知識の理解の仕方

プログラムの話が多くなっているが、このブログの本来のテーマは、どうすれば知識を楽に習得できるようになるかということだ。管理人は高校の時数学がわからず、なんど読んでも意味を理解できなかった。そのころから、人間はどうすればこのような不可思議なものを理解できるようになるのか、その仕組に興味を持つようになった。どうしたら、効率的に教科書の内容を理解することができるようになるのだろうか。

結局のところ、それは次の3点に要約されるような気がする。
  1. 一度にはっきりと認識できるものの個数はかぎられている。
  2. 個々の要素 (chunk) の違いをはっきりと弁別する
  3. 予想を立てて、それを検証する。

一番目の、「一度にはっきりと認識できるものの個数は限られている」ということだが、これは、「マジカルナンバーセブン」というキャッチフレーズで多くの文書にも紹介されている。人間が一度に把握できる要素の個数は7個前後だというのだ。これは心理学の実験からの結論だ。被験者に番号をつけたいくつかの高さの違う音を聞かせて、その音の番号を当ててもらうテストをする。そうしてその提示された音と答えの間の共分散を計算することによって、情報伝達媒体としての人間の情報処理量を計算することができるらしい。

音の種類が少なければ、正答率が上がるだろうし、多ければ正答率が下がる。それを統計的に分析すると、人間が一度に認識できる要素の個数が7個前後だったそうだ。

例えば5種類の低音階でテストをして正答率が高いのを確認し、次に5種類の高音階でテストしてやはり正答率が高くても、それらを混在させてテストするととたんに正答率が下がってしまう。これでは、歌など歌えないので人間は別の工夫で多数の要素を弁別しているはずなのだが、その理由はわかっていないらしい。

しかし、重要なのは、全く初めてのものを見た時に、はっきりとそれらを意識に残せるのは7個以下だということだ。7個以上のものを一度に認識しようとしても混乱してしまう。

第2の「個々の要素の違いをはっきりとさせる」ということだが、ここがはっきりとしていないために、上手く認識できないということはあり得ることだ。

たとえば、「アイドル」と「グラドル」をどう区別したら良いのか、これらの領域の重なる概念で、どこが共通しておりどこがちがっているのか。集合のベン図でよく扱われる内容だが、これが、はっきりしていないために概念の混乱がおきて理解できなくなってしまう場合も多いだろう。認識できる7個の要素の違いがはっきりとわかっていない場合も学習障害がおきてしまう。

管理人は、このような場合に T 字型のスキーマを使っている。付箋紙に T 字型の線を引き、T 時の横線の上にキーワードを書く。そうして、縦線の右にはそのキーワードに属する内容、左にはそのキーワードに属さない内容を記述していく。そうすると、その両者を混同していたために、キーワードの内容を誤解していたことが分かってくる。

第3の「予想をたて、検証する」ということだが、ふつうにはこれは論理的な操作だと説明されている。たとえば (-1) * (-1) = 1 を理解するためには、0 * (-1) = 0 ---> (-1 + 1) * (-1) = 0 ---> (-1) * (-1) - 1 = 0 ---> (-1) * (-1) = 1 のように推論を進めていく。これは認識するときの要素は、(-1), *, =, 1 の4個なので、マジカルナンバー・セブンの要件を満たしているが、推論と検証を経ないと理解できない。

上の例は計算法則を利用しているので論理的推論だ。そのため、この予想と検証の働きは論理学によるものだと考えて論理学を勉強しようとするかもしれないが、論理は単に上の推論の枠組みを提供しているだけだ。論理学に熟達しても上のような推論がすらすらとできるようになるわけではない。もちろん、論理学を勉強することで論理的なトリックなどには敏感になるので、論理学を学ぶことは別の意味がある。

予想と検証に対する能力は、最初に提示された問題に対しどのようなモデルのイメージを持っているかによって規定されているのだ。1つの携帯電話の使い方を覚えると、他の使ったことのない携帯電話を使えるようになるのが早くなる。それは、携帯電話のこのボタンをおすとどうなるかというモデルが頭の中に出来上がっているからだ。

しかし、何の予備的なモデルも持っていないところで、このようなモデルを作るにはどうしたらいいだろうか。それは、「なぜ」という質問をフル活用することだ。「ボヘミアの醜聞」でシャーロック・ホームズが捜査する前の探偵はどうして秘密の手紙を見つけることができなかったのだろうか、それでも、その手紙はイレーヌの部屋の中にあるとなぜシャーロックホームズは考えたのだろうかなどの推理小説に限らず、前回の記事で引用した、

main = do
  r <- runErrorT calculateLength
  reportResult r

のようなプログラムについても、なぜ runErrorT のようなアクセサがその位置にあるのだろう、このアクセサは何を取り出したためにここに置かれているのだろう、そのばあい、calculateLength の値の型はどうなるのだろうなどという、「なぜ、なぜ、なぜ ... 」という質問を繰り返していくうちに、そのプログラムの構造が見えてくる。

同じような考え方で、「銀の匙」という小説を題材に、徹底的に横道にそれて、文中の語句がはっきりと理解できたと感じるまで、その語句に関連する知識を詮索したという灘高の伝説的な国語の授業がある。一見脱線が多すぎるようなこの授業で、生徒は、この「なぜ」という問いを発するコツと、それにしたがって、分かったと感じるところまで徹底的に調査する事の大切さを会得したのだろう。

ただ、この「予想と検証」についてもう一つ重要なのは、「検証」をどのようにするかということだ。論理的に、あるいはモデルを使って予想を立てたり、自分なりの文献の調査をしたとしても、それが正しいという保障はない。その予想は「検証」されて初めて役に立つ知識として定着する。しかし、この「検証が」難しいのだ。それについては、基本的にはよい先生について教えてもらうのが最も効果的だ。しかし、大人になると先生についてきちんと学ぶという時間は事実上とれない。独学者の大きな悩みの1つだ。

学生の時に数学をすらすら解いていた級友は、無意識のうちに上の3つの要件を満たすような勉強の仕方をしていたのだろう。独学で苦戦しているときは、上の3つのルールに抵触しているところがどこかに有るのではないかと考えてみるのも必要だろう。
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by tnomura9 | 2013-08-20 07:45 | 考えるということ | Comments(0)
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