内包的定義の適用範囲

「集合はものの集まりである」という素朴集合論の集合の定義と、「内包的定義に合致する要素を集めることで集合が定義できる」という内包的定義は単純で紛れがない。

それにも関わらず、ラッセルのパラドックスのようなものが導き出されるというのは不思議な感じがする。そこで、上の二つの定義のどこにそのような複雑な現象を発生させる仕組みがあるのか考えてみた。

集合を内包的定義で定義するときは、いろいろな「もの」を取ってきて内包的定義に合うものは集合に入れ、適合しないものは捨てるという操作をするだろう。したがって、直感的には、世界のものは集合に含まれるものとそうでないものとに二分割されると考えるだろう。

漫画的に表現すると、正面に内包的定義が書かれた看板札が立っていて、その前で、人がいろいろなものをその定義に合うものは右に、あわないものは左に分けているところを想像して欲しい。仕分けが終わったら、内包的定義に合うものを集合として考えるためにその周りに縄をはることにしよう。そうしたところで、その人は新しい事実に気がつくことになる。縄で囲った集合もまた、ひとつの「もの」だったのだ。そこで、その人はその集合という「もの」が内包的定義に合致しているかどうかを考えないといけないことに思至ることになる。

つまり、内包的定義の関与する範囲は二分法ではなく、次の三つになるのだ。

1)内包的定義に合致する「もの」の集まり(集合ではなく単にものが集められているところを想像する)
2)それらを集めた「集合」という「もの」
3)内包的定義に合致しない「もの」の集まり(集合とは区別する)

内包的定義は、確かに「もの」をその条件に合致するものと合致しないものに二分するが、合致したものを集めてそれを「集合」と考えた途端に、その「集合」という新しい「もの」が発生する。この「集合」は内包的定義に合致する「もの」でもなく、合致しない「もの」でもない、それらとは別の「もの」なのである。そうして、それが、「もの」である限り、内包的定義が適用されなくてはならない。

つまり、内包的定義の適用範囲は、それに合致する「もの」と合致しない「もの」のほかに、それによって定義される「集合」自身という「もの」に三分されるのだ。

この場合、1)と3)の場合はあまり問題が起きない。また、2)の内包的定義で作られた集合自身に内包的定義を適用する場合、この集合が内包的定義を満たさない場合も特に問題はない。

しかし、2)の集合が内包的定義に合致した場合難しい事になる。内包的定義で作ったはずの集合にさらに内包的定義を適用するという循環が発生してしまうからだ。このような集合の一般的な性質は不明だが、少なくともこのような集合は、自分自身を要素として含んでいなければ、内包的な定義を満たす要素を「全て」集めることができない。内包的定義を満たす要素を集めて集合を作ると同時に、その集合に含まれないそれ自身という集合を作ってしまうからだ。ラッセルの集合はまさにこのタイプの集合であり、それはパラドックスを引き起こしてしまう。

これが、素朴集合論の単純明快な定義からラッセルのパラドックスが現れる本当の原因だった。この観点からラッセルのパラドックスのメカニズムを考えるのは簡単だが、それは、前の記事に書いたので繰り返しになるからここでは省略する。

ものの集まりを「集合」という「もの」として考えるのも、「集合」を定義するのに内包的定義で「もの」をふるい分けるのも至極単純で直感的な操作だ。しかし、その簡潔な道具を使っていても、「もの」の集まりを集合という「もの」と考えた途端にそれに内包的定義を適用しなくてはならなくなるというややこしい事態が発生してしまうのが面白い。

いずれにせよ、上のように内包的定義の適用範囲を三分割する考え方をすれば、ラッセルのパラドックスを抱える素朴集合論もずいぶんと見通しがよくなる。
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by tnomura9 | 2010-06-05 14:41 | 考えるということ | Comments(0)
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