集合と排中律

今、地球上の全ての生物の個体の集合を考えてみる。それらの中で犬の個体だけを集めると、犬の集合を考えることができる。また、この犬の集合との対比で犬でない生物の個体の集合を考える事ができる。

この場合犬の集合と犬でないものの集合は相互に共通する要素はないし、全ての生物の個体は犬の集合に属するか、犬でないものの集合に属するかどちらかので、全ての生物の個体は、「犬である」かまたは「犬ではない」という排中律を満たす。

こう考えると全ての個体を「Aである」か「Aではない」かに二分する排中律は自明の原理のように見える。

しかしながら、集合論では「犬の集合」のようなものの集まりも一つの集合という個体とみなす。したがって、上の例のような場合、犬に属する個体の集まりと犬に属さない個体の集まりの外にも、「犬の集合」という個体を考えなければならない。

犬の個体や犬でない生物の個体と、「犬の集合」というような概念を同列に並べるのはどうかという考え方もあるが、他と区別できる存在という意味での個体という観点からは「犬の集合」も個体と考えるのが自然である。

例えば、自然数の集合 {1, 2, ... , 10} の要素の 1 や 2 のような数のようなものも厳密には概念であって、個体ではないが、普通に個体として扱う方が便利だ。

したがって、「犬の集合」を個体として考えると、冒頭の例では犬の個体と、犬でない生物の個体と、「犬の集合」という個体についての排中律を考えなければならなくなる。さしあたって、「犬の集合」は犬の個体ではないので、これは「犬ではないものの集合」に属すると考えれば排中律は成立している。

これでめでたしめでたしということになるかというと、そうは問屋が卸さないようだ。

「犬の集合」を個体として考えるなら、当然「犬でないものの集合」も個体として考えなければならない。「犬でないものの集合」は「犬の集合」に属するのだろうか、それとも、「犬でないもの(個体)の集合」に属するのだろうか。さらに、「犬の集合」と「犬でないものの集合」からなる「犬の集合と犬でないものの集合の集合」という個体についてはどうだろうか。あるいは「犬の集合とある犬の個体からなる集合」のようなものも考えられるだろう。

概念もまた一つの個体とみなすと、地球上の生物の集合という有限集合から、無限に「集合」という個体が創りだされてしまう。ものの集まりを集合という個体と考えると、有限の個体の集まりから始めても、無限に個体が創りだされてしまう。必然的に、集合論の世界はこのようなダイナミックな世界を扱わざるを得なくなるのだ。

この次から次に個体が創りだされる集合の世界で果たして排中律が成立するかどうかというのは重要な疑問だ。無制限な集合の定義の適用はラッセルのパラドックスを発生させてしまう。

どうも、排中律はある確定した集合の部分集合について適用されると考えたほうが無難だ、実際、公理的集合論では内包的定義(すなわち排中律)はある集合の要素である者についてだけ適用されるというように、排中律の適用される範囲を制限することによって、ラッセルのパラドックスの発生を回避している。当面の所この公理は数学に矛盾を発生させないように奏功しているようにみえる。

しかし、公理的集合論でも「犬の集合」が「犬でないものの集合」に属するというような、居心地の悪い状況を排除することはできない。いずれにせよ、当たり前のように扱っている「集合」というものが、複雑に交錯した自明でない構造になっているのに驚かされる。

こう考えてくると、集合の世界は、個体という対象と、個体の間の所属関係という射からなる圏であると考えることができるだろう。この圏を集合論を使わずに公理的に定義して、排中律をその中にどのように取り込むことができるのかというのは面白い問題だが、手に余るし、多分、解決済みの問題だろう。

集合は一見簡明な考え方だし、応用が効くが、全体像を捉えようとすると案外大変なようだ。
[PR]
by tnomura9 | 2014-11-06 00:44 | 考えるということ | Comments(0)
<< 素朴集合論と排中律 集合論への疑問 >>