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帰属関係と素朴集合論

前回の記事は、「集合とは対象の集まりという対象である」という定義から素朴集合論の世界を眺めてみたが、今回はもう一つ別の観点から素朴集合論の世界を眺めてみたい。それは対象と対象の帰属関係という観点から素朴集合の世界を考える方法だ。

集合の世界の対象の間には帰属関係という二項関係が存在する。a ∈ B は対象 a が集合 B に属するという帰属関係を表している。しかし、素朴集合論の世界では集合も一つの対象として扱われるからこの帰属関係は a ∈ b というような対象と対象の間の二項関係と考えることができる。従って素朴集合の世界は対象と対象の間に帰属関係が存在するような対象の集まりと考えられる。

対象 a は b に属するか、属さないかのどちらかなので、帰属関係は2変数関数で {0, 1} の2値をとると考えられる。すなわち、∈ :: {a, b, c, ... } x {a, b, c, ... } -> {0, 1} という型の関数である。この2変数関数の値は次のような演算表で計算することができる。記述を簡単にするために対象が {a, b, c} であるような集まりを考える。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

このとき帰属関係を表す関数を ψとおくと。ψ(a, a) = 0, ψ(a, b) = 0, ψ(a, c) = 0, ψ(b, a) = 1, ... となる。この表で行の対象が列の対象を含んでいるときに 1, 含んでいないときに 0 であるとすると、a の行の数列 0 0 0 は一つの集合を表す、すなわち a = {} である。また、b = {a} であることも分かる。

ここで、この行の対象を固定すると g(x) = ψ(a, x) という対象の1変数の関数を考えることができる。このとき、g(a) = ψ(a, a) = 0, g(b) = ψ(a, b) = 0, g(c) = ψ(a, c) = 0 である。すなわち g(x) は集合 a がどの対象を含んでいるかを示しているのでこれを ga(x) と書くことにする。同様に gb(x) = ψ(b, x), gc(x) = ψ(c, x) も考えることができる。ga(x) = ψ(a, x) のとき a は ga(x) のインデックスであるという。ga(x) が集合を表しているとして、a はその集合のラベルになっているからだ。

さらに対角関数というものも考える ⊿(x) = ψ(x, x) だ。これは上の演算表の対角成分を表すから、⊿(a) = 0, ⊿(b) = 0, ⊿(c) = 0 である。

最後にこの⊿関数と適当な関数 f(x) を使って関数 h(x) を定義する例えば f(0) = 0, f(1) = 1 を使うことにすると、h(x) = f(⊿(x)) = f(ψ(x,x)) だから、h(a) = f(ψ(a,a)) = f(0) = 0。同様に h(b) = 0, h(c) = 0 になる。このとき、h(x) の振る舞いをみると h(x) = ga(x) になることが分かる。

同様に j(0) = 1, j(1) = 0 を使って i(x) = j(⊿(x)) と定義すると i(a) = 1, i(b) = 1, i(c) = 1 となって演算表から作った ga(x), gb(x), gc(x) のどれとも一致しない。

ところで、素朴集合論の世界で対象が全て集合であるものを考える。このとき、全ての対象は他の対象との間の帰属関係があるのでこれを ψ(x, y) とする。ここで f(0) = 1, f(1) = 0 という関数をつかって g0(x) = f(⊿(x)) = f(ψ(x,x)) という関数を定義する。g0 は対象についての1変数関数であるから、インデックスとなる対象 a0 を持っているはずである。すなわち g0(x) = ψ(a0, x) である。このとき次の等式が成立する。

f(ψ(a0, a0)) = g0(a0) = ψ(a0,a0)

これは、ψ(a0, a0) が 関数 f の不動点となり、f を関数適用しても値が変化しないことを示している。

ところが、ψ(a0, a0) は 1 か 0 の値をとるが、f(1) = 0, f(0) = 1 のはずなのでこれは上の結論と矛盾する。なにが行けなかったのかというと、対象の1変数関数に全てインデックスが存在するという仮定が間違っていたのだ。上の具体例でも i(x) と同じ振る舞いをする ga(x), gb(x), gc(x) は存在しない。

実際集合 {a, b, c} とその冪集合との対応表は次のように対称行列にはならない。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

