幸福の技術

何度も言うように幸福とは「自分が幸福である」と感じることである。したがって幸福を得る技術とは自分の脳が幸福感を感じるように鍛錬することだ。

最近、認知心理学と行動療法が結びついた認知行動療法という心理療法が効果を上げているようだ。詳しいことを説明できるほど調べていないが、印象としては古来の哲学者や宗教家が経験的にやっていたことを、経験科学的にシステム化した方法のようだ。これが、神経生理学や神経解剖学、神経活動のコンピュータシミュレーションなどの知見と結びついてくれば、将来は科学的に幸福の達人となる方法が解明されるかもしれない。

そういう技術が発達すれば、神経症やうつ病の治療が効果的に行われるようになるだろう。それだけでなく、普通に生活している人でもその技法によってさらに自由な判断力や行動力、幸福感を持つことができるようになるかもしれない。しかしながら、その場合でも幸福を得る技術とはスポーツの技術と同じような性質のものとなるのではないだろうか。つまり、スキルの上達度の個人差がかなり残るということだ。

抗生物質を飲んで感染症を治療する場合、薬を服用する人の技術は必要ない。薬を飲みさえすれば病気は治ってしまう。しかし、幸福感を得るための技術は基本的に指導者によるクライアントの訓練という形になり、指導者やクライアントの技量が関係してくるのだ。

おまけに技術の向上のためには、訓練のために使う時間が必要になる。幸福の達人になるためにはほとんどの時間を心の訓練に使わなくてはならなくなるかもしれない。プロのスポーツ選手のように、プロの幸福な人が出現するかもしれないのだ。こういう人たちの役目は、心の訓練によって到達できる境地を皆に示すということになるだろう。幸福の達人でかつ科学技術に通暁しているという人もないではなかろうが、おそらく幸福の達人の知識はどうやって幸福になるかということに限定されてしまうのではないだろうか。古来の聖人とはそういう人たちであったように見える。

そうはいっても、幸福の技術が発達すれば、闇雲に不幸になる人の数は減少してくるかもしれない。国民の平均的な幸福感のレベルが上昇するかもしれない。認知行動療法の発達を大いに期待したい。

しかしながら、確かに幸福なことは良いことであるが、不幸はだめだという訳でもないのだ。芸術家の一生は不幸な人が多い。どうもその不幸な人生がかれらの創作意欲の糧になっているようにも見える。ゴッホの伝記を読んでゴッホに代わりたいと思う人は誰もいないだろう。しかし、その作品は年月を経て多くの人に感動を与え続けている。

幸福になりたいとは思うが、不幸なまま立派な仕事を成し遂げていく自由も人間は持っているのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-22 09:04 | 幸福論 | Comments(0)

幸福の条件

幸福とは心が「幸福だ」と感じることだ。どのような外的条件でも幸福感を感じることができれば、幸福のプロになることができる。結局のところ自分の体を幸福感の達人にしてしまえば、外的条件や幸運不運に影響されずに幸福になることができるのだ。

しかし、スポーツ選手のことを考えればわかるように、基本的には誰でもスポーツを始めることができるが、プロのスポーツ選手になることができるのはごく限られた人たちだけなのだ。外的条件のいかんに関わらず幸福になる技術についても、それは一種の自己鍛錬の成果だ。たとえ心理学や生理学が進歩したとしても、おそらく幸福の達人になることができるのは一部の人で、大多数の人はそううまくはいかないだろう。

ゴルフのスウィングのようにやり方が研究し尽くされているようなものでも、実際にできる人は限られているのだ。熱心に練習しても、できないひとはできないのだ。

運にも不公平があり、不運にも負けない幸福感を持つ能力にも不公平があるのでは、現在不幸を感じている人は救われないではないかと言うかもしれない。確かにその通りだ、しかしやってみなくては自分が幸福の達人になれないかどうかは分からないのだ。宝くじを絶対当たると思って買う人はいないだろう。しかし、買わない人には絶対に当たらない。

自分が不幸だと嘆いているだけでは絶対に幸福にはなれない。幸福になりたいのなら何かを始めないといけないのだ。しかし、慎重でなくてはならない、幸福になろうとはじめたことで逆にもっと不幸になってしまう可能性だってあるのだから。

「期待させたかと思うとすぐに失望させる。何を言ってやがるんだこの野郎。」と思った人もいるかもしれない。申し訳ないがそれが現実なのだ。実は、幸福になるための鍵はそこにあるのだ。現実をしっかりと見極めることである。不幸と感じていることが現実にそうなのか。日本人の不幸は他の国の人から見たら信じられないくらい幸福であるかもしれないのだ。逆にバブル経済に踊らされた人たちのように自分で幸運だと思っていたことが、実はそうではなかったかもしれない。自分の人生の現実あるいは真実はどこにあるのか。それを見極めようとすることが、現在や未来の幸福や不幸にかかわらず、重要なことなのだ。

