自然数とそのべき集合 対角線論法の秘密

自然数の集合と、自然数の集合のべき集合との全単射ができないのは、カントールの定理で証明されている。しかし、この記事では、カントールの証明がどのような意味を持つのかを考えてみたい。

自然数のべき集合の要素は自然数の集合だ。たとえば A = {2, 4, 7} は自然数のべき集合の要素だ。これらが規則的に列挙できれば自然数のべき集合は自然数と全単射を作ることができるといえる。

これはべき集合の要素を2進数に置き換えることで簡単に列挙することができるように見える。自然数の集合が自然数の1を含んでいれば2進数の1桁目が1含んでいなければ0、同じように自然数の集合が自然数の2を含んでいれば2進数の2桁目が1、含んでいなければ0とする。こうするとべき集合を表す2進数と自然数の間に自然な全単射ができる。

しかし、そううまくはいかない。これは自然数の集合のうちで要素数が有限な集合にしか当てはまらないのだ。要素数が無限な集合の場合は、2進数も無限大になってしまう。

これは無限大という実体が存在するという実無限の考え方からは不都合になるが、自然数はどれだけでも大きくとることができるという可能無限の立場からは不都合ではない。この方法では無限要素の集合を捕まえることはできないが、自然数をどんどん大きくとっていくことによって、どれだけでも無限要素の集合に近いものは作り出すことができるからである。

しかしそう都合よくはいかないことをカントールの定理が証明している。自然数と自然数のべき集合との間に全単射が存在すると仮定すると、a が f(a) の要素として含まれないような自然数 a 全てを集めた集合を B とすると B = f(b) となるような自然数 b が存在する。ところが b が B の要素であれば b は B に含まれないはずなので矛盾するし、b が B の要素ではないと仮定してもやはり矛盾する。したがって、自然数と自然数のべき集合の間には全単射は存在しないことが証明される。


確かに、対角線論法を用いた鮮やかな証明だが、しかし、なぜここで対角線論法を持ち出さなければならなかったのかがよくわからない。また、対角線論法では自然数とべき集合の間にどんな問題があるのかも判然としない。

ここで対角線論法の意義を明らかにするために、有限の自然数とそのべき集合をどのように表現するかを考えてみよう。これは、次のような表を作るのが一番だ。例えば自然数 {1,2,3} の部分集合を次のような表に表してみよう。

* 1 2 3
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

表の列の数字はその列の自然数が部分集合に含まれているかどうかを示している。1ならばその列の自然数が含まれており、0ならば含まれていない。

各行の数列は部分集合を表している。部分集合 a は {1,2,3} のどの要素も含んでいないので a = {} である。同様に d の行は 1 と 2 を含むので、部分集合 d = {1,2} である。これらの集合 a, b, ... h を自然数に対応させた表を作ると次のようになる。

* * 1 2 3
1 a 0 0 0
2 b 1 0 0
3 c 0 1 0
4 d 1 1 0
5 e 0 0 1
6 f 1 0 1
7 g 0 1 1
8 h 1 1 1

この場合 a = f(1), b = f(2), c = f(3), ..., h = f(8) である。

ところで x が f(x) に含まれないような x の集合Bはどのような集合になるだろうか。上の演算表で 4 .. 8 は集合 {1,2,3} の要素ではないので、x が f(x) に含まれるかどうかの議論はできない。明らかに含まれないからだ。したがって x が f(x) に含まれるかどうかというのは上の3行までの a, b, c つまり 1, 2, 3 の正方行列でしか判断できない。

そこで、上の表の3行までをみると1も2も3もそれぞれに対応するa, b, c に含まれないから B = {1,2,3} すなわち上の表の行で表すと 1 1 1 なので B = h である。これに対応する自然数は 8 であるから、{1,2,3} のうちには存在しない。すなわち B = f(y) となるような自然数は {1,2,3} のうちには存在しないのだ。なぜなら B(=h) の行の数は、a, b, c の対角線部分のどれとも異なっているからだ。これを無理に {1,2,3} の中に求めてしまうとカントールの定理のようなパラドックスが発生してしまう。

