかる。
by tnomura9 | 2014-11-20 08:02 | 考えるということ | Comments(0)
<< クラスの定義 クラス >>