素朴集合論の世界が帰属関係という対称な演算表で表現できる場合、不動点定理は成立しなくてはならない。従って素朴集合論の世界はこのような対称的な演算表では表現できない事がわかる。対象の集合とその冪集合とのボタンの掛け違いは対象の数を無限に増やしたとしても解消できないのだ。

素朴集合論の世界のモデルを対称な演算表ではなく上のような縦長の表を使って構築したとき、論理との整合性を取っていけるのかどうかは興味のあるところだ。




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by tnomura9 | 2017-06-30 01:20 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスと素朴集合論の世界

素朴集合論の定義では「集合とは物のあつまりという物である」として集合を一種の物として扱う。そこで、物としての集合を集めて A としてみる。Aの要素である集合はなにかの物の集まりを代表しているが、それは、他でもない A の部分集合である。これが、素朴集合論の世界である。

有限集合の場合について言えば、N個の物の集合Aがあるとき、その部分集合の数は2^N個ある。したがってA の要素でAの部分集合を代表させようとすると個数が必ず不足するので、Aの部分集合の一部しかAの要素で代表させることはできない。

例えば {a, b, c} の部分集合は {}, {a}, {b}, {c}, {a, b}, {a, c}, {b, c}, {a, b, c} の8個だ。これらは次のような表に表すこともできる。各行は {a, b, c} の部分集合で、列の 1 と 0 はその列の要素が部分集合に含まれているかどうかを表す。

** a b c
0 0 0 0
1 1 0 0
2 0 1 0
3 0 0 1
4 1 1 0
5 1 0 1
6 0 1 1
7 1 1 1

これらの集合を {a, b, c} の要素に対応させると次のような正方行列になる。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

a, b, c に対応させる集合はなんでもいいので、

** a b c
a 0 1 1
b 1 0 0
c 1 0 1

のようなものも考えられる。いずれにせよ {a, b, c} で代表できる部分集合は8個あるうちの、上のような正方行列に収まる3個しかない。{a, b, c} の部分集合を a, b, c で代表させようとしても正方行列の窓から見える3個の部分集合しか扱えないのだ。

これは物の集合の要素数がどのように大きくなっても変わらない。「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の集合の定義では、集合を表す「もの」の数をどのように大きくとっても、その冪集合の一部分としか対応させることができないのだ。

このような状況で、「自分自身を要素として含まない集合の集合」のような自己言及的な定義で集合を定義しようとすると、その集合はうえに述べた正方行列の対応表に載せることができない。対応表の集合をどのように選んでもその集合は対応表の外にしか見つけられないからだ。

たとえば、対応表が

** a b c
a 0 1 1
b 1 0 0
c 1 0 1

の場合「自分自身を要素として含まない集合の集合」は対角線部分を反転させた 1 1 0 すなわち {a, b} になるがこれはどの行の集合とも対角線で異なっている。このような集合はどのような場合も正規行列の対照表からははずれることになる。これが対角線論法の本質なのだ。

集合を物として表現したとき、必然的にその物をふくむ冪集合が発生するが、その量は常に集合の物全体よりは大きいのだ。この関係は集合を1個の「もの」と考える素朴集合論では必ず発生する現象だ。そうして、それは不可解なラッセルのパラドックスが発生する母体になっている。

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by tnomura9 | 2017-06-29 13:57 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

素朴集合論と図書館のパラドックス

素朴集合論でラッセルのパラドックスが起きるのを不思議に感じるのは、素朴集合論の視覚的なイメージがないからだ。しかし、素朴集合論はよく知られた図書館のパラドックスによってうまくイメージ化することができる。

図書館のパラドックスとはラッセルによって発見されたパラドックスだ。図書館の本には自分自身に言及したものとそうでないものがある。ところが、自分自身に言及しない本の目録を作るとその目録自体は目録の内容に含まれるとも含まれないとも言えないというものだ。

もし目録に自分自身が言及されているとその目録は自分自身に言及しているので、目録には記載できないはずだ。また、目録に自分自身が言及されていない場合、目録の性質から目録は自分自身に記載されなくてはならないことになりこれも矛盾する。

この図書館のパラドックスを少し変えると、素朴集合論の端的なイメージモデルになる。そのために少し工夫をする。この図書館の本は全て目録でできているとするのだ。この場合、図書館の1冊の本は1つの集合を表す。1冊の本は集合を表し、その本の中の目録はその集合の外延を表している。これは集合を要素とする有限集合についての、素朴集合論のイメージモデルとなる。

