苦痛の効用

子供の心性と大人の心性の違いは何処にあるのだろうか。実務能力や視野の違いなどもあるだろうが、苦痛に対する耐性の違いもそのひとつではないだろうか。どれだけ主体的に我慢することができるかが子供と大人の大きな違いである。

毎日の生活で苦痛と出会わない日はないと言っても良い。毎日生きているだけで多かれ少なかれ苦痛に耐えているのである。たいていの苦痛は克服され、その結果として生じる達成感は気持ちを爽やかにしてくれる場合すらある。仕事が終わった後の開放感は快感でもあるのだ。この苦痛の感覚はストレスによって引き起こされるのである。

セリエのストレスの定義では生物の身体に何らかの反応を起こすものがストレッサーで、ストレッサーによって生体に生じる反応がストレスである。たとえば、上司からの叱責はストレっサーであり、それに対して起こる不安や怒りの感情、動機や発汗などの身体の反応がストレスである。ストレッサーへの反応を引き起こすための重要な働きをしている臓器は、視床下部ー下垂体ー副腎軸とよばれる。たとえば、ストレッサーの刺激に対して視床下部から、CRFというホルモンが分泌されそれは下垂体を刺激してACTHというホルモンを分泌する。ACTHは血液によって副腎まで運ばれ、副腎からコルチコイドが分泌されそれが血流によって全身に運ばれて抗炎症作用、血糖上昇作用などのストレッサーの影響を緩和させるための身体の反応を引き起こすのである。またCRFには脳に対する直接作用もあり、扁桃核中心体に注入されると不安作用をひきおこす。またPTSDなどのように慢性のストレスにさらされる場合コルチコイドが逆に有害な作用を発揮し海馬の神経細胞を破壊してしまう場合もある。要するに苦痛の感覚はストレッサーによって引き起こされた脳や内分泌組織が複雑に絡み合った身体の反応に関係しているのである。

しかし、このストレッサーに対するストレス反応は刺激ー反応という単純な反射ではなく、ストレッサーを有害な刺激として判断する脳の認知機能がかなり影響しているといわれている。つまり、刺激ー認知ー反応という二段構えの反応がある。おなじ温度のお湯をある人は熱いと感じるし、ある人はちょうど良いと感じるのだ。上司からの叱責も、俺は嫌われていると考えると苦痛になるが、こういう考えもあったのかと新しい発見をしたと考えると苦痛にはならない。この認知機能とストレスの仲介をしている脳の場所が海馬を含む大脳辺縁系と前頭連合野である。

子供が我慢ができないのは、子供の前頭連合野が未発達なためにストレッサーに対するストレス反応が刺激ー反応のように直接的に起こるのに対し、大人の場合は前頭連合野の認知機能が作用して、刺激ー認知ー反応のように、ストレッサーの作用を認知機能がコントロールして反応を制御しているから、我慢強くなるのではないだろうか。

このような生理学的な話を書くつもりはなかったのだが、我慢強さが脳の働きであることを強調したかったのである。宗教的な訓練で苦行は世界共通である。仏陀も最初は苦行を行ったし、禅も一種の苦行である。キリスト教でも鞭打ちの苦行をやっているうちに聖人になった人もいるし、マザー・テレサの生活などは苦行そのものだ。また、ギリシアのストア派も精神と身体の訓練を重視する。これはいずれも苦痛に対する耐性をつけているうちにより自由な人間性を得ることがあることの証拠である。

逆にいじめの問題や虐待の問題など耐え難い苦痛によって人格が破壊されていく現実もある。

単純に考えても苦痛に強い人は、人の非難や迫害にもかかわらず信念を貫き通す自由を獲得することになる。逆に苦痛に脳が破壊されてしまうと苦痛がないときも普通に振舞うことができなくなってしまう。

宗教的ないろいろな行も、苦痛に耐え、周囲の人を愛し、自由な人間として行動できるという人格を獲得するための手段である気がする。とくに人を愛するということと苦痛に耐性があるということは、不可分な結びつきがあるような気がする。

どういう苦痛が人を育て、どういう苦痛が人を破壊するのか、哲学や宗教や神経生理学や心理学の成果を結集して解明する必要がある。苦痛に対する知識が不十分なまま思いつきで自己鍛錬や、教育や、訓練を行うと、悲しい結末を導き出すのではないだろうか。

ちょっと文章が硬くなってしまったが、十分には理解していないことについて書いているからだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-16 19:11 | 幸福論 | Comments(0)

