自分自身を要素として含む集合

「自分自身を要素として含まない集合」はすぐに思いつく。たとえば、「犬の集合」は犬ではないので、自分自身を要素としては含まない。

それでは、「自分自身を要素として含む集合」とはどのようなものだろうか。ちょっと思いつかないかもしれない。そこで、自分自身を含む集合の中身が分からないので仮にXという大文字で表してみる。そうしてXはX自身と要素aだけを含んでいると考えてみよう。つまり、

X = {X, a}

だ。上の右辺のXは自分自身なのだから次のように置き換えることができる。

X = {{X,a}, a}

これを繰り替えしていくと、

X = {{......{{X, a},a}......}, a}

このように、無限に置き換えて展開できるが、最後までXの中身が何であるかは分からない。なんとも訳の分からない集合になってしまうが、現実の世界にはこれと同じ現象を発見できる。平行に向かい合わせた鏡の横に人が立っているときに見られる鏡のなかの映像がこれと同じ現象を見せてくれるのだ。

素朴集合論はこのような幻想的な情景も映し出せるほど表現力がある。

実は、「ものの集まりを集合と考える」という手続きは写像の一種だ、例えば上の集合は、

X = f(X), X = f(a)

という写像で表すことができる。Xの中身を見るということはXの逆像を求めることに他ならない。素朴集合論はこのような写像だけを定義してできる世界なのだ。ものの集まりは写像として、ものとしての集合は写像の像として定めることができる。素朴集合論の世界は、このようなものと写像で作り上げられる世界だ。

ものと写像だけで作られる世界といえば、すぐに思いつくのは圏論だ。圏論の教科書を読んでみたが、抽象的過ぎて理解できなかった。しかし、おそらく、素朴集合論の世界は圏論できちんと記述できるのではないかという気がする。そう思うとちょっとほっとする。素朴集合論の世界を知るのに新しい理論を作る必要はないからだ。

圏論という約束の地が見えたところで、ラッセルのパラドックスの話はおしまいになる。ラッセルのパラドックスにみんなが惹きつけられるのは、その議論の分かりやすさと同時に、無矛盾であるはずの数学の根幹に矛盾が存在するかもしれないという衝撃だろう。しかし、それは決して神秘的な謎という訳ではなく、数学的な構造を反映していただけなのだった。
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by tnomura9 | 2010-06-18 06:27 | 考えるということ | Comments(0)
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