失敗に学ぶ

畑村洋太郎著 『失敗学のすすめ』 以来、失敗の事例を研究することが盛んになってきているようだが、どうして失敗するのだろうか。また、失敗の事例を研究することがどうして大事なのだろうか。

考えてみると、失敗をしたときは、想定外の事態が発生しているのだ。

将棋の例でも分かるように、考えるということは全ての選択肢について検討することなのである。しかし、全ての選択肢について考えるのは、やはり、将棋で分かるように、簡単に膨大な選択肢が発生するために事実上不可能だ。

したがって、実際にはありえない選択肢については検討しないようにして、枝刈りを行って選択肢を減らすようにしている。しかし、この枝刈りが必ずしも妥当だという保証はないのだ。そのため、ありえないと思われていた事態が発生して、失敗してしまうのである。

このようにありえない事態が発生するのはなぜだろうか。それは、人間の考えの癖が、必要な選択肢を無視してしまうのだ。同じ失敗を何人もの人が経験する場合、そこには、人間の普遍的な考え方の癖が反映しているとも考えられる。失敗事例の検討は、失敗にいたる人間の思考の傾向を見つけようとすることでより有益なものになるのではないだろうか。
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# by tnomura9 | 2005-08-25 07:13 | 考えるということ | Comments(0)

論理哲学論考の文番号

『論理哲学論考』を読んでまずびっくりするのは、各文の先頭に打たれた謎の番号である。藤本隆志/坂井秀寿訳 法政大学出版部の版の解説にも次のように書いてある。

およそ哲学の著作のうち、『論理哲学論考』ほどふう変わりな書は、類を見ないであろう。それは一見したところ、番号を打たれた、たがいに何の脈絡も持たぬアフォリズムの集積にすぎない。


しかし、この番号は各文の階層構造をあらわしていることが最初のページの原註に説明されているのだ。

個々の命題の番号として付けられた小数は、その命題の論理的な重要性、つまりわたしが叙述にさいして強調した度合いを表している。n.1、n.2、n.3、等の命題はn番目の命題に対する註であり、n.m1、n.m2、等の命題はn.m番目の命題に対する註となる、といった具合いである。


つまり、『論考』はスレッド式掲示板の要領で書かれているのだ。ヴィトゲンシュタインは実に几帳面に自分の頭の中にある命題の構造を書き表していたのだ。したがって、『論考』は最初から順に読むべきものでなく著者が明示した命題の構造に沿って読むべきなのである。たとえば主な命題とその一階層だけ下の命題を抜き出してみると次のようになる。

1 世界は、成立している事柄の全体である。
1.1 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。
1.2 世界は事実へと解体する。

2 与えられたことがら、すなわち事実とは、いくつかの事態の成立にほかならぬ。
2.1 われわれは事実の映像をこしらえる。
2.2 映像は描写の論理形式を被写体と共有する。

3 事実の論理的映像が思考である。
3.1 思考は、命題において、知覚可能な表現となる。
3.2 思考の対象に文-記号の要素が対応するような具合に、思考を命題で表現することが出来る。
3.3 命題のみが意味を持つ。命題の脈絡においてのみ、名辞は意義をもつ。
3.4 命題は論理空間の中に、ある位置を指定する。この論理的場の存在は、ひとえに命題の構成要素の存在により-有意味な命題の存在により-保証される。
3.5 適用され、考えらた文-記号が思考である。

4 思考とは意味を持つ命題のことである。
4.1 命題は事態の成立・不成立を述べる。
4.2 命題の意味とは、事態の成立・不成立の可能性とその命題との、一致・不一致にほかならない。
4.3 要素命題の真・偽の可能性は、事態が成立ないし不成立である可能性を意味している。
4.4 命題とは、いくつかの要素命題の真・偽の可能性との、一致・不一致の表現である。
4.5 いまや、最も普遍的な命題形式をかかげることができそうに思える。いいかえれば、どの可能な意味も、それに対する記述に適合する一個のシンボルによって表現でき、さらに記述が適合するどのシンボルも一つの意味を表現することができる、そのように適宜名辞の意義が選択されたなんらかの記号言語について、その命題を述べることができそうにおもえる。(以下略)

5 命題は、要素命題の真理関数である。
5.1 真理関数は、順序をつけて配列できる。
5.2 命題の構造は、たがいに内的関係にある。
5.3 すべての命題は、要素命題に真・偽操作を適用した結果である。(以下略)
5.4 ここにおいて、「論理的対象」「論理的定項」は、(フレーゲやラッセルが考えている意味では)存在しないことが明瞭となる。
5.5 いかなる真理関数も、要素命題に対してNAND操作を連続的に適用した結果である。
5.6 わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。

