曰く言い難し

最近 iPod のゲーム 「Unblock Me」 に凝っている。ゲーム本体は正方形の箱の中に長方形のブロックが敷き詰められている。長方形のブロックはそれぞれ長軸方向にしかスライドさせることができない。長方形のブロックの中に一個だけ赤いブロックがあり、これを出口まで誘導するのがこのゲームの目的だ。

Beginner の問題を400問ほど解いたところ、コツを掴んだのか解答を見つけるのがだんだん早くなった。ブロックの動きのちょっとしたトリックも見破ることができて赤いブロックを首尾よく脱出させることができる。

ところが、どうして解答を見つけることができるようになったのか、どこが解答を見つけ出すためのコツなのか全く言語化できないのだ。なんとなくブロックを動かして赤いブロックを出口まで持ってくることができるようになってきたし、その時間もどんどん短縮されているのに、その方法を全く言語化できない。自分が何をやっているのか説明することができない。

脳の非言語的な処理を行う部分はどんどん学習が進んでいるのに、それを言語化できないため、自分自身ですらなにをやっているのか知ることができない。こういう体験はなんとなく不安を感じさせるものだ。自分が何をしているのかが分からないのないのに、何かの処理をする能力は向上している。自分の中にもう一人別の自分がいるような居心地の悪い気分になる。

このように、学習の中には言語性のものと非言語性のものを区別する必要があるのではないだろうか。学習というと文書を読む機会が多いため、自然と言語性のものが多くなる。しかしながら、生きた知識を形成するためには非言語性の学習の比率が無視できないのではないかと思う。

おそらく、本を読んで文章の意味はわかるのに全く理解出来ないという場合、その知識の中に「曰く言い難い」非言語性の知識の比重が大きいのではないだろうか。

何かを学習する場合、目に見えない非言語性の知識についても考慮しておく必要がある。
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by tnomura9 | 2010-08-06 12:10 | 考えるということ | Comments(0)
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