このイメージモデルからいろいろな素朴集合の性質を調べる事ができる。まず集合を一つの「もの」と考えて他の集合の要素とすることができるということだ。つまり、1冊の本は「もの」であり、他の集合の目録に記載できる。すなわち、集合は他の集合の要素となる事ができる。これは「集合とはものの集まりという『もの』である」という素朴集合論の集合の定義をイメージ化したものになる。

この図書館の本には、自分自身の内容に自分自身を登録できる。素朴集合論の集合の定義からは、「自分自身を要素として含む集合」を考えることができる。したがって、図書館の本の中には「自分自身を要素として含む集合」と「自分自身を要素として含まない集合」が存在することが分かる。

しかしながら「自分自身を要素として含まない集合の集合」という本は図書館のパラドックスからこの図書館の蔵書としては作ることができない。図書館の本には明らかに「自分自身を要素として含まない集合」である本のグループがあるのに、それを集めた目録ができないのは不思議に感じるが、しかし、それは図書館の蔵書のなかで完結させようとしたために起こる不都合で、図書館の外にそのような目録を作ることは可能だ。

実は、図書館の蔵書の数を N とすると、図書館の本の集まり(集合)の種類は 2^N となり、到底図書館の本の可能な集合全てを図書館の本として作成するのは不可能なのだ。図書館の蔵書には図書館の本を要素とする集合のごく一部しか目録として作成できない。

しかし、図書館の蔵書の可能な集合の目録を別の図書館につくればそのような制限はない。ただし、その目録は図書館の蔵書ではないためその目録を要素とする集合は作ることができなくなる。

このように、ものの集まりを「もの」として扱うという素朴集合論のアイディアは必然的に自己言及性を免れない。ラッセルのパラドックスはこの自己言及性が集合の定義に使われたためにおきる矛盾なのだ。

たしかに 2^N ある図書館の蔵書の集合を N 冊の本で表現はできないだろうが、組み合わせ次第では「自分自身を要素として含まない集合の集合」を作れるのではないか。なぜそれができないのだろうか。それは、自分自身を要素として含まない集合の集合は、図書館の蔵書の内容によって変化してしまうからだ。

2^N の集合のうち N 個を選んで図書館の蔵書としたとする。そのときには明らかに「自分を要素として含まない集合」の集合はあるが、しかし、その内容は N 個の蔵書の選び方によって変化してしまう。「自分自身を要素として含まない集合の集合」は固定的な集合ではなく、図書館の蔵書として選び出す N 個の蔵書の種類によって常に変化する。つまり集合の定義の自己言及性のため、どの集合を図書館の蔵書として選定しても、そのなかには「自分自身を要素として含まない集合の集合」は作れない仕組みになっている。これがラッセルのパラドックスの正体だ。問題は集合にではなく、集合の定義の仕方にあったのだ。

これらの集合の性質は、図書館の蔵書が有限だから起きるとしても、どのように図書館の蔵書を増やしても成立するので無限の集合の集まりを考えても、ラッセルのパラドックスを解消することはできない。再帰的定義によって無限を捉えるやり方は、その根拠は必ず有限の論議に基づくため、有限集合で論じられる性質は無限集合についても保存される。

素朴集合論は目録を集めた図書館としてイメージ化することができる。また、ラッセルのパラドックスのメカニズムをこのイメージ化によって理解することができる。

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by tnomura9 | 2017-06-28 07:21 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

みうめ・MARIA・217

衣装が美しい、歌が突っ張ってて面白い、ダンスが可愛い。.............. 楽しい。







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by tnomura9 | 2017-06-22 00:34 | ボーカロイド | Comments(0)

自然数の冪集合と連続性

自然数を1から初めて順に右に並べてみると次のようになるだろう。

1,2,3,4,5, ...

この自然数の列の下に適当に 0 と 1 を並べると次のようになる。

1,2,3,4,5, ...,
0,0,1,0,1, ....

上の数列のうち下の列は自然数の冪集合の一つの要素と全単射の関係にある。すなわち、この数列で表される自然数の部分集合は、0がついている列の自然数を含まず、1 がついている列の自然数を含んでいると考えることができる。つまり、この方法で自然数の部分集合をタグづけできることになる。

たとえば集合 {2, 3} については、

0,1,1,0,0,0, ....

