「Aかつ¬A」は恒偽命題だ。こういう命題が公理や定理に現れる論理体系は、すべての命題が証明可能になるので論理体系を構築する意味が全くなくなってしまう。
パラドックスの場合はいろいろな論証の過程を経ても最終的には、「Aならば¬A ∧ ¬AならばA」という命題に帰着する。この命題もやはり「Aかつ¬A」と同じく恒偽命題である。 「Aならば¬A」という命題は恒偽命題ではない。Aが偽の時はこの命題は真になる。しかし「Aならば¬A」と「¬AならばA」という命題の合接は恒偽命題となってしまう。ラッセルのパラドックスではまさにこの形の命題が論証されるので、当時の素朴集合論をあつかうひとたちにはショックが大きかっただろう。 公理的集合論を構築することによって、巧妙にこの恒偽命題をさけようとしたが、ゲーデルの不完全性定理で、そのなかにゲーデル文というパラドックスが存在することが分かってしまった。 取っても取っても発生する害虫のようなパラドックスだが、どうしてこのようなものが発生してしまうのだろうか。また、このようなパラドックスを抱えた論理体系がどうして無矛盾性を保つことができるのだろうか。また、パラドックスの多くは自己言及文が存在してるが、自己言及文があるとどうしてパラドックスになってしまうのだろうか。疑問は尽きない。
by tnomura9
| 2010-05-31 12:49
| 考えるということ
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