自然数とそのべき集合の議論を上の表の 3 × 3 の正方行列の部分に限定する限り、自然数の集合とその部分集合との対応関係には、自然数に対応できない部分集合が発生するのが分かる。

この関係は自然数 {1,2,3} の要素を増やして自然数全体の集合を拡充していくことができる。しかし、表の上部の正方行列の部分の性質についての議論は変わらないので無限に自然数を増やしても必ず正方行列の縦の自然数に対応できない部分集合が発生する。

ただし、これは表の冒頭の正方行列に限って議論しているからだ。カントールの対角線論法では暗黙にこの正方行列を仮定しているようだ。

したがって、カントールの定理にも関わらず、長方形の対応表を作っていけば、どれだけでも自然数のべき集合に全単射を作っていくことができる。ただし、自然数を無限大にまで拡張したときにそのような全単射が作れるかどうかは不定である。どちらも無限大になってしまうからだ。

実無限の観点からは、自然数の全体を仮定するので、演算表の横の自然数と縦の自然数の数は一致しなければならないので必然的に正方行列の議論になる。したがって、自然数とそのべき集合の全単射は不可能である。しかし、可能無限の立場からは、全ての自然数が縦と横で一致する必要はないので、長方形の演算表を縦方向にどんどん長くしていくことで、限りなく全単射の範囲を広げてていくことができるのである。

カントールの定理では自然数と自然数のべき集合の全単射を考えると矛盾すると証明するだけで、自然数と自然数のべき集合の濃度がどれくらい違うのかを示してはくれない。可能無限の立場をとっても、縦方向と横方向も無限に大きくしても完全な全単射になるとは論証できないが、可能無限の立場からは実用的にはどれだけでも全単射の範囲を広げることができる。コンピュータで真の実数を扱うことはできないが、どれだけでも精度を上げることができるのと同じだ。もともと、可能無限の考え方からは無限集合の全ての要素という考え方はない。

追記

上の説明ではカントールの定理でなぜパラドックスが発生するかは説明できていないので追加する。自然数の集合 A = (1,2,3} について自然数と A の部分集合の対応関係の関数 g の演算表を次のように定義してみる。3行目が空白なのは理由がある。x には対応する集合に含まれない自然数の集合を作りたいからだ。

この演算表からは c = g(1), d = g(2) であることが分かる。問題は x = g(3) としたときに x が対応する集合に属さない自然数を集めた集合になるように演算表を定めることができるかどうかだ。

* * 1 2 3
1 c 0 1 0
2 d 1 1 0
3 x * * *

この表で対角線の成分に注意するとそれは各行の自然数が対応する集合の要素として含まれているかを示している。この場合 c の対角線部分は 0 だから 1 は c に含まれていない。また、d の対角線部分は 1 だから 2 は対応する d の要素として含まれている。そこで対応する集合に含まれない自然数は 1 で対応する集合に含まれる自然数は 2 である。したがって、x の行の数列は次のようになる

3 x 1 0 *

xの 1 列目と 2 列目は上の2つの業の対角線部部分を反転したものになる。ところで、x の3列目の値は * になっているが、これを完成させれば 3 は自分自身が対応する集合に含まれない自然数の集合に対応することになる。ところが、3 が 1 であるとすると x は 3 を含むことになり定義からこれは 0 でなければならないし、x の3列目が 0 であるとするとそれは 1 でなければならないことになる。つまり、カントールの定理のパラドックスになっている。

このようにカントールの定理が証明したのは、自然数と自然数の部分集合の対応関係が正方行列になるという仮定の上での議論であったことが分かる。つまり、べき集合を作成するための自然数の集合と、べき集合に対応させるための自然数の集合の数が同じであるはずだという暗黙の過程がある。しかし、可能無限の立場からは両者の拡大速度が異なっていても問題ないのである。

無限集合にすべての要素を考えることができないといったのはこの理由からだ。無限集合とは要素を次々に生成していく集合のことであり、要素が生成される速度については制限がない。全単射は、単にある範囲までの要素同士の間で1対1対応が見られるという意味でしかない。そのため自然数とその部分集合である偶数との全単射が可能になるのだ。