という無限数列で表すことができる。また、この数列のタグを左右をひっくり返して2進数 110 (=6) に自然に対応させることもできるのが分かる。

ところが、少し考えると、この無限数列を個として取り出すことは不可能である事がわかる。たとえば、

0.1,1,0,0,0, ...

と4列目からの数が全て 0 の数列は一つの無限数列として特定できて、それを 110 (=6) と対応づけることは自明のように思えるが、この数列と100万桁目が1になる数列と区別するのは数列の100万桁目を見ないと分からない。さらに言うと無限遠で数列の値が 1 にならないという保証はないのだ。つまり、{2, 3} という明らかな有限部分集合も、その他の集合との区別が不可能であることがわかる。無限遠まで 0 が続くというのはあくまでも観察者の仮定が混じっているからいえるのだ。

すなわち、1, 2, 3 のような自然数の要素は個体として認識できるが、自然数の部分集合についてはある仮定を導入しないとそれを個として認めることができない。つまり、自然数の冪集合とは連続体なのである。有限集合はそれを表すある桁数からは全て0であるという仮定においてのみ個として認める事ができるが、その場合においても無限遠で1が出現する集合との差を見つけることはできない。

このように自然数の要素は個として認めることができるが、自然数の冪集合の要素は個として認めることが本質的に不可能であるという定性的な性質が、自然数の集合とその冪集合との全単射ができない本当の理由なのだ。

自然数の部分集合のうち有限集合の全てについては、それに対応する自然数を割り当てる事ができる。それは、有限集合については、上で述べたような仮定によって個として認めることができるからだ。しかし、このような自然数と自然数の有限部分集合との対応関係の表は対称行列にはならない。この対応表の一部の対称な部分についてはどの部分をとってもカントールの定理のような対角線部分を反転させた数列は含まれない。この対応表を無限の対照表について拡大してもこの関係は変わらない。

カントールの定理は、このように有限部分集合と自然数の対応表についての議論から自然数と自然数の冪集合の全単射ができないことを証明するが、自然数の集合と自然集合の冪集合との本当の違いに光をあててはくれない。自然数の全単射が不可能なことは冪集合の性質のごく一部分に光を当てることで証明できるが、自然数の集合の要素には個体が存在し、自然数の冪集合の要素には個体と言えるものが無いという本質的な違いを照らし出してはくれない。

以上の説明で有理数の稠密性にもかかわらず、自然数とその冪集合の全単射ができないことをイメージすることができるのではないかと思う。自然数と実数の違いは、自然数の個体性と実数の連続性という定性的な違いだったのだ。

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by tnomura9 | 2017-06-21 00:30 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合とは何か

自然数の集合は無限集合だ。つまり、自然数の集合の要素数は無限だ。しかし、その要素はどれも有限の値をとる。自然数の集合の要素に無限大はない。

それでは、自然数の集合の冪集合についてはどうだろうか。次のようにすれば自然数のべき集合を網羅的に作ることができる。自然数の数列 1, 2, 3, ... を2進数の1桁目、2桁目、3桁目に対応させる。そうして自然数の部分集合が 1 を要素として含んでいれば2進数の1桁目を 1 とし、含んでいなければ 0 とする。同様に 2 が含まれていれば2桁目の値が1に、2が含まれていなければ2桁目が0というように、2進数の無限桁にいたるまで各桁に0または1を割り当てると、その2進数は任意の自然数のべき集合と全単射の関係になる。ただしべき集合が無限集合の場合2進数も無限になってしまう。

自然数のべき集合についても、自然数の場合と同じように無限の要素を含むがその要素自体は有限集合だと考えることができれば、上のべき集合の列挙の仕方は成り立つ。任意の有限のべき集合はそれに対応する2進数を持ち、任意の2進数が異なっていればそれに対応するべき集合の要素も異なるからだ。

ところが、自然数のべき集合の要素の中には無限集合も存在すると考えられる。たとえば、1を含まず他の全ての自然数を含む集合は無限集合だ。この場合はこの集合に対応する2進数を求めようとするとそれは無限大になってしまう。

