資格を20も30も持っている人がいる。すごいとは思うが、資格試験に合格しても、その仕事のエキスパートになるわけではない。そういう人は、むしろ、自分の学習法の効果を試すことが面白いのだろう。
学習法をマスターすれば、何でも出来るようになるわけではないのだ。学習法はあくまでも道具なので、それを何に使うかが問題なのだ。基本的には、自分が知りたいと思ったことを習得できないということが無いようにするために、学習法を工夫するのである。 したがって、学習法を工夫する前に、何をどれだけ学習したいのかをはっきりさせることのほうが、ずっと大切なのだ。だれでもが、天才科学者や、天才作家や、天才経営者になれるわけではない。学習法をマスターすることと、そういう人になることとは別問題なのだ。 医者で、弁護士で、公認会計士という人もいるが、そういう人であっても、日本一おいしい豆腐を作ることは出来ないだろう。たった一人の人が全ての文化を支えることはできない。人間の多様性がその国や民族の文化を支えているのだ。自分の足元をみて、自分が文化の構成員ではなく、ただの利用者だと思うとやる気がなくなるかもしれない。しかし、その足元を本気で深く研究したら、そうは思えなくなるかもしれない。 宝物は足元に埋まっているのかもしれないのだ。
by tnomura9
| 2005-10-11 07:34
| 考えるということ
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