自分は足だ

寒い日に早起きするのは辛い。頭も体も眠っていて重いし、布団から出ると痛いほど寒い。起きないと大変になるのは分かっているが、どうしても起きれない。そんなときは自分の足に主導権を委任してしまうと良い。「自分は足だ」と思うのだ。「自分は足なのだから、体や頭が重くても平気だ。自分は足なんだ。足として動こう。」と思うと、足がひとりでに体と頭を引っ張っていってくれる。足は体や頭と違って、寒さにも強いし、眠気も感じない。ぐうたらな体や頭は放っておいて足が自分というものなんだと思うと不思議に体が動き出すのである。

いらいらしたお客と接するときも「自分は足だ」と思うと不思議に平静でいられる。「足に文句を言ってもね。足は興奮しませんから。」、みたいな感じで楽しめたりする。

白人に向かってインディアンが「お前たちはどこで考えるのか。」と聞いたので、「頭で考える。」と言ったら「それでは白人は皆気違いだ。」と言ったそうだ。「それではお前たちはどこで物を考えるのか。」と聞き返すと、そのインディアンは、自分の胸に手を当てて「ここだ。」と言ったということである。

現代社会は皆が頭でばかり考えるから、変になっているのではないだろうか。もっと体を使って考えないといけないのではないか。
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# by tnomura9 | 2005-05-15 12:48 | 幸福論 | Comments(0)

カウンセリング

不登校などの例をあげるまでもなく、ストレスによる心の病気についてメディアで扱われることが多い。その治療としてまず挙げられるのがカウンセリングである。フロイト以来心の病気は無意識の葛藤から起こるもので、カウンセラーとの対話の中で無意識の心の葛藤に気づきそれをほぐすことで治癒していくというのが一般常識のようになっている。しかし、心の病気を治療するのに自分の心を探索するというやり方が本当に治療になっていくのか疑問に思うようになってきた。

単純に考えると、人間は心の世界と現実の世界の間を行ったり来たりしながら生きている。しかし、「マトリックス」や「セル」などの映画でも分かるように、意識の住家は外界から感覚刺激を通じて脳の中に再構成された仮想現実の世界なのである。現実に目に見えていると思っているものは現実の世界を反映してはいるが、眼や脳のフィルターを通じて情報を選択された脳の中の映像でしかないのである。したがって、この仮想現実が病んでいるときに、その中だけでゆがみを直そうと思っても無理なのではないか思うのだ。

心の中だけを探検しても、材料になるのは心の中の仮想現実に存在しているものばかりである。それをどういじっても仮想世界から抜け出すことはできないのではないだろうか。この仮想世界を再構築するためにはどうしても外界からの刺激が必要ではないのだろうかと思う。心理的操作ばかりでなく、行動療法のように行動を変えていくことや、意識が心の中ばかりに目を向けて、外界の刺激を単に記号としか見ないようになっているのを、現実の世界をありのまま観察するように認知の様式を変える必要があるのではないだろうか。最近は認知行動療法という言葉を聞く。どういう手法を使うのか詳しくは知らないが、そういうアプローチの仕方が必要なのではないかと思う。

エピクロス派の哲学では、人間に不幸をもたらすのは認識のゆがみなので、感覚を通して入ってくる現実のありのままの姿を知るようにしなければならないと言っているそうである。今から2300年も昔の古代ギリシア人が既に最新の心理療法と同じことを実行し効果をあげていたというのであるから驚きである。今の日本では餓えたり、寒さに震えたりなどの身体的な苦痛はあまりないだろう。むしろ、現実に対する認識のゆがみから来る心の痛みのほうが苦痛が大きいのではないだろうか。その責任は子供の心にそういうゆがみを与えてしまう社会の心理的構造、つまり、他者の痛みに対しての無関心、利己主義、弱肉強食主義にある。この認識にゆがみを与える世界を作り出した大人自身が自分の仮想世界を再構築することが一番の治療ではないだろうか。

倫理教育の必要性が言われているが、どんな倫理を教えるのかということに目を瞑ってはならない。戦争や貧困や搾取や詐欺を作り出す大人たちが何の倫理を教えるというのだろう。子供たちを不幸にするような倫理なら教えないほうがましなのである。
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# by tnomura9 | 2005-05-15 08:40 | 幸福論 | Comments(0)