しかし、この1を含まず他の全ての自然数を含む集合について考えてみると奇妙な現象に気がつく。1を含まず他の全ての自然数を含む集合を同定してみよう。つまり、1を含まず無限にいたるどこかの自然数を含んでいない集合との区別ができるかどうかである。つまり、ある集合が1と100万を含んでいなければ、これは1を含まず他の自然数を全て含む集合との区別ができる。しかし、自然数を100万まで数え上げないとその差を知ることができない。それでは1と無限大を含まない集合はどうだろうか。無限大とは数ではなく、自然数が次々に拡大していく運動のようなものだから1と無限大を含まない集合と1以外の全ての自然数を含む集合との区別ができない。

つまり1を含まずそれ以外の全ての自然数を含む集合とは、個体として識別することが不可能な集合なのだ。{1}は明らかに他と区別することのできる集合だ。しかし、1を含まずその他の全ての自然数を含む集合とは実は個体として取り出すことが不可能なのである。

1を含まずその他の全ての自然数を含む集合とは、自然数の集合に集合演算である補集合を適用したために発生する集合だ。しかし、自然数の集合に補集合の演算を適用するのは不適切な場合、1を含まずその他の自然数を全て含む集合を考えることはできない。このような集合を自然数のべき集合の要素として認めたうえで自然数の集合との全単射を考えるというのははたして適切な議論だろうかという疑問が沸いてくる。何か大切な要点を無視しているのではないかという印象だ。

数学者ではないので見当はずれな議論かもしれないが、何となく無限集合についての納得がいかない感じが残る。



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by tnomura9 | 2017-06-17 15:29 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

自然数とそのべき集合 対角線論法の秘密

自然数の集合と、自然数の集合のべき集合との全単射ができないのは、カントールの定理で証明されている。しかし、この記事では、カントールの証明がどのような意味を持つのかを考えてみたい。

自然数のべき集合の要素は自然数の集合だ。たとえば A = {2, 4, 7} は自然数のべき集合の要素だ。これらが規則的に列挙できれば自然数のべき集合は自然数と全単射を作ることができるといえる。

これはべき集合の要素を2進数に置き換えることで簡単に列挙することができるように見える。自然数の集合が自然数の1を含んでいれば2進数の1桁目が1含んでいなければ0、同じように自然数の集合が自然数の2を含んでいれば2進数の2桁目が1、含んでいなければ0とする。こうするとべき集合を表す2進数と自然数の間に自然な全単射ができる。

しかし、そううまくはいかない。これは自然数の集合のうちで要素数が有限な集合にしか当てはまらないのだ。要素数が無限な集合の場合は、2進数も無限大になってしまう。

これは無限大という実体が存在するという実無限の考え方からは不都合になるが、自然数はどれだけでも大きくとることができるという可能無限の立場からは不都合ではない。この方法では無限要素の集合を捕まえることはできないが、自然数をどんどん大きくとっていくことによって、どれだけでも無限要素の集合に近いものは作り出すことができるからである。

しかしそう都合よくはいかないことをカントールの定理が証明している。自然数と自然数のべき集合との間に全単射が存在すると仮定すると、a が f(a) の要素として含まれないような自然数 a 全てを集めた集合を B とすると B = f(b) となるような自然数 b が存在する。ところが b が B の要素であれば b は B に含まれないはずなので矛盾するし、b が B の要素ではないと仮定してもやはり矛盾する。したがって、自然数と自然数のべき集合の間には全単射は存在しないことが証明される。


確かに、対角線論法を用いた鮮やかな証明だが、しかし、なぜここで対角線論法を持ち出さなければならなかったのかがよくわからない。また、対角線論法では自然数とべき集合の間にどんな問題があるのかも判然としない。

ここで対角線論法の意義を明らかにするために、有限の自然数とそのべき集合をどのように表現するかを考えてみよう。これは、次のような表を作るのが一番だ。例えば自然数 {1,2,3} の部分集合を次のような表に表してみよう。

* 1 2 3
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

表の列の数字はその列の自然数が部分集合に含まれているかどうかを示している。1ならばその列の自然数が含まれており、0ならば含まれていない。

各行の数列は部分集合を表している。部分集合 a は {1,2,3} のどの要素も含んでいないので a = {} である。同様に d の行は 1 と 2 を含むので、部分集合 d = {1,2} である。これらの集合 a, b, ... h を自然数に対応させた表を作ると次のようになる。

