最近になって、効率的な勉強法の真髄は、とにかく問を発することと、その問の答えをしつこく探すことに尽きるのではないかと考えるようになった。
ところが、それと同じことを自分は40年も前に高校生の時に本で読んでいるのだ。 さらに、2500年も前に孔子がそのことには言及している。 全く、聖書のコヘレトの言葉にあるように、 かつてあったことは、これからもありのだった。 要するに、答えは既に示されていたのに、それを活用するまでには理解出来ていなかったのだ。無駄な時間を過ごしてきたものだと思うが、逆に言うとそれらの言葉が実感として分かるくらいには思考力が鍛えられてきたのかもしれない。 古来の教育が古典の知識を重視してきたのは、自分と同じような感想をもった教師が幾多もあったからなのかもしれない。思考法というのは一種のアートなので、師匠から非言語的に伝達されるべきものなのだろう。そう考えると、教師が自身の思考力について真摯に研鑽しそれを弟子に伝えるというのが、あるべき教育の姿のような気がする。
by tnomura9
| 2011-03-10 12:43
| 考えるということ
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