昨日NHKのテレビで、灘高校の元名物教師の橋本先生のドキュメンタリーをやっていた。中学の3年間を「銀の匙」という一冊の小説を使って講義するというやり方で、徹底的に脱線する授業だったらしい。
たとえば、文中に「丑紅」(寒中に発売される化粧用の紅のことで、特別品質が良いとされていた。)という言葉が現れると、干支の丑の説明から、十干十二支の説明になり、それが、暦や方位を表していることの説明に移り、さらには甲子園の甲子というのが完成した年の1924年が60年に一度の縁起の良い年であったのでそう命名されたという話に発展した。 あまりに脱線が多いので1日に3ページも進まないこともあり、生徒の間からも疑問がでていたが、速読ではないのだから急ぐ必要はないとそのスタイルを貫いたようだ。 ところが、この授業が始まって6年後は、普通の高校だった灘高校から100人以上もの東大合格者を出してしまった。その後も東大合格者の数は減らず、名物先生の授業形態も続けられた。現在も灘高校はカリキュラムに関しては教科担任に一任しているとのことだ。 なぜこのような授業が成果を上げたのかは分からないが、物事を単に表面をなでるだけで済ませるのではなく、その背後にある知識にまで分け入って納得するまで調べるというやり方が思考力を育てたのではないだろうか。 フィンランドメソッドでは、子供に常に「なぜ」という疑問をもたせる。表面に見えているものの背後にある事柄や知識に注意を向け熟考する習慣を養うためだが、橋本先生の授業も形は違っても同じような効果をもたらしたのかもしれない。 明治維新後の驚異的な日本の台頭は、多くを論語などの古典教育に負っていることは明らかだろう。今のパターン認識でテストの解答をだすような、思考力を要求しない表面的な教養の香りのない教育方法をはやく修正しないといけない。 おそらくは数多くの問題を短い時間で解かなくてはいけないというマークシート形式の受験問題がそういう授業法を誘導したのだろう。問題数が多ければ、採点の結果はばらつきがなくなるし、合格者の選別は客観的になりやすいかもしれないが、そのために、考える能力のない学生を作り出すことになったとすれば、本末転倒だ。 大学も良い生徒を取ろうと思うのならば、少なくとも二次試験では思考力を要求するような問題を用意し、思考の過程が答案に残るような誘導をするなどの工夫をして、受験の時に熟考できるようにしてやれば、マニュアル人間でない考えることのできる生徒を選抜することができるのではないだろうか。 教養という言葉は古臭い響きがあるが、西欧の教育では教養教育はしっかりと残っている。お隣の韓国の映画のBGMにクラシックが多いのもそれを楽しむことができる人が多くいるということを示しているのではないだろうか。教育を受験に受かるための技術に貶めず、好奇心を常に持ち、知識を楽しみ、周囲の人と調和していくことのできる人材を育てなければならない。
by tnomura9
| 2009-10-13 05:34
| 考えるということ
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