* * 1 2 3
1 a 0 0 0
2 b 1 0 0
3 c 0 1 0
4 d 1 1 0
5 e 0 0 1
6 f 1 0 1
7 g 0 1 1
8 h 1 1 1

この場合 a = f(1), b = f(2), c = f(3), ..., h = f(8) である。

ところで x が f(x) に含まれないような x の集合Bはどのような集合になるだろうか。上の演算表で 4 .. 8 は集合 {1,2,3} の要素ではないので、x が f(x) に含まれるかどうかの議論はできない。明らかに含まれないからだ。したがって x が f(x) に含まれるかどうかというのは上の3行までの a, b, c つまり 1, 2, 3 の正方行列でしか判断できない。

そこで、上の表の3行までをみると1も2も3もそれぞれに対応するa, b, c に含まれないから B = {1,2,3} すなわち上の表の行で表すと 1 1 1 なので B = h である。これに対応する自然数は 8 であるから、{1,2,3} のうちには存在しない。すなわち B = f(y) となるような自然数は {1,2,3} のうちには存在しないのだ。なぜなら B(=h) の行の数は、a, b, c の対角線部分のどれとも異なっているからだ。これを無理に {1,2,3} の中に求めてしまうとカントールの定理のようなパラドックスが発生してしまう。

自然数とそのべき集合の議論を上の表の 3 × 3 の正方行列の部分に限定する限り、自然数の集合とその部分集合との対応関係には、自然数に対応できない部分集合が発生するのが分かる。

この関係は自然数 {1,2,3} の要素を増やして自然数全体の集合を拡充していくことができる。しかし、表の上部の正方行列の部分の性質についての議論は変わらないので無限に自然数を増やしても必ず正方行列の縦の自然数に対応できない部分集合が発生する。

ただし、これは表の冒頭の正方行列に限って議論しているからだ。カントールの対角線論法では暗黙にこの正方行列を仮定しているようだ。

したがって、カントールの定理にも関わらず、長方形の対応表を作っていけば、どれだけでも自然数のべき集合に全単射を作っていくことができる。ただし、自然数を無限大にまで拡張したときにそのような全単射が作れるかどうかは不定である。どちらも無限大になってしまうからだ。

実無限の観点からは、自然数の全体を仮定するので、演算表の横の自然数と縦の自然数の数は一致しなければならないので必然的に正方行列の議論になる。したがって、自然数とそのべき集合の全単射は不可能である。しかし、可能無限の立場からは、全ての自然数が縦と横で一致する必要はないので、長方形の演算表を縦方向にどんどん長くしていくことで、限りなく全単射の範囲を広げてていくことができるのである。

カントールの定理では自然数と自然数のべき集合の全単射を考えると矛盾すると証明するだけで、自然数と自然数のべき集合の濃度がどれくらい違うのかを示してはくれない。可能無限の立場をとっても、縦方向と横方向も無限に大きくしても完全な全単射になるとは論証できないが、可能無限の立場からは実用的にはどれだけでも全単射の範囲を広げることができる。コンピュータで真の実数を扱うことはできないが、どれだけでも精度を上げることができるのと同じだ。もともと、可能無限の考え方からは無限集合の全ての要素という考え方はない。

追記

上の説明ではカントールの定理でなぜパラドックスが発生するかは説明できていないので追加する。自然数の集合 A = (1,2,3} について自然数と A の部分集合の対応関係の関数 g の演算表を次のように定義してみる。3行目が空白なのは理由がある。x には対応する集合に含まれない自然数の集合を作りたいからだ。

この演算表からは c = g(1), d = g(2) であることが分かる。問題は x = g(3) としたときに x が対応する集合に属さない自然数を集めた集合になるように演算表を定めることができるかどうかだ。

* * 1 2 3
1 c 0 1 0
2 d 1 1 0
3 x * * *

この表で対角線の成分に注意するとそれは各行の自然数が対応する集合の要素として含まれているかを示している。この場合 c の対角線部分は 0 だから 1 は c に含まれていない。また、d の対角線部分は 1 だから 2 は対応する d の要素として含まれている。そこで対応する集合に含まれない自然数は 1 で対応する集合に含まれる自然数は 2 である。したがって、x の行の数列は次のようになる

