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論理的に考えるということ

「小さい犬は可愛い。」という発言を聞いたときに、「大きい犬は可愛くない。」という推論をするのは論理的に誤りであるというのは論理学の初歩だが、それの説明で真理表などを持ち出して説明してもなかなか分かりづらいだろう。

常識的な発想では、犬は「小さいか」、「大きい(小さくない)」のどちらかだし、また、「かわいい」犬か「かわいくない」犬のどちらかしかいないのだから、どうして上の推論がいけないのだろうという感じをうける。

しかし、よく考えると、犬はたしかに、「小さい」と「大きい」、「かわいい」と「かわいくない」に二分することができるが、このふたつの分類を適用するときには、犬は「小さくて、かわいい」、「小さくて、かわいくない」、「大きくて、かわいい」、「大きくて、かわいくない」という四つの場合について検討しなければ全体について検討したということはできない。

「小さい犬は可愛い」と行った場合、「小さくて、可愛い」犬はいるが、「小さくて、可愛くない」犬はいないということを言明しているだけで、「大きくて、可愛い」犬の存在を否定してはいない。したがって、大きくても可愛い犬はいるかもしれない。

ちょっと議論が混みいってしまったかもしれないが、論理的な推論の本質は、上の例のように、「起こり得る全ての場合について検討する。」という事なのだ。畑村洋太郎氏が失敗学の中で強調しているのはまさにこのことで、想定した起こり得る全ての場合に当てはまらない事態が発生したために失敗が発生してしまう。

論理的に考えるためには、難しい論理学の法則はあまり役に立たず、全ての起こり得る可能性を検討することが、結果的に論理的に正確な推論をしていることになることが多い。

論理的な思考とは、全ての起こり得る可能性を考えつくす思考のことだ。理屈っぽい人の話が、現実から遊離しているのは、その理屈が全ての可能性を尽くしていないためだ。
by tnomura9 | 2011-03-11 10:50 | 考えるということ | Comments(0)
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