塞翁が馬

またまた excite 辞書で調べた。「塞翁が馬」。

大辞林 第二版 (三省堂)

さいおう ―をう 【塞翁】<

北方の辺境のとりでに住む老人。

――が馬
人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえ。人間万事塞翁が馬。〔「淮南子(人間訓)」から。昔、塞翁の馬が隣国に逃げてしまったが、名馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬に乗っていて落馬し足を折ったが、おかげで隣国との戦乱の際にも兵役をまぬがれて無事であったという話から〕

「順境のときも油断せず、逆境のときもくじけないへそ曲がりの爺さん」の話ではなく、単に「先のことは分からない」ということ。同意語は「ケセラセラ」。

Que Sera, Sera
Doris Day

[Written by Jay Livingston and Ray Evans]


When I was just a little girl
I asked my mother
What will I be
Will I be pretty
Will I be rich
Here's what she said to me

Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future's not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be

以下略 ...
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# by tnomura9 | 2005-05-07 07:57 | 幸福論 | Comments(0)

みじめさ

どうしても惨めな気分になって仕方のないときはどうしたらいいだろうか。惨めになるのは自分が欲しいと思っているものを手に入れられないからだ。それなら、欲しいと思わなければ良いのだ。

欲しがりません、勝つまでは。

何に勝つのだろうか。さして大切でもないものを欲しがる自分の幼児性に対して勝つのである。

惨めな気持ちがどんなに辛くて苦しくても、所詮は脳の中の化学反応に過ぎない。行動に移さなければ実体はない。しかし、その気持ちに動かされて行動するとき、さらに惨めな状況を引き起こすかもしれない。行動をしっかりと抑制して、自分の惨めな気持ちに正面から対峙することが大切だ。惨めさから逃げようとせず、克服しようともせず、理由付けもせず、また、慰めもせず。ひたすら自分の惨めな気持ちと向き合うのである。泣き叫びたい気持ちが、結局は気持ちに過ぎないことに気がつくまで。
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# by tnomura9 | 2005-05-06 20:49 | 幸福論 | Comments(0)

教養

「教養」を excite 辞書で調べてみた。

大辞林 第二版 (三省堂)

きょうよう けうやう 【教養】<

(名)スル

(1)おしえそだてること。
「父は其子を―するの勤労を免かれ/民約論(徳)」

(2)社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位。
「―を身につける」

(3)〔英 culture; (ドイツ) Bildung〕単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。

子供のころから教養のある人になれと言われてきたが、それは単なる物知りではないようだ。また、それは持っていても邪魔にはならないが、別に持たなくても差し支えない。しかし、教養するという動詞があるとは新発見だった。

人間の価値なんて相対的なもので、乱世の救世主は、平和なときのもてあましものだったりする。自分の価値などというものは他人が決めるもので、そんなものを獲得しようとあくせくしても始まらない。別に怠けたほうが良いと言っている訳ではないのだが、自分の与えられた場所で一所懸命やればよいのではないか。それに、与えられた場所もまた絶対的なものではなく、自分で変えたくて変えることができればそれに越したことはないのである。
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# by tnomura9 | 2005-05-05 10:11 | 考えるということ | Comments(0)

好奇心

人間にとって最も大切なものとは何だろうか。地位や名誉や財産ではないような気がする。もっとも、ご縁があってもちっとも構わないのだけれど。しかし、好奇心がなくなったら喜びというものを感じられなくなるのではないだろうか。修道院に入って一生外に出てこない修道士もいるそうだが、宗教的な真理を知りたいという好奇心がなかったら耐えられないだろう。小さな子供があんなに元気なのも旺盛な好奇心を持っているからに違いない。
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# by tnomura9 | 2005-05-04 07:39 | 幸福論 | Comments(0)