3 x 1 0 *

xの 1 列目と 2 列目は上の2つの業の対角線部部分を反転したものになる。ところで、x の3列目の値は * になっているが、これを完成させれば 3 は自分自身が対応する集合に含まれない自然数の集合に対応することになる。ところが、3 が 1 であるとすると x は 3 を含むことになり定義からこれは 0 でなければならないし、x の3列目が 0 であるとするとそれは 1 でなければならないことになる。つまり、カントールの定理のパラドックスになっている。

このようにカントールの定理が証明したのは、自然数と自然数の部分集合の対応関係が正方行列になるという仮定の上での議論であったことが分かる。つまり、べき集合を作成するための自然数の集合と、べき集合に対応させるための自然数の集合の数が同じであるはずだという暗黙の過程がある。しかし、可能無限の立場からは両者の拡大速度が異なっていても問題ないのである。

無限集合にすべての要素を考えることができないといったのはこの理由からだ。無限集合とは要素を次々に生成していく集合のことであり、要素が生成される速度については制限がない。全単射は、単にある範囲までの要素同士の間で1対1対応が見られるという意味でしかない。そのため自然数とその部分集合である偶数との全単射が可能になるのだ。

カントールの定理には実無限の立場から、この無限集合の拡大の速度が同じになる正方行列を仮定してしまったための推論ではないのだろうか。無限集合にすべての要素を仮定する実無限の考え方は便利な道具ではあるが、可能無限からの無限に全てはないという見方からの検討も必要なのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2017-06-12 18:55 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合の全単射

無限集合では集合とその部分集合の全単射を作ることができる。例えば自然数の集合は、その部分集合の偶数の集合と関数 y=2x で全単射となる。どのような偶数2n に対しても自然数 n が対応するから全射で、自然数 n と m が異なるときは偶数 2n と 2m は異なるので単射になるからだ。

しかし、この自分自身の部分集合との全単射が可能であるという無限集合の性質は、満室の無限ホテルに新規の客を受け入れる話と同じで少々胡散臭い感じがする。

例えば、1から10までの整数を考えたときそこに含まれる偶数 2 .. 10 と上の関数で対応するのは 1 .. 5 だけで、6 .. 10 には対応する偶数はない。

n 以下の自然数について言えばそこに含まれる偶数との全単射を作ることができないので、任意の自然数 n 以下の自然数の集合についてはその部分集合である偶数の集合との全単射はない。これは n がどのように大きくなっても成立するから自然数全体の集合について、その部分集合との全単射は作ることができないといえないだろうか。

しかし残念ながらそれは、最大数を持つ自然数の集合については常に成立するが、最大数を持たない自然数全体の集合についても成り立つとは言えない。無限が入り込んだ段階で、おかしなことが起き始めるのだ。

偶数を自然数の部分集合と考えると、自然数と偶数の全単射に疑問を感じる。だが、偶数を自然数の部分集合と考えず、これは自然数とは別の集合だと考えれば、自然数と偶数の全単射は自然にイメージすることができる。自然数 1, 2 ... と偶数 2, 4, ... を並べて列挙すれば自然に 1 -> 2, 2 -> 4, ... という対応関係を理解できるからだ。

つまり、自然数と同じように列挙できる集合については、自然に自然数との全単射を考えることができる。偶数は自然数の部分集合ではあるが、それは無限に列挙できるという性質から自然数との全単射が可能である。この無限に列挙できるという性質は、自然数の再帰的な定義の再帰部分から発生する。自然数と偶数はその再帰的定義に整合が見られるのだ。

前回の記事で、無限集合には全てという概念を当てはめるのには少々問題があると言ったが、それは無限集合の定義が生成的な定義であるということから来ている。無限集合の全単射は有限集合の全単射とは異なり、無限集合どうしの生成規則の整合性を利用しているからだ。

無限集合の不可解な性質が、その生成的な定義からくると考えれば、自分の部分集合と自分自身との全単射が存在するなどという納得できない性質も理解できるが、それであれば、無限集合とその冪集合の全単射がどうしてできないのかという次の疑問が湧いてくる。しかし、それは次の記事で議論することにする。


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by tnomura9 | 2017-06-11 21:16 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合ではすべての要素を考えることはできない

無限集合に関してヒルベルトの無限ホテルのパラドックスというものがある。

無限に部屋を持つホテルが満室の時、新たな客を受け入れられるというパラドックスだ。新たな客を1号室にいれ、1号室の客を2号室に、2号室の客を3号室にという操作を無限に行えば新たな客を受け入れることができる。満室(これ以上は客を受け入れられない)にも関わらず、上の手順で新規の客を受け入れることができる。これが満室なら新たな客は受け入れられないという直感に反するためパラドックスと呼ばれている。

