パラドックスの秘密

パラドックス「Aならば¬A ∧ ¬AならばA」は恒偽命題だ。

しかし、これは、命題Aの真偽が決まるときのことだ。命題Aが真の値も偽の値もとることができないとき、上の命題は真になりえる。しかし、これを公理として論理体系の中に取り入れたとしても、命題Aはその論理体系で使うことができない。なぜなら、命題Aに真理値を割り当てることができないのだから、命題Aに論理演算を適用することはできないからだ。

パラドックスに現れる命題Aはいわば、論理体系の世界の幽霊のようなものだ。名前だけは存在するが、実態として、論理体系の中で何かの役割を果たすということはない。

「自分自身を要素として含まない集合が自分自身を要素として含まないならば、その集合は自分自身を要素として含む。かつ、その集合が自分自身を要素として含んでいれば、その集合は自分自身を要素として含まない。」という命題が、素朴集合論の中で真の値をとったとしても。「自分自身を要素として含まない集合」を集合としてみなすことはできない。集合という名称をとっても、集合の要件「あらゆる要素についてその集合に含まれるか含まれないかを断定できる。」をみたさないからだ。したがって、上のラッセルのパラドックスを素朴集合論が公理として持っていても、素朴集合論に矛盾があるわけではない。

公理的集合論は、ラッセルのパラドックスを矛盾と考えたためにこれを取り除くのに多大な努力を払ったわけだが、ラッセルのパラドックスを公理として認めたとしても、「自分自身を要素として含まない集合」は集合ではないので、素朴集合論に矛盾を持ち込むことはできなかったはずなのだ。

論理学といえども記号で記述されている。パラドックスは記号の「記号表現」としての側面と「記号内容」としての側面に依存して発生する現象なので、記号を用いて論理学を構築する限りパラドックスを追放することはできない。注意深く構成された公理的集合論であるにも関わらず、ゲーデル文というパラドックスを発生させてしまったのは、当然といえば当然のことなのだ。
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by tnomura9 | 2010-06-01 08:00 | 考えるということ | Comments(0)
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