不幸を幸福に変える錬金術はないかと思っていろいろと考えてみたが、結局これといった答えは見つからなかった。ただその過程で、なぜソクラテスが皆の固定観念を産婆法で粉砕しながらそれに代わる答えをださなかったのか分かったような気がした。徳にしても、美にしても、幸福にしてもそれはこれだという答えがあるのではなく、一生の間追い求め続けることが大切なのだということだ。それはこれではない、あれでもないということは分かる、しかしその本体を捕まえることは不可能なのかもしれない。真理というのは永遠に問いを発し続ける過程そのものかもしれないのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-21 16:39 | 幸福論 | Comments(0)

森田療法

今日は書くことがないので、岩井寛著「森田療法」(講談社現代新書)からの引用を紹介する。

神経質(症)の苦しみのさなかでは、対人恐怖症のように人間関係にとらわれたり、不安神経症のように自己の身体不調にとらわれたり、強迫神経症のように縁起や雑念にとらわれたりするが、それは視野が狭小化され、自分のこと以外に目が向かなくなり、自分の症状以外に関心がなくなっていくからである。そこでは、往々にして他者に対する配慮や、自分と社会、あるいは文化との関係など、自分を包んでくれる大きな存在との関わりを無視してしまいがちである。

ところが、神経質(症)の「とらわれ」から脱して、自己確立ができるようになると、他人を配慮する目や、社会や文化に対する目が大きく見開かれるようになる。つまり、自分が生きていることが自分一人で生きているのではないことに気づかされるのである。誰かが作ってくれる食事を食べ、誰かが運転してくれる電車に乗り、誰かが話してくれる語り言葉に耳を傾ける、すなわち、こうした関連と連帯の中で自分自身が生かされていることに気がつくのである。

そのようにして、症状の「とらわれ」から自由になった彼は、自らを家族や、社会や、さまざまな人間関係の中で生かし、人間としての意味を求めることに努力をするようになるであろう。これは、人間としての自由を獲得し、広げていったことになる。

なぜなら、彼の前には、不安であるから症状を盾にして神経質(症)の世界に埋没していたいという欲望と、不安があってもより人間的な意味を求めて自己実現したいという欲望と、二つの欲望の方向が存在する。つまりそのどちらかを選ぶのは彼自身であり、彼は選ぶ自由を所有しているといえるのである。ここでは彼は、神経質(症)者としての選択を行っているのではなく、一個の自己確立のできた日常人として選択の自由を行使しようとしているのである。


自分の不幸に苦しんでいるときは、ある意味神経症の患者とおなじ心理状態に陥っているのかもしれない。苦痛を回避しようとしてもっと苦痛を招くような状態に陥ってしまうのだ。視野が狭くなり、他の見方や生き方があるのを考えられなくなってしまう。勇気を持って自分の苦痛にしっかりと向き合うことができたとき、はじめて、広い世界が開けていることや、自分だけで生きているのではなく、自分の生というものも他者によって支えられていることに気がつくようになるのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-21 08:17 | 幸福論 | Comments(0)

我を忘れる

苦悩というのは脳で感じるものだ。脳は一度にはたくさんのことをできないので、他の仕事をしているときに苦悩することはできない。我を忘れて仕事に没頭しているときはあまり悩みを感じない。

また、苦悩は自分が望ましい状態にないことに苦しみを感じるものであるから。自分というものにそれほど注意を留めなければ発生しない。「自分はこうあるべきなのだ、それなのにどうしてもそうならない」と考えると苦しいが、「自分がどうあろうとそのこと自体は本質的に大切なことではないのだ。自分が何であるかよりも、自分に今なにができるかということが大切なのだ。」と考えると自分に執着しないですむので気持ちが軽くなる。

二重の意味で「我を忘れる」ということは、苦悩を軽くしてくれる。さらに、自分の苦悩に対してさえそれ自体は重要な問題ではないのだと考えることができると、苦悩を持ちながらも前に進んでいくことができる。

自分というものは自分にとって大切なものだが、その自分を離れることで、苦悩を軽減したり、苦悩に押しつぶされない行動の自由を獲得することができるのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-20 07:27 | 幸福論 | Comments(0)

感謝すること

幸運な人は自分の幸福を気にかけない、不幸な人は感謝するような幸運を持たない。人間はあまり感謝というものをしないのかもしれない。

幸運な人のことは放っておいて、不幸な人と感謝との関係を見てみたい。こんなに不運なのに何に感謝できようかと思うかもしれない。しかし、それでも一個か二個は感謝をする種があるのではないだろうか。何にもなくても生きているということを感謝しよう。とにかく、何でもいいから感謝するのである。宗教を持っている人なら自分の神に感謝すればよいし、無宗教の人は宇宙霊でも大自然でもなんでもいい。すると、不思議なことに自分の苦悩が和らぐのだ。