反省

前回、「他の人より優れていなければ幸せにはならない。」というあほな信念が不幸を招いてしまうと書いたときに、それが形作られた原因が、

学校教育と親のせいだ

と口走ってしまったことを反省する。生来怠け者の自分が放っておいて勉強などするわけがない。曲がりなりにも今飯を食っていけているのは、ひとえに親と先生方のお陰である。とくに親にはいろんな援助をうけてきた。親子の行き違いもあり面と向かってはありがとうとは言い辛いが、ありがとう。

よく考えると今生きていられるのも、いろいろな人の助けがあったからこそだ。普段生活しているときはあまり助け合いなどと感じることは少ない。先生も給料を貰っているし、お客様からお金がいただけるのも、こちらからサービスを提供するからだ。しかし、それは助け合いを助け合いと感じさせない程社会のシステムが整っているからなのである。あるいは、助け合いを助け合いと感じることができないほど自分たちの心が鈍くなっているのかもしれない。いずれにせよ、経済のシステムはあっても助け合いのシステムのない社会は想像しただけで、ぞっとする。

昨今、自己責任という言葉が強調されているが、自己責任とはどういう意味なのだろう。何でも自由にやっていいが、助けてやらないよという意味だとすると、ちょっと怖い気がする。日本の経済的発展が、個人の自由と責任だけが強調される助け合いのない社会をもたらすとしたら、日本という国が住みにくい国になってはいかないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-05-14 17:17 | 幸福論 | Comments(0)

凡人の心得

「普通で何が悪い」と啖呵を切ったからには凡人に徹しなければならない。といっても、それしか道はないわけなのだけれど。そこで、凡人の心得なるものを考えてみた。

1. 凡人は金と無縁であれ。
2. 凡人は美女と無縁であれ。
3. 凡人は名声と無縁であれ。
4. 凡人は優れた才能をもつことなかれ。
5. 凡人はこの世に足跡を残すことなかれ。
6. 凡人は他の人の持ち物を欲することなかれ。
7. 凡人は可能な限り周囲の人と平和に暮らすべし。
8. 凡人は自分ができることには可能な限り力を尽くすべし。
   しかし、その成果を求めてはならない。
9. 凡人は休息すべし。
10.須く凡人は心の平安を追求すべし。

昔の人は言っている。

「人間にとって最も良いのは、飲み食いし
 自分の労苦によって魂を満足すること。
 しかしそれも、私の見たところでは
 神の手からいただくもの」

「人間にとって最も幸福なのは、
 喜び楽しんで一生を送ることだ」

「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ
 人が未来について無知であるようにと
 神はこの両者を併せて造られた、と。」

要するに、他人の人生のことを羨んでもどうしようもないのだから、しっかり自分の人生を生きようじゃないかということなのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-14 06:34 | 幸福論 | Comments(0)

普通で何が悪い

自分のブログを読み返してあきれてしまった。「劣等感」、「後悔」、「みじめさ」、「リストラ」、「不幸の方程式」、「今も昔も同じこと」・・・・・絶句。心から根暗だ。こんな男に誰がした?

学校教育と親に決まっている。

「勝負は勝て、勉強は負けるな、強く正しく美しいもののみが尊いのだ。」とできもしないことを押し付けられ、受験では東大、京大、早稲田、慶応と高嶺の花を見せ付けられ、テレビのスイッチをつければ、年収ン億円のタレントがきらびやかな衣装でうまいものを食うのを見ながらカップヌードルをすすり、社会に出れば社長だ、大学教授だと高段で薀蓄をのたまうのを聞かせられたら、うつ病にもなろうというものだ。そんなものが手に入らなければ幸福でないのなら、まわりの皆不幸じゃないか。

普通で何が悪い!!!

肥大化した自意識を捨てよう。これこそが諸悪の根源なのだ。脳の専制政治に反抗しよう。俺は脳ではなく人間なのだ。
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# by tnomura9 | 2005-05-13 20:47 | 幸福論 | Comments(0)

劣等感

劣等感に悩むのは辛い。「あの人はどうしてああいう事をやすやすとやり遂げるのだろう。どうして自分はその10分の1のこともできないのだろう。自分はなんと惨めな人間だろう。どうしてこんな人間に生まれてしまったのだろう」。いったん堂々巡りが始まると自分に苦痛をもたらすような考えがとまらなくなる。