カントールの定理には実無限の立場から、この無限集合の拡大の速度が同じになる正方行列を仮定してしまったための推論ではないのだろうか。無限集合にすべての要素を仮定する実無限の考え方は便利な道具ではあるが、可能無限からの無限に全てはないという見方からの検討も必要なのではないだろうか。

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# by tnomura9 | 2017-06-12 18:55 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合の全単射

無限集合では集合とその部分集合の全単射を作ることができる。例えば自然数の集合は、その部分集合の偶数の集合と関数 y=2x で全単射となる。どのような偶数2n に対しても自然数 n が対応するから全射で、自然数 n と m が異なるときは偶数 2n と 2m は異なるので単射になるからだ。

しかし、この自分自身の部分集合との全単射が可能であるという無限集合の性質は、満室の無限ホテルに新規の客を受け入れる話と同じで少々胡散臭い感じがする。

例えば、1から10までの整数を考えたときそこに含まれる偶数 2 .. 10 と上の関数で対応するのは 1 .. 5 だけで、6 .. 10 には対応する偶数はない。

n 以下の自然数について言えばそこに含まれる偶数との全単射を作ることができないので、任意の自然数 n 以下の自然数の集合についてはその部分集合である偶数の集合との全単射はない。これは n がどのように大きくなっても成立するから自然数全体の集合について、その部分集合との全単射は作ることができないといえないだろうか。

しかし残念ながらそれは、最大数を持つ自然数の集合については常に成立するが、最大数を持たない自然数全体の集合についても成り立つとは言えない。無限が入り込んだ段階で、おかしなことが起き始めるのだ。

偶数を自然数の部分集合と考えると、自然数と偶数の全単射に疑問を感じる。だが、偶数を自然数の部分集合と考えず、これは自然数とは別の集合だと考えれば、自然数と偶数の全単射は自然にイメージすることができる。自然数 1, 2 ... と偶数 2, 4, ... を並べて列挙すれば自然に 1 -> 2, 2 -> 4, ... という対応関係を理解できるからだ。

つまり、自然数と同じように列挙できる集合については、自然に自然数との全単射を考えることができる。偶数は自然数の部分集合ではあるが、それは無限に列挙できるという性質から自然数との全単射が可能である。この無限に列挙できるという性質は、自然数の再帰的な定義の再帰部分から発生する。自然数と偶数はその再帰的定義に整合が見られるのだ。

前回の記事で、無限集合には全てという概念を当てはめるのには少々問題があると言ったが、それは無限集合の定義が生成的な定義であるということから来ている。無限集合の全単射は有限集合の全単射とは異なり、無限集合どうしの生成規則の整合性を利用しているからだ。

無限集合の不可解な性質が、その生成的な定義からくると考えれば、自分の部分集合と自分自身との全単射が存在するなどという納得できない性質も理解できるが、それであれば、無限集合とその冪集合の全単射がどうしてできないのかという次の疑問が湧いてくる。しかし、それは次の記事で議論することにする。


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# by tnomura9 | 2017-06-11 21:16 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合ではすべての要素を考えることはできない

無限集合に関してヒルベルトの無限ホテルのパラドックスというものがある。

無限に部屋を持つホテルが満室の時、新たな客を受け入れられるというパラドックスだ。新たな客を1号室にいれ、1号室の客を2号室に、2号室の客を3号室にという操作を無限に行えば新たな客を受け入れることができる。満室(これ以上は客を受け入れられない)にも関わらず、上の手順で新規の客を受け入れることができる。これが満室なら新たな客は受け入れられないという直感に反するためパラドックスと呼ばれている。

これについては、しかし、無限に部屋を持つホテルは決して満室にならないという解釈もできる。

満室にはならないのなら、新たな客を受け入れてもパラドックスにはならない。ところが、そうなると、無限集合の全ての要素についてという議論ができなくなってしまう。つまり無限集合では、有限集合と異なりその集合の全てのメンバーに関する議論ができなくなってしまう。自然数の要素全てについてこうこうこういう性質があるという議論をしたいのに、自然数の全てなんてないよと言ってしまうと甚だ具合が悪い。それで、無限に部屋を持つホテルには無限集合独特の性質があるのだ、それが単にパラドックスに見えているだけだという議論になるのだろう。

