英語の学習に文法は必要なのだろうか。「英語 文法 必要か」で google で検索してみるといろいろな意見を知ることができる。
文法よりも多読が必要だといっている人もいれば、その逆の人もいる。学校で習ったやり方で勉強したら上達は難しいという意見もあれば、今の中学2年生の文法の教科書を勉強すれば非常に役に立つと勧める人もいる。また、英語で仕事をしている人や、独学で洋書を読むようになった人等英語を使う環境でも意見が違うようだ。 結局のところ、何のために英語を学ぶのかによって変わってくるのではないだろうか。学生のころ英語の試験で苦い思いをして、アルファベットを見るのも嫌だったのに、仕事でマニュアルを読まなくてはいけなくなって、辞書と首っ引きで読んでいるうちにウェブの記事等も自然に読むようになったなどということは時々聞く。 英語その物を学ぶというより、何かを知るために英語を利用するという学びかたもあるのではないだろうか。 しかし、映画を字幕無しで見たいとか、推理小説を原書ですらすら読みたいと思っていてもなかなか上達しないのはなぜだろうか。おそらくそれは切実さの問題ではないだろうか。先ほどのマニュアルなどは理解できないと仕事ができないので必死になるが、映画などは一通り挑戦してやはり聞き取れないと諦めてしまって、それ以上やらなくなる。 受験英語の場合も同じようなことが言える。単語帳片手にいくら頑張っても記憶に定着しないし、試験の点数が上がらないのは、試験問題を完全に読みこなそうとしていないからだろう。他の学科も忙しいし、一通りの採点を行ったら、それで終わりだ。試験問題の内容を完全に理解するまで徹底的に辞書を引くなどということはしないだろう。そのために、あいまいな理解のまま終わるので、いつまで立っても記憶に残らないのにちがいない。 英語の勉強はどういう方法がよいかというより、英語をどう活用したか、あるいは自分が納得するまで英語と格闘したかという問題の方が重要なのではないだろか。要するに、英語が自分の日常生活の「意味」のネットワークの中に組み込まれているかどうかということだ。必要に迫られてマニュアルを読んだ時には、英単語が必然的に自分にとって意味をもたらした。映画の場合はそうではなかったのだ。 英語に限らず、学習する内容の「意味」(意義ではなく、意味だ)を意識して学習することが大切だ。 今日の Haskell Hugs> splitAt 3 [1,2,3,4,5] ([1,2,3],[4,5]) Hugs> span (<3) [1,2,3,4,5] ([1,2],[3,4,5]) Hugs> break (>3) [1,2,3,4,5] ([1,2,3],[4,5]) List モジュールのリストを分割する関数。
by tnomura9
| 2010-12-05 11:19
| 考えるということ
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