不幸の苦しみは「自分は不幸だ」と思うことで倍加する。しかし、感謝をすると同時に自分を不幸だとは思えないので、ほんの少しの間であっても苦痛が軽減するのである。嘘のようだが体験済みの事実だ。理屈から言えば感謝の回数を増やすほど不幸を嘆く苦しみから解放されるはずである。

聖書に書かれている、

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。

という言葉は意外に心理学的にも正しい方法なのかもしれない。
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# by tnomura9 | 2005-05-19 13:15 | 幸福論 | Comments(0)

受け入れること

このブログを書き始めてから、これまでの人生を通じて溜まってきていた不満の正体がなんとなく分かってきたように思う。今とくに生活にひどく困っているわけではない、しかし、自分の一生は一体何だったんだろうかという思いである。子供のときに描いていた基本計画とは全く異なるのである。

不満の種を数え上げるといくらでも出てくる。自分の能力に対する不満、周囲との行き違いからくるいらだたしさ、与えられなかった機会に対する不満、等々。これらのものが何とも言えない満たされない気分を引き起こし、それが積もり積もって「何と自分は不運なんだろう」という感情になっていく。そうして「自分は不運なのだ」という考えがさらに欲求不満を刺激するのである。

この蓄積された不満はそう簡単に消えてはくれない。理屈や心理的操作で克服しようとして一見成功したように見えても、すぐに隙をうかがっては意識に上って自分を支配しようとする。

現実には思うにまかせないのがこの世の中だ。椅子取りゲームでは大多数のものが敗者になる。幸福になるよりは不幸になる確率のほうがよほど高いのである。そんなことは当たり前だと他人のことなら理解できる、しかし、自分にその法則が適用されることは許せないのだ。自分が負け組みだとはどうしても思いたくないのである。

与えられたもののうち良いものは受け入れるが、悪いものは拒絶するというのは自然な行動だ。なんでも口に入れる赤ん坊のように良いものも悪いものも全て口に入れていたら、すぐに病気になってしまう。だから自分に関係することで都合の良い物は受け入れ、都合の悪いものは無視するというのも基本的には自然な行動なのだ。しかし、自分自身の能力や性格についても優れているところや劣っているところが混在しているというのが事実なのである。それが社会的なことになってくると他の人の複雑さも加味されてくるので事態はもっと複雑になってくる。したがって、良い物は受け入れるが悪いものは拒絶するというやり方が早晩破綻してくるのは当然といえば当然なのである。

こうしてみると「自分は不幸だ」という感情は発生すべくして発生するものだといえるかもしれない。大げさな言い方をすると人間は必然的に不幸になる存在なのかもしれない。

このように良いものと悪いものを選別するというやり方が不幸を発生させてしまうのでこれを先ず変える必要がある。具体的にどうするかというと自分の欠点を受け入れてしまうのだ。たとえば人と話すのが苦手な人は、それを克服しようとせず自分はそういう人間なんだと受け入れてしまうのだ。たとえ、自分がうまく話せないために人に誤解されたとしても、そのことも受け入れるのだ。自分の性格からくる不利益を解決しようとか見ないようにしようとかせず、真正面から受け止めるのである。受け入れてしまえば、人に嫌われるというような苦しい状況も自然現象と同じでかなり平静に受け止めることができる。

受け入れたからといって自分が人と話すことが苦手だという事実はかわらない。しかし、その事実を拒絶せず心を平静に保つことができれば、よりよい思案も湧いてくるのだ。また受け入れたからといって苦痛が減少するわけでもない。しかし、いったん受け入れてしまえば闇雲に格闘するよりは現実が見えてくる。この現実が見えるということが大切なのだ。これはあきらめという感情とも違う。あくまでも地に足をつけていようという意思の働きなのだ。

不運は現実だ。自分の欠点も現実だ。しかしそれを受け入れさえすれば、「自分は不幸だ」という感情に振り回されないで、自立した人間として行動することができるのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-19 07:45 | 幸福論 | Comments(0)

不幸

「自分は幸福だ」と考えることが幸福であると同時に、不幸とは「自分は不幸だ」と考えることなのだ。また、幸福な人にとって自分が幸福であることはあまり重要ではないのに対し、不幸な人は幸福を渇望する。

不幸は望まなくてもやってくるし、抜け出そうと思ってもそう簡単にはいかない。自分の責任で不幸になる場合もあるし、自分に責任がないのに不幸になる場合もある。それは動かしがたい現実であって、小手先の心理操作で不幸を幸福に変えようと思ってもうまくはいかない。