ペアノの公理では、

1)0は自然数である。
2)a が自然数ならその後者(a+1のこと)も自然数である。

という再帰的定義で自然数を定義しているが、これは全ての自然数を定義してはいない。荒っぽい議論になるが、仮にすべての自然数を要素とする集合があったとする。自然数には大小関係があるから、その中で最大の自然数が存在するはずだ。すべての自然数を集めたのだから。しかしその最大数を m とするとベアノの定義で m+1 も自然数でなければならないはずで、これは矛盾となる。したがって上の定義による自然数全てからなる集合は存在しない。

推論が間違っているのかもしれないが、無限集合にはそれに含まれるすべての要素の集合を考えることはできないと考えるほうが自然なような気がする。

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# by tnomura9 | 2017-06-05 13:41 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

水行10日

魏志倭人伝では邪馬台国の位置を(伊都国から)水行10日、陸行1月と記している。しかし、水行10日がどれくらいの航行距離なのかは、当時の船の復元がなければ推論できないはずだ。それにもかかわらず、邪馬台国の議論には、弥生時代の船の航行速度についての議論がないような気がする。

弥生時代の準構造船の復元例は、現在2つあるが、いずれも古墳から出土した舟型埴輪を元にしている。準構造線の部材の発掘がされていなかったからだ。しかし、近年の発掘調査では、弥生時代の準構造線の部材が次々と発掘されている。いままでに見つからなかったのは、それらの部材が再利用されて井戸枠などに使われていたからだ。


これらをもとに復元された船の性能がどれほどのものであったかは興味あることだ。舟形埴輪をもとに大阪市が復元したなみはやは船体が重く、波にも弱かったので実用性がなかったとのことだが、丸木舟部分の船体の厚さが10㎝以上もありそうだ。これに比べ久宝寺遺跡出土の準構造船の船底部分の丸木舟の船体の厚さは最大でも3㎝で、また舷側版の厚さも薄い。走行性能も波に対する安定性もかなり違っていたのではないだろうか。弥生時代の準構造船の性能を知るためには、どうしても出土した実物の部材の情報を基にした復元船が必要な気がする。

また、これらの船の航海は潮の流れの知識と切り離せない。古代の船にどれほどの能力があったのかを知るには、これらの航海技術の復元も欠くことはできない。弥生時代の遺跡から出土した板には15隻の船からなる船団の線刻画が描かれていた。卑弥呼の時代の船にはどんな能力があったのだろうか。少なくとも玄界灘を渡って朝鮮半島との交易を普段から行っていたのだから粗末なものではなかったと考えるのが普通だろう。

古代の船の情報を検索していたら、縄文時代は丸木舟を操って日本全土におよぶ交易路を開拓していた可能性があるのが分かった。それは、産地の限られている黒曜石の国内の分布から推測することができる。3万年も前からだ。


縄文人はさらにこの丸木舟を操って太平洋を横断した可能性もあるということだ。ご先祖様の航海技術には脱帽だ。

これらの古代人の造船や航海の技術は失われたが、その伝統は和船へと引き継がれ発展してきた。


西洋の船が入ってきた跡は和船も消えてしまったが、技術の命脈は見えない形で受け継がれているに違いない。現代のような受験勉強偏重、マイクロコンピュータ依存の状況でこのような文章化されない技術が本当に失われていくのではないかと不安に思ったりする。

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# by tnomura9 | 2017-06-01 23:00 | Comments(0)

