内包的定義の問題点 自己言及性について

ラッセルのパラドックスが起きるのは、『自分自身を要素としない集合(すべて)の集合』という内包的な定義で集合を定義できないにも関わらず、それが集合であるかのように考えたことが原因だ。

内包的な定義は、集合に属する要素の条件を述べただけなので、それで定義できないラッセルの集合のようなものが発生するというのは不思議な感じがする。

しかし、内包的な定義で集合をつくる手順を考えてみると、その理由が分かる。

内包的な定義で集合を定義するとき、まずは、定義の基準に適合する要素をすべて集めるだろう。そうして、それらを集めてひとつの集合にする。問題点はここにある。要素を集めて集合にしたときに、それらの要素には含まれない新しい集合が発生してしまうのだ。

この集合は内包的な定義に合致する要素を集めたときには存在しなかったものだ。つまり、内包的な定義で集合を作った後に発生したものだ。それにも関わらず、それは集合として内包的な定義で吟味されないといけないものなのである。

そのような自己言及的な内包的定義に、その新しい集合が適合しないときは問題は発生しない。

しかし、『自分自身を要素としない集合の集合』や『すべての集合の集合』などのように、内包的定義で要素を集めたときにはなかったはずの新しい集合が、その内包的定義に合致してしまうことがある。このような場合にパラドックスが発生してしまうのだ。

例えば、考えられる限りの『自分自身を要素としない集合』を集めて集合Rを作ったとしても、集合R自身が『自分自身を要素としない集合』になってしまう。集合Rはその要素のどの集合ともことなるが、やはり『自分自身を要素としない集合』という内包的定義を満たしてしまう。Rの要素はRの内に存在しているが、R自身はRの外に存在している。このようなRを一般的な集合とみなすことはできないが、これを無理に『自分自身を要素としない集合』すべてを集めた集合と考えるところからパラドックスが起きてしまう。

つまり、このRが内包的定義を満たしているからといって、これをRの中に入れてしまうと、そのとたんにRは自分自身を要素とする集合になってしまう。また、RをRの中に入れないでおくと、R自身が内包的定義を満たすのでRの中に入れなければならなくなってしまう。これは、R自身が内包的定義を満たしているが、Rの内部に含めることはできないという、『床屋の』パラドックスになっているからだ。

ここで、注意しておかなければならないのは、「自分自身を要素としない集合」の集合Rは、すべての要素が含まれることを主張しなければ問題なく存在可能であるということだ。しかし、その際にも、自分自身もまた、自分自身を要素としない集合である。この構図はRの要素をどのように増やしても壊れないので、Rが「自分自身を要素としない集合をすべて集めた集合」であると考えるとパラドックスが発生してしまうのだ。そういう集合は、素朴集合論の「集合はものの集まりである」という単純な定義によっても作り得ないからだ。

公理的集合論では、巧妙に公理を組み立てることによって、このような自己言及的な内包的定義を避けるようにしている。

ただし、自己言及的な内包的定義は絶対に避けなければならないのかどうかは分からない。例えば、『自分自身を要素として含む集合』のようなものは、すぐには思いつかないが、2枚の鏡を向き合わせたときに見られる画像は、そのような集合が存在する可能性を示唆している。ただ、この場合の集合を集合と言えるかどうかという問題はある。おそらく、今の集合論とは別のものになるのではないだろうか。

内包的定義による集合の定義は簡明でなんの問題もないように思われるが、自己言及的な定義を発生してしまうという危険性を常にはらんでいるのだ。
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by tnomura9 | 2010-06-04 11:31 | 考えるということ | Comments(0)
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