「万事休す」でどうにもならないときは、不安や苦悩にかられて行動するのではなく、じっくりと自分の現状を知ろうと努力するほうが良い。無くした物を悔やむより現在自分の手の中にあるものを点検するのだ。「かくあるべきだ」とか「このような状況は不当だ」とか「おれは不幸だ」とか「自分が情けない」などという非現実的な考えを捨てて、徹底的に現実的になることだ。余計な思惑を捨て去ると意外とよい解決法を思いつくものだ。それでも、何もよい考えが浮かばないことがある。そんなときはじっと局面が変化するまで待つことも必要だ。死んだ振りである。

どん底まで落ちてやると思い切ると、それはそれで奇妙な充実感が沸いてくるものである。幸福ではないが不幸でもない状態になる。たとえ苦しみのために胃潰瘍になったとしても、生きる意思のあるものに不幸はない。
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# by tnomura9 | 2005-05-18 23:00 | 幸福論 | Comments(0)

幸福

幸福とは何だろうか。どんなに幸運な環境にいても本人が幸福だと感じなければ幸福ではないだろう。逆に、どんな過酷な運命の中でも幸福感を見つけることのできる人がいる。幸福とは「自分が幸福であると感じること」ではないだろうか。

別にここで幸福論を打とうとしているわけではない。ただ、皆日ごろ自分や他人のことを幸福だ不幸だと言及するくせに、それが一体どういうものなのか、どうすれば獲得できるものなのかについては、とんと無頓着だということを言いたいのだ。幸福を獲得したいと思っているくせに、その獲得法については全くの素人だということだ。

それでは非常に良質の幸福感を持っている幸福のプロとはどのような人たちなのだろうか。それは、過去の哲学者や、宗教的な聖人たちではないかと思う。しかし、その人たちの生活を知って真似をしてみたいと思う人はほとんどいないだろう。また、目の前の差し迫った問題の解決に奔走している人たちは、幸福だ不幸だと感じている暇はないと言いたいだろう。

大体、私たちが幸福について興味をもつのは、人の噂話をしている時か、夜眠れない時か、デートをしている時か、うまいものを食っているときか、要するに暇なときなのだ。そうしてみると、幸福というものは案外、アクセサリーみたいに持っているとうれしいが、なくても困らないものなのかもしれない。

反面、幸福が非常に重要に思えるのは、自分が不幸であると感じているときだ。他の人の幸福なイメージが自分の不幸に対比され、より明瞭に感じられるのだ。

幸福というものは蜃気楼のように遠くにあるときははっきりと見えるが手に取ろうとすると消えてしまうものなのかもしれない。
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# by tnomura9 | 2005-05-18 07:36 | 幸福論 | Comments(0)

くわばら、くわばら

くわばら、くわばら

ブログとは恐ろしいものだ。つい、友達に話すときのように自分のことをしゃべってしまう。他の人のブログを読みながら、「いいんだろうか、こんなことまで書いて。」と思っていたくせに、もう自分のことを書きはじめた。

ちなみに、「くわばら、くわばら」とは落雷を避けるためのまじないの言葉だそうだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-17 18:24 | 幸福論 | Comments(0)

負け組

実は、筆者自身も子供のときから抱いてきた夢を達成できなかったという意味で負け組の一人である。いま就いている仕事は必ずしも好きな仕事ではない。むしろ若いときにこんな人生だけは歩みたくないと思っていたまさにそのような状況にいる。そして、かつての同僚の活躍を、まばゆい思いで眺めている人間のひとりだ。

ある程度年をとってくると少しは知恵がついてくるので、自分が夢を達成できなかった理由がいろいろと見えてくる。あの時ああしていれば、あれが足りなかったからうまくいかなかったのだなどと過去を振り返ると胃が痛くなることがある。まさに、マーフィーの法則に言う、

成功には必ず不思議があり、失敗には必ず理由がある。

ということである。主観的に考えれば生きていても少しも面白くない状況なのだけれど、家族がいるし、とにもかくにも健康で働けている。ありがたいという気持ちもある。人生は複雑だ。

負け組みになってひとつありがたいことは何にも縛られていないということだ。これといってすがりつきたい物もないし、体面を保つ義務もない、教養だってなくても暮らせる。キュニコス派ほどではないが気楽な生活だ。自分の生を楽しむという意味ではまさに天与の恵みなのだ。

ある意味失敗続きの人生だったが、失敗したからこそ知りえたものがあるのに最近気がついた。ほんとうに大切なのは生きていられることなのだということ。それだけでなく、いろいろな人の助けで生かされているということである。人生万事塞翁が馬で、この先どんな試練にあうかもしれないが、生かされていることのありがたさを感じていたいものだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-17 07:59 | 幸福論 | Comments(0)