過去記事の『ラッセルのパラドックスの意味するもの』に手を入れていたら、ラッセルのパラドックスについて以前から感じていた疑問が解けたような気がするので、内容が重複するが記述してみる。
1. ラッセルのパラドックス ラッセルのパラドックスは素朴集合論について、イギリスの哲学者・数学者バートランド・ラッセルが発見したパラドックスだ。それは、 「自分自身を要素として含まない集合の集合は、自分自身を要素として含むとも含まないとも言えない。」 というパラドックスだ。この集合を R とすると R が自分自身を要素として含まない場合、R は「自分自身を要素として含まない集合」になるから R は R の要素でなければならない。一方、R が R を要素として含んでいると、これは「自分自身を要素として含まない」という内包的定義を満たしていなければならないので、R は R を要素としては含まないことになる。いずれの場合もパラドックスが生じてしまうのだ。 集合は自分自身を要素として含むか、自分自身を要素としては含まないかどちらかに分けられるはずだから、その片方にパラドックスが生じてしまうと、内包的定義で集合を定義するという方法が使えなくなってしまう。さらに、たいていの集合は自分自身を要素としては含まないように見えるので、それらを集めた集合にパラドックスが発生してしまうことは、集合論の根幹を揺るがすものになる。 「集合」をものの集まりという「もの」と考えるという簡潔な定義と、述語を満たす要素を集めることで集合を定義できるという内包公理のなかに、紛れもないパラドックスが潜んでいた訳で、当時の論理学者や数学者の慌てぶりが想像できる。 しかし、管理人が長い間わからなかったのは、このようなパラドックスがどのようなメカニズムで起きるのかということだった。それが分かったのだ。さらに、ラッセルの集合にかかわらず、素朴集合論では内包的定義で集合を定義した時にラッセルのパラドックスの場合と同じ困難を抱えていることが分かったのだ。 2. ラッセルのパラドックスの発生メカニズム さて、ラッセルのパラドックスがどのようなメカニズムで発生するのかを見てみよう。 ラッセルの集合は「自分自身を要素として含まない集合全ての集合を集めた集合」だが、全てではなくて、適当な数の「自分自身を要素として含まない集合」を集めて R' を作ってみる。「自分自身を要素として含まない集合」だが、たとえば、「犬の集合」はその集合自体は犬の集合の要素としては含まれないので、そのような集合をみつけるのは簡単だ。 そこで、そのような R' について R' 自身が R' の要素として含まれるかどうかを考えてみる。内包的定義から R' は R' に含まれないことは明らかだ。なぜなら R' が要素として R' に含まれてしまうと、要素としての R' は自分自身を要素として含む集合になってしまうからだ。したがって、R' が R' 自身を要素として含むことはない。しかし、まさにそのことのために R' は「自分自身を要素として含まない集合」という内包的定義を満たしてしまうことになる。 このような集合の場合、しかし、内包的定義が「自分自身を要素とする集合」全てを集めたものではないから、問題にはならない。この集合は安定して存在し得るのである。しかし、どのような R' を作ってもその R' は「R' を要素として含まない」にもかかわらず「自分自身を要素としない集合」という内包的定義を満たしてしまう。したがって、ラッセルの集合のような「自分自身を要素としない集合」全てを集めた集合は作れないのだ。 集合の内包的定義は、述語 P(x) を満たす x を集めることで集合を定義する。述語 P(x) は任意の x に対し真か偽かを値として戻す関数だ。この関数は排中律から、全ての要素 x について必ず真か偽の値を戻すことが要求される。 ここで、P(x) を真にする要素を集めて集合 A を作ってみよう。すなわち、 A = {x| P(x) == True} だ。これを手続き的に考えると、いろいろな要素を述語 P(x) に照らして集合 A の要素かどうかを判別していく。この際、集合 A を決定するときに述語 P(x) は A 自身には適用しない。なぜなら、A の要素全てが確定するまでは、集合 A というものは存在しないからだ。そうやって集合 A が作られたとすると、今度は、集合 A 自身も「集合」という「もの」であることがわかる。したがって、排中律が成り立つためには述語 P(x) は A 自身にも適用されないといけない。 P(x) が「x は偶数である」というような内容であれば A が P(x) を満たす、すなわち、A が A 自身の要素になるということはないので問題は起きない。また、「x は犬ではないものの集合である」という述語の場合、A が A を含んでいたとしても一見問題は発生しないので見過ごされてしまう。その場合でも、述語 P(x) で定義した集合それ自身に対して述語 P(x) を適用するという自己言及はラッセルの集合に限らず素朴集合論では普遍的に見られるものなのだ。 ラッセルの述語は、集合 A を述語 P(x) で定めるときに、作られた集合 A そのものも述語 P(x) の対象になってしまうという素朴集合論の内包的定義の瑕疵を巧妙についてパラドックスを作り出していたのだ。 集合 A を決定するための述語 P(x) を集合 A そのものに適用して良いのかどうかという問題については、集合と要素のランクを厳密に区別したり、内包的定義は集合の要素として確定しているものだけにしか適用しないなどの工夫がされている。しかし、ほとんどの数学理論では A が P(x) を満たすことはないので、この点については曖昧なままでも特に理論の構築には影響がないのだろう。 ほとんど全ての数学理論が素朴集合論の上に構築できているように見えるのに、ラッセルのパラドックスのようなものを抱え込んでいるのはこのような理由からだ。