素朴集合論の限界

いま、集合 a1, a2, a3 のみからなる集合の集合 A = {a1, a2, a3} を考える。すると A のすべての部分集合は、P(A) = {{}, {a1}, {a2}, {a3}, {a1, a2}, {a1, a3}, {a2, a3}} となる。ここで A -> P(A) の関数 Ψ を考える。すると Ψ(a1), Ψ(a2), Ψ(a3) はそれぞれ集合 a1, a2, a3 の外延になる。例えば Ψ(a1) = {a1, a2}, Ψ(a2) = {a2, a3}, Ψ(a3) = {a1} のように Ψ を定める事ができる。

しかし、A の要素だけでは、Aの冪集合の全てに対応させることができない。そこで A を拡張して A' = {a1,a2,...,a5, a6} を考えるとこれは A = {a1,a2,a3} の全ての部分集合を A' の要素で表すことができる。だが、この場合にも A' の要素だけでは A' の全ての部分集合に対応させることができない。

それでは A の要素を無限集合にまで拡張したらどうだろうか。A の要素は無限にあるのだから、A のどんな集合も表すことができるようになるのではないだろうか。しかし残念ながらそうはならない。Aは加算な無限集合であるが、Aの冪集合 P(A) の濃度は非可算である。したがって、AとP(A)の全単射をつくることは不可能だ。

ゆえに、素朴集合論では全ての集合を記述することは不可能なのだ。

なぜ A が加算無限になってしまうかというと、上のやりかたでは A の要素数を増やすときにシステム的に段階的に網羅していけるからだ。しかし、同時に、このときシステム的に A の冪集合の要素数は A の要素数より必ず大きくなる。従って A の要素数を無限に多くしていっても。どの段階でも A と P(A) の全単射をつくることはできない。

無限集合とは無限にある要素の全体というよりは、要素を無限に作り出す時のルールが一定であるということだ。整数と偶数がどちらも加算無限集合なのは、整数を 0, 1, 2, ... と並べていくルールがあるのと、偶数を 0, 2, 4, ,., と並べていくルールが呼応しているからだ。

無限集合を有限集合の意味の集合と考えることはできない。無限集合を規定するものはその要素を規定するルールであって、その集合の要素全体ではないからだ。

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# by tnomura9 | 2017-05-22 07:31 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

楯築遺跡

楯築墳丘墓は岡山県倉敷市矢部にある中期の王墓で、古墳時代の古墳の原型となったと推測されている墳丘墓だ。

不整円形の墳丘の南東と北西の両端に突き出しを持っている。同時期の弥生墳丘墓としては最大規模である。主墳の中央の木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ斜面にも大きな石の列石が見られる。主丘の表面は全面に葺石が施され、特に木棺の上には小石が山積みされその中央に旋帯文石が安置されていた。この石は後にこの部分に立っていた神社の御神体として祀られていた。棺の特徴は木槨をもつ中国式の木棺で、そこに30kgもの朱が敷かれていた。副葬品は簡素で鹿の角の柄をもつ鉄刀子、管玉等の大量の玉だった。人骨はなく歯が2個残されていた。

墳丘の辺縁部には土器の特殊器台・特殊壺を並べて縁取りをされている。時代と形式からみて高台の埴輪の特殊器台の原型となったと考えられる。


弥生中期、後期に列島最大の政治経済の中心が吉備にあったのは確かだろう。また、地理的にも出雲地方との交流も考えられる。宮崎平野との関係を示唆する発掘状況もある。宮崎県で発見された土器の形式の変遷から、宮崎平野から伊予を経由し吉備に至る海上の交易路があったと考えられる。


宮崎の古墳から出土する埴輪には形象埴輪はあまりなく、殆どが円筒形埴輪であるのも吉備地方と宮崎平野のつながりを示しているのだろうか。また、形象埴輪が後代に畿内で発明されたとすると、畿内より先に吉備の影響を受けていたと考えることもできる。

また、楯築墳丘墓に葬られた主が女性ではなかったのかいうことも気になる。平原遺跡のように武具の副葬が少なく、死後も墳丘が宗教的な儀式に使われたと考えられるからだ。

何れにせよ、邪馬台国がどこにあったのかという議論も、遺跡の発掘などの点で考えるだけでなく、国内外の交流を含めて面で考える必要があるのではないだろうか。


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# by tnomura9 | 2017-05-20 08:38 | 話のネタ | Comments(0)