慢性疲労

最近とにかく疲れる。休日に寝ても寝ても疲れがとれない。散歩をする気力もない。本を読んでも続かない。DVDを見ても面白いと思えない。はっきり言って働きすぎだ。それで、新聞とテレビを見ないようにしたら、少し疲れが取れた。世界情勢を知っても動けないくらい疲れてしまったら何にもならないというのに気がついた。教養もあったほうが良いだろうが、所詮専門家にはかなわない。生き生きした好奇心が回復するまでは、休もう、休もう、休もう...... 。

慢性疲労症候群とは要するに情報過多なのではないだろうか。脳の許容量を超えた情報を一度に詰め込もうとすると、脳がオーバーヒートを起こして故障してしまうのである。仕事を変わった友人が疲れが取れないと悩んでいたので、テレビを見ないように勧めたら、次に会ったときは随分すっきりした顔をしていて感謝された。無用の情報をシャットアウトすることが、脳の健康には大切なのかもしれない。
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# by tnomura9 | 2005-05-03 20:07 | 幸福論 | Comments(0)

コヘレトの言葉

旧約聖書のコヘレトの言葉のなかに次のような文句がある。

かつてあったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。

人間は昔も今もたいして変わっていないのではないだろうか。子供のころ児童文学で読んだ、倶利伽羅峠の話。木曾の義仲が牛の角に松明を結びつけ平家の大軍に放って大勝した話を読み、すごいことをするものだと思っていたら、古代中国の斉の国の田単という将軍の火牛の計を真似たものだったと最近知り感心した。昔の目を見張るような作戦が、そのまた昔の作戦の真似だったと聞いて愕然としたのだ。

自分は会社勤めをしたことはないが、才能のある若者が抜擢されて大成功を収めるが、上司の猜疑心を刺激して左遷されてしまうというパターンは史記を読むとありふれている。しかし、当人にとってはこんなに力のある自分が不当な仕打ちをなぜ受けなければならないのだろうか、なんと不条理な世の中だと嘆くのである。

人間は何も持たずに赤ん坊として生まれてくるので、何千年も前に他の人が通り過ぎた道を同じように歩いてしまうのだろう。愚かな事だと思うが、誰も教えてくれないので仕方がない。若いうちに史記や聖書のような古典に親しむと良いのかもしれないが、残念ながら古典が面白いと思い始めるのは人生も半ばを過ぎてからのことになる。後の祭りであるが、それも人間の一生なのだろうと思うと面白い。
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# by tnomura9 | 2005-05-02 20:46 | 幸福論 | Comments(1)

ブログ二日目

これが、2回目の投稿だ。一日目の記事を読み返してみたら、ガチガチに緊張していたのがわかる。誰かが読むかもしれない文章を書くのは刺激になる。

本当に、ブログに文章を書いたら誰が読むかわからないのである。どこかの県立病院のお医者さんが、毎日の診察での愚痴などを書いていたら、患者さん本人がその記事を見て病院に抗議したため、病院を辞職したそうだ。そのブログは非公開でおまけに匿名で書いたにもかかわらず、患者さん本人には誰のことを書いているか分かったらしい。気の毒な話だが、ブログに文章を発表する怖さを物語っている。

ブログのうわさが高いので登録してみたが、確かに簡単だ。自分のホームページを見ながら、投稿や編集が簡単にでき、書いた日付まで記録される。スキンはセンスがよくて、自分で作るよりはずっと格好がいい。ブロガーが増えるはずだと思った。

単なる日記ならここまで熱心に記入したりしないのではないか。自分以外の人が読んでくれるかもしれないという気持ちが、書く事の面白さを倍増させる。無名の人の書いた文章でも、誰かに読んでもらえるという所がブログの魅力だろう。

読むほうもそのつもりで読んでいる、作家や芸能人の自分の生活とはかけ離れた体験を読むのも面白いが、自分に身近な事柄で他の人がどんな気持ちや苦労で生活しているかを覗くのもまた一興なのである。服装まで気にしないといけないフランス料理屋で食べるのもいいが、自宅でテレビとビールで焼き魚をつつくのもいいのである。