しかし、この苦しみは実は主観的なもので、事実とは関係ないのである。お金を持っていることがすばらしいことだと考えるなら、50万円持っている人は、100万円持っている人を羨み、その100万円持っている人も、1000万円持っている人に劣等感を持つことになる。しかし、いずれの場合も自分が50万円あるいは100万円持っているという事実を無視しているのである。

そこで一念発起して劣等感を克服するために勉強や鍛錬をやり遂げると、今度は優越感という盲目状態にとりつかれてしまう。「俺はこんなこともあんなこともできるのに他の人はできないようだ。なんでこんな簡単なことも分からないのだろう。俺になんでも聞くがいい、俺は万能なのだ」。この時点でこの人は自分ができることとできないことの区別ができなくなってしまっている。劣等感は優越感の裏返しだと昔から言われているがどちらも盲目状態だということに変わりはないのである。

劣等感にしろ、優越感にしろ、それは自分に対するイメージであって実態を見ているわけではない。いずれも脳のニューロンの発火現象にすぎず、それが行動化されない限り実害はない。しかし、それが行動化されるとたいていの場合不都合が発生してしまう。どちらもあまり有効な考えではないのである。

結局、劣等感を克服したり、優越感を抑えようと努力したり、無駄なエネルギーを使うことに意味はないのである。本当に必要なのは、何が実際に起こっていることなのかを知り、適切な行動を自分がとることができるように自己鍛錬することなのである。
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# by tnomura9 | 2005-05-13 07:48 | 幸福論 | Comments(0)

正規分布

日本人の同じ年齢の男性の身長を測って分布図を作ると正規分布という左右対称の山の形になる。平均値の身長の人の数が最も多く、両端は身長の低い人と高い人になるが、それぞれ該当する人数が少なくなってくる。テストの成績、個人の年収などなど人間に関係するいろいろな指標は多かれ少なかれこのような分布をする。要するに、現実には得をする人もいれば損をする人もいる。ひどく得をする人は少ないが、ひどく損をする人も少ない。特に損も得もしていない人は多いということなのである。

もし、勝ったり得をしたりする人だけが幸福なら、幸福な人はごく一部の人だけで、大半の人は幸福ではないということになる。こんな捩れた考え方が学校や社会を支配しているとしたら、これは紛れもない不幸の方程式である。なぜなら、大半の人は不幸になることが論理的に推論できるからである。さらに、人間は平等でなくてはならないという考え方が、この不幸の方程式を輪をかけて悪性なものにする。なぜならば大半の人は勝てないという現実があるのに、それはその人が不当に勝てないのだ、そのひとが負け組みに入っているのは、そのひとの責任かあるいは運命か、とにかく自分は不幸なのだという観念で自分を苦しめなければならなくなるからである。

人並みという言葉はこの不幸の方程式よりはましである。大半の人は平均値の範囲に入っているので、人並みを幸福の基準とすれば、随分幸福な人の数が増えることになる。しかし、その場合人並みにもなれないひとの不幸は倍加してしまう。つまり、幸福な大多数の人並みの人がいるのに自分はその中に入ることができないからである。

自然界や社会のいたるところに正規分布が見られるのは事実である。しかし、その分布に価値付けを行うことで不幸や幸福といった感情が発生してしまう。それは現実である正規分布に対して偏った価値付けをしてしまうからそういうことになるのである。樽の中に住み「犬のディオゲネス」と呼ばれていたギリシアの哲学者をアレクサンドロス大王が訪ねた。大王が「私はアレクサンドロス大王だ」というとディオゲネスは「私は犬のディオゲネスだ」と答えた。大王が「私が怖くないのか」と聞くと「あなたは良い人間か」と聞き返した。大王が「良い人間だ」と言うと「良い人間をどうして恐れる必要があるか」と答えたという。

凡人の我々には、貧しさや、侮蔑や、命の危険すら何とも思わない哲学者の透徹した心境には遠く及ばないだろうが、そのような人には不幸の神々も寄り付けないだろうことは分かる気がする。

そこまで徹底しなくても、人間の多様性ということを考えるだけで随分幸福になれるのではないだろうか。いじめっ子に恐怖していためがねのがり勉君は、テストの発表のときは優越感に浸ることができただろうし、学業がにがての子も運動会では一躍ヒーローになれたのである。勉強も運動も苦手でも工作が得意な子もいるだろう。学校や社会に多様性ということを取り戻すことで息詰まるくらい均質化された現代の不幸を払拭することができるのではないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-05-12 21:57 | 幸福論 | Comments(0)