これについては、しかし、無限に部屋を持つホテルは決して満室にならないという解釈もできる。

満室にはならないのなら、新たな客を受け入れてもパラドックスにはならない。ところが、そうなると、無限集合の全ての要素についてという議論ができなくなってしまう。つまり無限集合では、有限集合と異なりその集合の全てのメンバーに関する議論ができなくなってしまう。自然数の要素全てについてこうこうこういう性質があるという議論をしたいのに、自然数の全てなんてないよと言ってしまうと甚だ具合が悪い。それで、無限に部屋を持つホテルには無限集合独特の性質があるのだ、それが単にパラドックスに見えているだけだという議論になるのだろう。

ペアノの公理では、

1)0は自然数である。
2)a が自然数ならその後者(a+1のこと)も自然数である。

という再帰的定義で自然数を定義しているが、これは全ての自然数を定義してはいない。荒っぽい議論になるが、仮にすべての自然数を要素とする集合があったとする。自然数には大小関係があるから、その中で最大の自然数が存在するはずだ。すべての自然数を集めたのだから。しかしその最大数を m とするとベアノの定義で m+1 も自然数でなければならないはずで、これは矛盾となる。したがって上の定義による自然数全てからなる集合は存在しない。

推論が間違っているのかもしれないが、無限集合にはそれに含まれるすべての要素の集合を考えることはできないと考えるほうが自然なような気がする。

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by tnomura9 | 2017-06-05 13:41 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

水行10日

魏志倭人伝では邪馬台国の位置を(伊都国から)水行10日、陸行1月と記している。しかし、水行10日がどれくらいの航行距離なのかは、当時の船の復元がなければ推論できないはずだ。それにもかかわらず、邪馬台国の議論には、弥生時代の船の航行速度についての議論がないような気がする。

弥生時代の準構造船の復元例は、現在2つあるが、いずれも古墳から出土した舟型埴輪を元にしている。準構造線の部材の発掘がされていなかったからだ。しかし、近年の発掘調査では、弥生時代の準構造線の部材が次々と発掘されている。いままでに見つからなかったのは、それらの部材が再利用されて井戸枠などに使われていたからだ。


これらをもとに復元された船の性能がどれほどのものであったかは興味あることだ。舟形埴輪をもとに大阪市が復元したなみはやは船体が重く、波にも弱かったので実用性がなかったとのことだが、丸木舟部分の船体の厚さが10㎝以上もありそうだ。これに比べ久宝寺遺跡出土の準構造船の船底部分の丸木舟の船体の厚さは最大でも3㎝で、また舷側版の厚さも薄い。走行性能も波に対する安定性もかなり違っていたのではないだろうか。弥生時代の準構造船の性能を知るためには、どうしても出土した実物の部材の情報を基にした復元船が必要な気がする。

また、これらの船の航海は潮の流れの知識と切り離せない。古代の船にどれほどの能力があったのかを知るには、これらの航海技術の復元も欠くことはできない。弥生時代の遺跡から出土した板には15隻の船からなる船団の線刻画が描かれていた。卑弥呼の時代の船にはどんな能力があったのだろうか。少なくとも玄界灘を渡って朝鮮半島との交易を普段から行っていたのだから粗末なものではなかったと考えるのが普通だろう。

古代の船の情報を検索していたら、縄文時代は丸木舟を操って日本全土におよぶ交易路を開拓していた可能性があるのが分かった。それは、産地の限られている黒曜石の国内の分布から推測することができる。3万年も前からだ。


縄文人はさらにこの丸木舟を操って太平洋を横断した可能性もあるということだ。ご先祖様の航海技術には脱帽だ。

これらの古代人の造船や航海の技術は失われたが、その伝統は和船へと引き継がれ発展してきた。


西洋の船が入ってきた跡は和船も消えてしまったが、技術の命脈は見えない形で受け継がれているに違いない。現代のような受験勉強偏重、マイクロコンピュータ依存の状況でこのような文章化されない技術が本当に失われていくのではないかと不安に思ったりする。

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by tnomura9 | 2017-06-01 23:00 | Comments(0)