比喩と論理

本を読んでも頭に入りづらい知識をどう料理すればよいかというのが管理人の長年のテーマだが、それは比喩と論理を上手く使う事ではないかと思うようになった。

比喩とは「彼女の笑顔はまるで花のようだ。」というような喩えではなく、新しい知識が既存のパターンと似ているのではないかという考察だ。

例えば写像は集合の要素を別の集合の要素に対応づけることだが、これには定義域としての集合と値域としての集合およびそれを結びつける写像という3つの要素からなっている。また、これを図解すると定義域の集合から値域の集合へ向かって写像の矢が伸びているというパターンになる。

新しい知識を習得するときは、この既知のパターンを利用する事になる。圏と圏の間の射である関手 F : C -> D の場合 domain の圏 C と codomain の圏 D を関手 F で結びつけているというパターンは集合と集合の射の場合に似ている。したがって、関数の機能と集合の写像の機能を似たようなものとして理解する事ができる。

しかし、似て非なるものという言葉の通り、圏の対象と射からなる内部構成は、集合の要素の集まりと言う均一な構成とは異なっている。したがって、関手は対象の写像である対象関数と、射の写像である射関数という2つの異なった要素から構成されている。また、射関数は恒等射と射の合成の保存という性質を持っていなければならないので、単純に集合の写像の類推で理解する訳にはいかない。

一旦類推で理解した新しい知識のパターンはこのように、論理的な検討をしてそのパターンが本当に適切なものなのかどうかを検討しなくてはいけない。そのときに必要な論理的な検討というのは、本当にそのパターンでいいのか、その知識をそのパターンで理解したときにどういう推論ができるのか、その推論の結果は他の関連事項と整合しているのかどうかなど、様々な面から推論を行ってみる事だ。この論理的なチェックに合致しなければ、最初のパターンは改変するか、別のものに置き換えなければならない。

要するに新しい知識に触れたとき、既知の知識のパターンと似ているものはないかを探し、似ているパターンがあれば、とりあえずそのパターンで理解することにして、次にそのパターンに論理的整合性があるかどうかを検討するという2段階の操作が、新しい知識を習得するときの方策の全てだ。

従って、新しい知識を習得するためには、類推するための既知のパターンを多く持っている必要がある。また、その既知の知識の論理構造について熟知しておく必要があるという事になる。それが不足している場合には、その知識を習得するための予備的な知識の獲得を先にやっておかなければならない。

新しい知識を習得するときは、このようにパターン認識と論理的検討という2段階の操作を意識して行う事が大切だ。これを仮説と検証という言葉で置き換えても良い。古くからある定番の方法だ。

さらに、これに加えて既知の知識について十分習熟しておかなければならないという要件がある。既知の知識が論理的な検討もされておらず、単に知っているだけという状態では、とうてい新しい知識を消化するための叩き台にはなり得ない。スポーツの基礎練習のように、知っていると思っている事も繰り返し検討して血になり肉になるようにしておかなければならない。

学問に王道なしという言葉は、学習が進むにつれて身にしみて感じられるようになる。最初は既知の知識のアナロジーでぼんやりとわかっていたことが、論理的に批判的な検討をしていくうちに、そのパターンの細部の構造を理解できるようになり、また、新しい知識と既知の知識との関連も明確になっていく。それを根気よく繰り返していくうちに、最初の認識がもっと精密な堅牢な知識に変化していく。また、知れば知るほど必要な知識の深さと広さを実感するようになるからだ。
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by tnomura9 | 2014-09-15 13:34 | 考えるということ | Comments(0)
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