きょうテレビを見ていたら、アメリカのメトロポリタン美術館の収蔵品で、エジプトの高官の墓から出土した副葬品が写っていた。それは、金銀の財宝ではなく、当時の生活を模した木製のミニチュアなのである。保存状態が良かったためか色も鮮やかで、当時の人々の生活を生き生きと写している。

穀物倉では男が篭に入れた小麦を蔵へ空けている。その蔵の底には当時の本物の麦粒が残っていた。蔵の外では書記がなにやら記録をとっているし。そのとなりの部屋では小麦からパンがこねられて焼かれている。また、サボったりしないように奥では監督が目を光らせているのである。さらに、別の部屋では牛が殺され、捌いた肉が場所ごとに切り分けられて天井から吊るされている。ナイル川では十数人のこぎ手のいる大きな船の編隊が航行しており、その中ほどの船の最後尾には墓の主人が蓮の花のにおいをかぎながら、自分のほうを向いて、両手を胸に当てて歌う、歌手の歌に聞き入っている。

4000年前もやはり、墓の主人のほうではない庶民は、このように生活していたのである。何の変哲もない日常生活で、何の変哲もなく暮らしている人々の気持ちがこのミニチュアに残されている。ブログに書かれていることも何千年も後の人に発見され、今の生活を推測する貴重な資料になる日がくるのだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-05-01 17:05 | 話のネタ | Comments(1)

ブログに登録した

ブログがやってみたくて登録した。まだ、何をやりたいのかはっきりしていない。何となく思ったことを書き込んでいきたいと思う。

最近、あまりテレビを見なくなった。欲しい情報はインターネットから取っている。しかし、なかなか思っている情報に当たらないというのも実感だ。ホームページの情報密度があまり高くないようだ。何かのページで、もっとも有益なページはよくできたリンク集だというのを読んだことがあるが、そんなものなのかもしれない。良質の情報ハブとなるようなホームページがどんどん増えていくと面白いと思う。情報のオープンソース化である。

なぜ、こういうことを書いたかというと、意外に知りたい情報をインターネットから取り出すことができないのである。最近、子供が「微分」の意味がわからないと電話してきた。「微分は接線の傾きじゃないか」というと、「それは分かっているが微分が接線の傾きだからどういう意味があるのかが分からないんだ。」と言う。どうやら、子供が知りたいのは、「微分が接線の傾きであることはどういう意味であるか」ということらしい。

そんなことは考えたこともなかったので、とりあえず Google で「微分の意味」を検索してみた。しかし、残念ながら微分の意味を納得いくように解説したホームページを見つけることはできなかった。しかたがないので、自分の記憶の中を探っていたら、微分方程式の教科書を読んでいたときに dy/dx = f'(x) を変形して dy = f'(x) * dx とすると dy は x が dx だけ微増したときの y の増分の近似値であると書いてあったことを思い出した。たしかに微分係数は x が dx だけ変化した時の y の増分の一次近似を求めるための係数である。近似であるから dx が大きければ実際の増分との誤差ができるが、dx を小さくしていけば望むだけ(相対)誤差を小さくすることができるので、どれだけでも精密な推測値を求めることができる。これが、微分が接線の係数であるということの意味なのではないだろうか。

この説明では微分を接線の傾きであるという説明よりも却って分かり難くなったかもしれないが、知識の意味を求めるということは初学者や子供の特徴ではないだろうか。この要求にこたえるのは容易ではないだろうが、知識の意味を明確にすることで次世代への伝達が容易になるのであれば重要な作業である。微分法にしてもニュートンが表現したようなやり方では普及することはなかっただろう。天才が発見した新知識を普通の人でもわかるように整理し、分かりやすい表記法が開発されたからこそ現代の技術社会が出現したのである。

インターネットに蓄積されている知識は表現されることによって、より大衆的になり、知識の習得しやすさを加速するという意味で、革命的なことかも知れないのである。そうして、このページのようなささやかなページのようなものでも、その一端を担っていくことができる(あくまでも)可能性があるのかもしれない。
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# by tnomura9 | 2005-04-30 08:23 | 考えるということ | Comments(0)