白隠禅師が考案した禅の公案に「隻手の声」というのがある。禅師が修行者を前にして、
「隻手声あり、これを聞け。」 と言ったとのことだ。 両手を打つと音がするが、片手では音がするわけがない。要するに無理難題なのだが、どういう答になるのだろうか。「これを聞け」といって自分の頬を叩いた人や、「どのような音だ」と聞かれるたびに片手を前に出し続けた人があるそうだが、インターネットでさがしてもこれだという解答に出会わない。 単純に片手では音は出ないと考えるのが良いようにも思える。また、両手が合わさって音が出るのだから、片手の中に音が内在していると哲学的に考えることもできるかもしれない。 しかし、一番の疑問は、「片手の音はどういう音か」と考え続けたら、どうして悟りをひらくことができるのだろうかということだろう。問の答えを見つけたら悟りを開いたということになるのかという問題だ。かりに、だれかが正解を見つけたとしよう。そのとき、その答えを聞いた誰かがたちまちに悟りを開いてしまうというのは考えにくい気がする。 「隻手の声」の秘密は、その解答ではなくて、ひとつの公案についてあれこれ思いめぐらし続けるという作業にあるような気がする。公案を中心にあれこれと考え続ける脳の作業が脳全体を活性化し、悟りと言える心境に導いてくれるのだろう。 現代はとにかく解答を要求する時代だ。しかし、様々な要素が絡み合った複雑系である経済活動の中で、不況を簡単に解決できる方法があるようには思われない。ひとつの要素に干渉すると、要素間の相互作用の中で思いもよらない影響が出てくるかもしれない。解答を出しても、その解答自身の影響から目を離すことができない。解答はつねに修正を要求されている。したがって、解答よりも解答を求めるプロセスのほうが重要なのではないだろうか。 現代人は考え続けることが苦手なのだ。自分自身のことを考えても、30分も自由な時間があったら、本を読むか、テレビを観るか、パソコンを使っていないと退屈で仕方がない。自由な時間に、ひとつのテーマについて、手ぶらでであれこれ考えることができるようになることも大切なことのような気がする。
by tnomura9
| 2010-09-02 11:48
| 考えるということ
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