電気自動車

三菱自動車が電気自動車の開発を公表した。軽自動車クラスで、現段階でも4時間の充電で150km走れるという。最終的には一回の充電で240kmの走行をめざし、販売価格も200万円以下に抑えるということだ。開発費も燃料電池車が1000億円単位なのに対し、電気自動車では100億円単位だという。

電気自動車の実力は慶応大学のELIICAなどで実証済みだ。しかし、自動車メーカーの心臓部であるガソリンエンジンが不要になること、また、ガソリンがいらなくなるので石油業界が大打撃を受ける可能性があることなどから自動車業界では一種のタブーだったようだ。三菱自動車は相継ぐ不祥事による経営困難から掟破りをやってしまったようだが、これを突破口にして一気に電気自動車の開発が進むかもしれない。実際、電気自動車の問題点は、蓄電装置の充電時間と充電容量だけだというところまできている。それについてもEcaSSなど新技術が実用化目前である。ガソリン自動車から電気自動車への流れはもう止められないのではないだろうか。

これからの自動車メーカの対応は、おそらくガソリンエンジンを発電のみに使用するシリアル型のハイブリッド車を普及させるということになるのだろうが、10年後は自動車のほとんどが電気モータで駆動されることになるかもしれない。石油自動車業界も産業構造の転換を避けられなくなるのではないだろうか。ガソリンの需要の減少と電力不足に対応する必要も出てくるかもしれない。

あまり先を見すぎてもうまくいかないだろうが、産業構造の根本的な変化の予兆があるときはそれに対する対応を怠ってはいけないと思う。
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# by tnomura9 | 2005-05-12 06:10 | 話のネタ | Comments(0)

リストラ

リストラという言葉は聞くのも嫌な言葉だ。今までの努力で能力も社会的地位も確立したと思っていた中年のサラリーマンが突然退職を勧められたり、出向させられたり、降格されて現場の営業に回されたりする。家のローンは残っているし、子供たちも受験で金がかかる時期だ。経済的にも心理的にも辛いことだと思う。しかし、一番辛いのは会社から自分が要らない人間だと判断されたと感じなければならないことではないだろうか。この会社のためにいろいろと貢献してきた、この会社がここまで大きくなったことに対して自分もいささか貢献してきたつもりだ。それなのに、何故今になって会社からこのような仕打ちを受けなければならないのだろうかという思いである。

身につまされる話であるが、しかし、事実誤認があるような気がする。ひとつは会社を自分の家族か何かのように考えるところである。この会社は自分の会社だ、自分の家族だ、自分の家なんだという気持ちは大切なことで、この気持ちがあるからこそ社員が一丸となって苦難を乗り越えられるのである。年功序列制はこの家族意識を高めるのに重要な役割を果たしてきたのではないだろうか。年功序列制が実行可能だった時代はその家族意識を十分に支える機能があったと思う。しかし今の時代はそれを許さないほど競争が激しくなってきているのである。

家族関係ではその構成員の力よりも、その構成員がどの位置にいるかということが大切である。家長が優秀な人であればそれは幸せなことだが、そうでなくても、周りががんばって盛り立てることができる。しかし、家長以外の人が能力があっても家族内の序列が変わることはないのである。闘争は主に家の外に対して行われる。内部的なごたごたは序列の不変性によって解決されるのである。封建的であるがしかし内部の混乱によって家が機能しなくなって分解してしまうという危険を回避させてくれるのである。

今はいい意味の封建制が崩壊している時代なのである。会社を自分の家族とは考えられなくなっている。会社が自分を守り、自分がその会社に奉仕するという現代的な封建制が機能しなくなってきている。会社が自分の労働力を提供することによって報酬を得る場所というドライな契約関係に変化しつつあるのである。しかし、これは経営者も勤労者の忠誠を期待できない、勤労者も経営者の保護を期待できないという厳しい環境を作り出してしまう。今の時代に蔓延している何ともいえないイライラの原因である。

これからは自分が誰であるかよりも、自分は何ができるのかが問われる時代なのである。リストラは嫌なものであるが現実なのである。現実に不平を言うより現実に対応して自分を変化させなければならない。そのことの重要さは、山一證券の旧社員で再就職の決まった人と決まらなかった人との差をみれば歴然としている。しかし、この状態が続いていくと会社の求心力がなくなり、空中分解していく危険性があることを、経営者は肝に銘じておかなければならない。
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# by tnomura9 | 2005-05-11 08:23 | 話のネタ | Comments(0)