伊都国の女王

福岡県糸島市の平原遺跡の古墳からは、日本最大の銅鏡を含む多数の銅鏡が出土している。それだけでなく鉄の大刀一振り、多数のガラス製のビーズ、ガラス製の勾玉などが副葬されていた。その副葬品の多さからこの古墳は王の墓と思われるが、大刀以外の武器は見られなかった。さらに、女性のピアスに特徴的な部品が出土していた。この墓には女性が葬られていたのだ。つまり平原王墓は女王の墓だった。



平原遺跡の王墓が女王の墓だからと言って、これがすなわち天照大神や卑弥呼の墓だという議論にはならないだろうが、弥生時代後期の九州では、この女王のように女性が王として君臨していた可能性があることを示している。

追記

女王が埋葬された古墳が他にないか調べてみたら、山口県熊毛郡平生町の神花山古墳に20代の女王の遺骨が発掘されていた。海沿いの小山の山頂に築造された30mほどの前方後円墳の後円部の石棺から全身の骨格が発掘されていたが戦後の混乱で頭蓋骨だけが残された。それを元に生前の姿が復元されている。5世紀前半のものと推定されている。


これ以外にははっきりとした女王墓の情報を見つけられなかった。邪馬台国の卑弥呼の人気も、それが女王であるという珍しさも手伝っているのだろう。弥生時代や古墳時代の女王の墓の少なさを考えても、南方の民族のような母系社会は弥生時代にはなかったのではないだろうか。魏志倭人伝の風俗が南方の民族のそれを強く連想させると言っても、母系社会だったとは書かれていない。実際、魏志倭人伝に記載された婚姻の形態も一夫多妻であり父系社会のようだ。

女王は王の血脈であるために即位したのか、またはシャーマニズムの巫女としての役割によって王として認められていただけのような気がする。

隼人に関する記録では、日本書紀に明らかに母系社会を示唆する記述があるようだが、その他の地域では長江文明の母系社会ではなく(長江文明が母系社会だと仮定すれば)、黄河文明の父系社会の影響が強いような気がする。あるいは、基本的には長江文明だが支配層は黄河文明であるような河南文化の影響が強い可能性もある。

追記

ネットで調べたら女王の墓は結構あるようだ。古墳9基をまとめたページがあった。場所は、山口県熊毛郡、熊本県宇土市、京都府京丹後市、福島県糸島市、鳥取県湯梨浜町、岐阜県中津川市、奈良県桜井市、兵庫県神戸市だそうだ。王の配偶者や家族かもしれないので断定はできないが、全国に女王の墓は存在するようだ。

女性が埋葬された古墳9基

こうなると邪馬台国論争は銅鏡か金印が見つからない限り決着はつかなそうだ。調べているうちに邪馬台国がどこかという議論よりも、弥生時代が国外や国内との交易や政治的交流という観点からも開放的な時代だったのだというのが面白くなってきた。また、女性の地位も結構高そうだったのが面白い。教科書に書いてあったような大陸からの渡来人の一方的な征服というのではなくて、活力のある面白い時代だったような気がする。御先祖様結構やるじゃんと言いたくなってきた。

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# by tnomura9 | 2017-05-17 23:22 | 話のネタ | Comments(0)

串間市、王の山古墳出土の玉壁

宮崎県串間市の王の山古墳から、漢のものと思われる玉壁が出土している。九州の南の端からこのような中国の王侯貴族の持つ玉壁が出土すること自体が場違いだが、次のブログの作者の推論では、東越王の子孫が新(紀元8年~23年)の混乱時に中国を脱出し宮崎に渡来したのだろうということだ。これが邪馬台国になったらしい。

串間市、王の山古墳出土の玉壁

越の国は、長江文明が起源の越人を秦が征服した後、支配層が越人の文化を取り入れ同化したものらしい。文化的には長江文明の特徴をもち、支配体系は中原のそれを継承している。魏志倭人伝の風俗の記述が南方の越人のそれに類似しているのはそのためだろう。ただ、この玉璽の所持者が本当に東越の王族のものであったかどうかは確かめる術がない。王権が滅亡した後人手に渡ったものなのかもしれない。