集合を「もの」と考えるという簡潔な定義が、自分を定義した述語を自分自身に適用しなくてはならないという自己言及性を発生させていたのだ。 3. 内包公理の問題点 ある性質を共有する要素を集めたら集合になるという内包公理はごく自然な発想だ。それは論理学の排中律と関連している。述語 P(x) はどのような x に適用しても真か偽の値をとるというのが排中律だ。排中律の成立する状況下では、この述語を充足する要素を集めることで自然にものの集まりが定義される。 しかし、その集まりを集合 A という「もの」と考えることで、この A に対しても述語を適用しなくてはならなくなるという想定外の事態が発生する。この A は述語を充足する要素を集める時点では存在しなかったと考えるのが自然だ。この集まりを集合 A というものと考えるのはあくまでも述語を充足する要素の集まりが決定してからのはずだ。しかし、集合 A というものが発生したからには、それに対して述語を適用しなくては、排中律が成立しない。 排中律が成立するためには、集合 A は述語 P(x) を充足しないか、充足するかのどちらかであるべきだ。集合 A が述語 P(x) を充足しない場合は問題は発生しない。述語を充足する要素の集まりに新しい「もの」である集合 A が含まれることはないので、内包的定義による要素の集まりは決定される。 問題は集合 A が述語 P(x) を充足する場合だ。この場合はどうしたら良いのだろうか。ひとつの選択肢は、それまでに集めた要素に集合 A 自身も含めて、集合 A を自分自身を要素として含む集合の一種と考えることだ。最初に述語を充足する要素をあつめたときには集合 A は存在しなかったのだから、それをそれ自身の要素の集まりに入れるのはおかしい話だが、こうすれば、排中律は保たれるし、集合 A の要素も確定できる。 しかしながらラッセルの天才的な洞察のおかげで、その目論見は成立しないことがわかる。「自分自身を要素としない集合の集合」をそれ自身の要素と考えるとパラドックスになってしまったのだ。 それでは、集合 A 自身に述語 P(x) を適用するという自己言及についてはどのように考えればいいのだろうか。もっとも自然な考え方は、内包的定義で集めることができるのは、述語を充足する要素の集まりであって集合ではないと考えることだ。それは一体どういうことなのだろうか。 内包的定義で集合を定義する場合、述語 P(x) を充足する要素の集まりがあり、それに基づいて集合 A が定義される。集合 A の形作られる過程から考えて、集合 A はあくまでも集合 A の要素ではない。しかし、排中律はすべての要素について適用されなければならないので、集合 A が述語 P(x) を充足しない場合でなければ集合 A は述語 P(x) を充足しなくてはならない。 しかし、集合 A が述語 P(x) を充足するのであれば、これは集合 A の要素と一緒に集合を形作るべきである。これは、A が A 自身の要素として含まれるというのではなく、述語を充足する新しく発生した要素 A を含めた新しい集合を考えるということだ。そこで、この集合 A と集合 A の要素を集めて新しい集合 A' を作ることができる。しかし、この場合にも A' が述語 P(x) を充足してしまったらどうだろうか。この場合には新しい要素 A' を含めて述語 P(x) を充足する集合 A'' を作ることになる。しかし、この A'' も P(x) を充足したらどうだろう、このような集合を作っては作り直し、作っては作り直しという操作が無限に続くことになる。 「集合とはものの集まりというものである」という集合の定義は生成的な定義である。現にあるものの集まりから新しい集合というものを作り出してしまうのだ。内包的定義で集合を定義しようとすると、必然的にそれまでになかった「もの」を作り出してしまう。排中律からこの新しい「もの」に対しても述語が適用されなければならないが、この新しい「もの」がつねに述語を充足してしまう場合、無限に集合の作成と再定義が繰り返されることになる。この場合、内包的定義では集合が定義できない。 自分自身を要素としない集合を集めて集合を作ると、どうしてもその集合自身が自分自身を要素として含まないにもかかわらず、自分自身を要素として含まない集合という述語を充足してしまう。このような構造の集まりを内包的定義で集合として定義することはできない。集合の再編成が無限に終了しないからだ。ラッセルのパラドックスは内包的定義で集合としては定義できない集まりを集合として取り扱ったために発生したのだ。 「犬でないものの集合」は「犬ではない」ので自分自身を要素として含む集合と考えることもできるが、上に述べたような議論で、「犬でないもの」をどんなに集めて集合を作っても、その集合はそれ自身の要素として含まれないにもかかわらず「いぬでないもの」になってしまうというラッセルの集合(クラス)と同じ構造の集まりであると考えることもできる。自分自身を要素として含む集合を考えるよりは論理的にも整合性があると思われる。 共通の性質(述語)で要素を集めて集合を定義するという内包公理は自然な発想だ。しかし、素朴集合論の集合の定義が集合という新しい「もの」を作り出す生成的な定義であるため、内包的定義で集合を定義するはずの述語がその集合自身にも適用されてしまうという自己言及が起きる。このため上で議論したような内包的定義で集合が定義できない場合が発生してしまう。ラッセルの述語は、内包的定義のそのような問題をパラドックスという形で見事に浮き彫りにする唯一無二の述語であったのだ。
by tnomura9
| 2014-05-31 12:20
| 考えるということ
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