6 真理関数の一般形式・・(数式省略)・・は命題の一般形式である。
6.1 論理の諸命題は、同語反復(トートロジー)である。
6.2 数学とは、一つの論理的手続きである。数学の命題は等式であり、それゆえ、見せかけの命題である。
6.3 論理の探求とは、あらゆる合法則性の探求を意味する。そして論理の外にあるものはすべて、偶然である。
6.4 全ての命題は等価値である。
6.5 いい表すすべのない答えに対しては、また、問いをいい表わすべを知らぬ。「これが謎だ」といえるものは存在しない。そもそも、ある問いが立てられるものなら、それに答えを与えることもまた可能である。

7 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


これをざっと見ると、ヴィトゲンシュタインの考えのアウトラインが次のようなものではなかったのではないだろうかと思われる。つまり、

世界は命題で記号化できる。世界と命題の体系の間には論理形式についての相同性がある。命題の体系で行われる論理操作はすべて同語反復(トートロジー)である。したがって、命題の真偽は本質的に要素命題の真偽に依存する。要素命題の真偽については、命題の論理的体系は何も語ることが出来ない。したがって、論理は世界の真偽について何も語らない。


ということである。
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# by tnomura9 | 2005-08-13 12:05 | 考えるということ | Comments(2)

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の本文の分かりにくさにもかかわらず、彼が主張したところの結論は分かりやすい。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


という結論で、何を言おうとしたかは、彼自らの説明がある。

6.53 哲学の正しい方法とは本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外なにも語らぬこと。ゆえに、自然科学の命題以外なにも語らぬこと。ゆえに、哲学となんのかかわりももたぬものしか語らぬこと。----- そして他のひとが形而上学的なことがらを語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中で、ある全く意義をもたない記号を使っていると、指摘してやること。この方法はそのひとの意にそぐわないであろうし、かれは哲学を学んでいる気がしないであろうが、にもかかわらず、これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。


つまり、厳正に論理学を用いる限り、形而上学について述べようとすると、意義を持たない命題( 真とも偽とも言えない命題)を仮定として使用せざるを得ないのだということだ。

このことに関連して思い出すのは、「形式的体系は自らの記号で自分の無矛盾性を証明することは不可能である」というゲーデルの不完全性定理である。この定理は、帰納的方法で記号を使って論理体系を構築しようとすると、どうしても自己言及的な命題が発生して、その影響でその体系自身の無矛盾性をその体系の記号では証明できないという定理だ。論理学という言葉を使って世界を記述しようとした場合の限界をあらわしたという意味では『論理哲学論考』の主張と似たものがあるように思える。

ただし、ヴィトゲンシュタインはゲーデルの証明は読んでいないようである。いずれにせよ、絶対確実なものと考えられていた論理学についてその力の及ぼす範囲の限界について述べたものとして、『論理哲学論考』は画期的なものだった。

まあ、論理学は万能ではないんだよとヴィトゲンシュタインが言ったということくらい知っていれば、形而上学を語る友人に、「あなたの主張は根拠の無い命題を必ず含んでいるのだ」と教えて煙に巻くことができる。
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# by tnomura9 | 2005-08-11 07:57 | 考えるということ | Comments(0)

『論理哲学論考』を読む

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』くらい誤解され続けた本はない。なにしろ、ラッセルという巨人が書いた初版への序文が既に誤解だったらしいのだ。

しかし、驚くくらいこの本は愛され続けている。こんな本誰が読むのだろうと思って、ネットで検索するとたくさん出てくる。皆「分からん、分からん」といいながら、この本の言葉を引用したがっているように見える。

なぜだろうと考えたが、結局この本の簡潔で美しい文に魅かれているのではないかと思う。有名な結語の、

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。


なども、めちゃくちゃかっこいい。ポスト構造主義あたりの、わけわかの言葉の氾濫に悩まされた後で、この言葉に触れると、胸がすっとするような気がする。また、語りえぬものとはなんだろうか。存在とか生とか哲学の得意の問題がなぜ語りえぬものなのだろうか。沈黙しなければならないと著者は言っているが、沈黙しながら実際はこれらの形而上の問題に惹き付けられているような気がする。等々色々と連想できて楽しいのだ。

それで、どうせ皆誤解しているのだから、管理人が誤解の上塗りをしてもちっとも構わないのではないかと思うようになった。それで、管理人もこの本に挑戦したいと思う。

その際二つの方法を使うことにした。一つは思い切って単純化すること、具体的には文を解釈するとき、二つの単語を取り出し、その関連性のみを考えるということだ。上の例で言えば、「語りえぬもの」と「沈黙」という言葉を取り出し、その二つの言葉をウィトゲンシュタインがどう結び付けようとしたかを考えるようにした。他のことはとりあえず無視する。

もう一つは、起こりえる可能性を全て考えるようにするということだ。幾何学の証明に出てくる「場合分け」のようなものだ。たとえば、「語りえぬもの」について考えるとき、「語りえるもの」についても考える。世界には「語りえぬもの」と「語りえるもの」の二つしかないから、この両方について考えればそう問題はないだろう。ただし、「自分自身を要素として含まない集合」のようにへそまがりなものもあるので注意しなければならないが。

