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クラス

素朴集合論の集合を、集合名、属性のリスト、要素のリストの3要素からなるデータ構造として定義することで、集合を一つのものとして扱う事ができる。これを利用して、述語の排中律について考えてみる。

集合の集まりであって集合ではないものをクラス(類)という。共通の要素を持つ個々の集合は特定できるが、それらの集まりを集合としては捉えられないものがクラスである。

クラスの代表としてはラッセルの集合がある。ラッセルの集合は集合ではない。「自分自身を要素としない集合の集合」を仮定すると、ラッセルのパラドックスが発生してしまうからだ。なぜラッセルの集合が集合としては存在し得ないかは、このブログで何回も記事にしている。つまり、考えられる限りの自分自身を要素としない集合をあつめた集合 R は自分自身を要素とはしていないが、まさにそのことによって自分自身の内包的定義を満たしてしまうからだ。こういう構造を集合の枠でくくることはできない。

全ての集合の集合もやはりクラスである。考えられる限りの集合を集めて集合を作っても、その集合自身がまた、集合になってしまう。そうして、その集合は要素の集合とは別の集合であることが明らかだ。また、その集合が自分自身を要素として含んでいればいいかというと、その場合でも、その集合の要素から作ったべき集合の濃度はその集合よりも高くなるはずだから、カントールのパラドックスが発生してしまう。

したがって、3要素のデータ構造で表現した集合全ての集まりは集合ではなくクラスになる。

ここで興味があるのは、このようなクラスについて述語の排中律が成り立つかどうかということだ。ここでは述語の排中律の定義を述語 P(x) を集合(または要素)に適用した時に必ず真か偽の値が得られるということにする。そうすると、クラスの要素は全て集合だから、それらについて、述語 P(x) は必ず真か偽の値を取ると言える。なぜなら、集合というデータ構造の属性のリストに述語に適合するものがあれば真であり、適合するものがなければ偽であると定義できるからだ。しかし、述語を全集合の集まりであるクラスに適用することができないのは、ラッセルのパラドックスから明らかだ。

そこで、「x は犬である」という述語の排中律を調べてみる。すると、「x は犬である」という述語による内包的定義で定義された集合である「犬の集合」の要素には「犬の集合」自身は含まれない。したがって、犬の集合は「x は犬である」という述語を適用したら偽になる集合の仲間であることがわかる。しかし、この集合のあつまりは上述のようにクラスであって集合ではないから、このクラスに対して「x は犬である」という述語を適用することはできない。したがって、この述語は全ての「集合」に対して真か偽を定めることができるので排中律を満たしているとしてよい。

さて、ここで、動物の集合の要素について「x は犬である」という述語を適用してみよう。これは明らかに「犬の集合」と「犬ではない(動物の)集合」を作ることができる。「犬でないもの」のクラスに「犬の集合」自身が含まれていたが、動物の集合に対して述語を適用するときには、自然に「犬の集合」自身は要素として排除される。

素朴集合論で内包公理を使って集合を定義すると、必然的に自分自身を要素とする集合や自分の補集合の要素となる集合というような奇妙な集合が発生してしまう。しかし、自分自身を要素としない普通の集合について、その否定命題の集合を集めてもそれはクラスになってしまう。また、普通の集合についてその部分集合を内包的定義で定義すると、自分自身の集合はその要素のなかから自然に排除されてしまう。

素朴集合論の集合は、自分自身を要素とするような奇妙な集合を本質的に持っているが、自分自身を要素としない普通の集合のみを扱う場合には、そのような集合はクラスの要素として自然に排除して扱うことができることがわかる。

全ての集合を集めたものはクラスになる。これは全ての自然数の要素が無限大という自然数ではないものであるのと似ている。自然数を扱う関数は無限大を変数として扱うことはない。集合論でもクラスにたいし述語を適用しないのと似ている。

これで素朴集合論についての記事は終わりにできそうだ。素朴集合論は本質的に、自分自身を要素とする集合や、自分自身が自分自身の補集合の要素であるような奇妙な集合をはらんでいること。それにもかかわらず述語の排中律は成立すること。集合全体はクラスになるため、クラスに対して述語は適用できないが、それは集合に対する述語の排中律を否定するものではないこと。集合におけるクラスは自然数の無限大に相当するものであること。素朴集合論の範囲内で、自分自身を要素として含まないような普通の集合のみを扱う事ができることなどをイメージ的に明らかに出来たように思う。結局のところ公理的集合論は正しかったということを示したに過ぎないが、素朴集合論の奇妙さと、直観的な普通の集合との関係を明らかにすることができたのではないかと思う。
by tnomura9 | 2014-11-19 00:42 | 考えるということ | Comments(0)
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