長江文明起源の越人の文化がどのようなものであったかわからないが、台湾の先住民族の由来は越人らしいので、調べてみた。

アミ族

アミ族の母系社会であること。水辺に住み農業と漁業を生業としていること。呪術が盛んなこと。アルタヤ族の顔に入れ墨をする習慣。タオ族の多数の人が乗るオール式の準構造船、ツオウ族の高床式住居などが魏志倭人伝の記述に適合しているように見える。

弥生時代と南方の海の民の関係を示すような興味深い発掘がある。鳥取県の稲吉角田遺跡という弥生中期の環濠遺跡から出土した弥生式土器の首に書かれていた船の絵だ。舳先がせり上がった船を頭に羽の被り物をつけた人たちがオールで漕いでいる。船は上に述べたタオ族のそれを彷彿させるし。頭の羽飾りは Wikipedia の台湾原住民の記事に乗っているツオウ族の青年の被り物とそっくりだ。

邪馬台国の遥か以前から日本と海の民の交流は活発だったのではないだろうか。

隼人などの南九州の民が長江文明に起源を持つ海の民に親和性があるのは間違いないだろうが、東越という先進国が渡来してきたのか、あるいは小規模な民族集団が移住して土着化した民が発展して建国したのかで邪馬台国のイメージが全く変わってしまう。


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# by tnomura9 | 2017-05-15 19:27 | 話のネタ | Comments(0)

長江文明

宮崎と鹿児島の南九州の古代の文化は、北九州の文化と非常に異なっている。例えば、地下式横穴墓などはほとんどが南九州でしか見られないものだ。また、花弁状竪穴住居もそうである。これほど際立った文化の違いは重要だ。

北九州の文化は、魏志倭人伝にも見られるように漢人の文化の影響を強く受けていると考えられる。しかし、宮崎や鹿児島の文化は漢人のものとは違う。どうもこれは揚子江流域で発展した長江文明の文化ではないかと思われる。

長江文明とは長江流域で起こった中国の複数の古代文明の総称である。その始まりは紀元前14000年とも言われている。稲作と漁労を主な生業としていたため稲作漁撈文化とも言われる。紀元前2500年ころの地球の気候の寒冷化とともに南下してきた黄河流域の漢人との抗争に敗れ、雲南省の苗族や、カンボジア、日本などへの民族移動が起きたと言われている。

長江文明の特徴は、母系社会であること、稲作や高度な航海技術を持っていたこと。文字を持たなかったこと。太陽と鳥を崇める宗教を持っていたこと。鏡と剣による祭祀があったこと。高度の玉の加工技術があったこと。呪術が盛んだったこと。顔に入れ墨を入れていたことなど、魏志倭人伝の邪馬台国の描写に共通するものがある。

大陸から長江文明の集団が東シナ海を渡って直接鹿児島や宮崎に渡来してきたことは大いに有り得ることだ。やっぱり邪馬台国は宮崎平野にあったのだ。


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# by tnomura9 | 2017-05-12 22:51 | 考えるということ | Comments(0)

宮崎県立西都原考古博物館

国内の考古学博物館のホームページが充実してきているようだ。情報も豊富で写真や図柄もきれいだ。宮崎県立西都原考古博物館へは実際に行ってみたが、ホームページを閲覧していたので分かりやすかった。いながらにして全国の博物館めぐりができるのはありがたい。


宮崎県西都市の西都原古墳群の中にある、県立考古博物館。西都原古墳群の説明を写真入りで見ることができる。また、宮崎県内の出土品の検索ができる。


装飾古墳データベースでは、古墳のVRデータの動画などが見られる。


福岡県糸島市の伊都国関連の出土品の展示がある。伊都国は魏志倭人伝の中でも詳述されており、中国との交流を考える上で比定されている国のうち最も重要な国。動画などがあり楽しい。



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# by tnomura9 | 2017-05-12 06:16 | 話のネタ | Comments(0)