基礎知識もそうないし、頭も単純なのでそう難しく考えることはできない。それで、上に述べた二つの方法で大胆に誤解の上塗りをしようという魂胆なのだ。なんで、そんなことをするかというと、ネタ切れだし、楽しそうだからだ。
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# by tnomura9 | 2005-08-10 03:10 | 考えるということ | Comments(0)

失われるもの

若い頃は持っていないものを得ようとして

格闘していたが、

今は、

いずれは失われてしまうもののために

奮闘している。
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# by tnomura9 | 2005-08-09 04:17 | 考えるということ | Comments(0)

論理哲学論考

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は古典だ。しかし、これほど分かり難い古典は無い。頻繁に引用されるにもかかわらず、誤解だと思われる引用の方が多いような気がする。その分かり難さゆえに神秘的と称されることもある。

実際は、この本が取り扱っている領域は、現代の記号論理学の言葉できちんと表現できるのではないだろうか。ウィトゲンシュタインがこの本を書いた頃は、フレーゲが記号論理学を考案したばかりの頃で用語の定義や概念が確定していなかった時代なのだ。したがって、現代の記号論理学の専門家がわれわれにも分かるような形でこの本を翻訳してくれれば、ウィトゲンシュタインが神秘的なことを語っているのではなく、論理的に考えるということはどんなことかを徹底的に考え集大成していたのが分かるのではないだろうか。

この世界は、命題で記号化されるが、命題に写されるのは、世界そのものではなく、世界の論理的構造なのである。命題の記号の体系の構造が、世界の構造と対応するのである。したがって、命題の記号体系で表現できないものを記述することは出来ない。驚いたことに論理形式そのものは、記号体系で記述できないのである。たとえば「この命題は真ではない」という命題は真とも偽とも言うことが出来ない。ゲーデルの不完全性定理や、タルスキーの真理概念に見られるように、自己言及のできる記号体系では、真であるという述語を持つとその体系に矛盾が発生してしまうのである。論理的思考、すなわち、命題の記号体系はそれ自身が真であることを語ることが出来ないのだ。また、自己言及ができなければ、当然、自分自身について語ることはできない。

「語りえないものについては、沈黙しなければならない」。これが、全ての形而上学にたいしてのウィトゲンシュタインの答えなのである。
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# by tnomura9 | 2005-08-08 00:00 | 考えるということ | Comments(0)

論理とは何か

論理とは起こりえる可能性を全て検討することだ。

論理的な文章では、全ての可能性を何らかの形式で検討してあるからこそ、確実性を主張することができるのだ。それがなされていない場合、その主張は蓋然的でしかない。

将棋は最初に先手が動かせるコマの数は9個だ、そのおのおのの場合について後手がとりえる手の数がある。したがって、将棋の勝敗が決するまでの全ての可能性を検討するのは不可能だが、将棋の手が論理的であると主張するためにはそれらの全ての可能性がなんらかの形で検討されていなくてはならない。

したがって、将棋は論理的ではないのだ。定跡は部分的には論理的だが、しかし、経験的な手法でしかないのだ。

また、論理的な手法は発見的というより、説明を明確にするための手段だ。論理学的な手法から発見が行われることは少ないだろう。
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# by tnomura9 | 2005-08-07 00:34 | 考えるということ | Comments(0)

布団が吹っ飛んだ

考えるということは、二つのものを結びつけるということだ。

AはBである、AならばBである、AがBをしている、等々思考にいろいろな表現があっても、AとBという二つのものを関連付けるということに変わりはない。それは、人間の脳というものが基本的に連想によって作動しているからではないかと思っている。

だから、人の話を聞くときは、その人がどう二つのものを結び付けているのかに注意しているとよい。「布団が吹っ飛んだ」などのしゃれのようなものでも、二つの異なるものを結びつける面白さを表現しているのだ。
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# by tnomura9 | 2005-08-06 08:03 | 考えるということ | Comments(0)

考えるということ

考えるということは、基本的には直接は関連のなさそうな二つのことがらを結びつけるということだ。たとえば、「夕焼け」ということがらと、「明日は晴れだ」ということがらとを結びつけることである。

この結び付きが思いもかけないものであるとき、創造的な思考になるし、この結び付きの正当性が論理的にも、調査のデータからも納得のいくものであるとき、信頼性のある思考になる。
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# by tnomura9 | 2005-08-05 13:03 | 考えるということ | Comments(0)

考える楽しみ

考えることにはいくつかの楽しみ方がある。

答えを求める楽しみ、

答えが出なくてもあれこれと思いめぐらす楽しみ、

そして

考え方の独創性や構成のすばらしさを鑑賞する楽しみである。
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# by tnomura9 | 2005-08-04 12:14 | 考えるということ | Comments(0)