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自分自身を要素として含む集合と含まない集合

ラッセルのパラドックスを引き起こす集合は、「自分自身を要素として含まない集合の集合」だが、「自分自身を要素として含む集合」という集合もイメージしづらい。ところが、これをソシュールの記号論的に解釈すると意外にすっきりと理解できる。

ソシュールは記号をその記号自体である記号表現とその記号が指し示す記号内容が不可分に結びついたものと定義している。そうして、「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の定義は、記号論的に解釈することができる。すなわち、ものとしての集合は集合の記号表現であり、その集合の外延である物の集まりは集合の記号内容であると定義できる。

こういう風に考えると、記号表現である集合自体がその外延の要素として含まれていることには問題が起きない。また、集合がその外延に含まれていない場合も可能だ。

記号表現である集合自身がその外延に含まれない集合は、再帰的定義にはならないので確定できると思われる。しかし、その場合記号表現としての集合の性質には「自分自身を要素としては含まない」という属性が発生する。そこで、「自分自身を要素として含まない集合」の集合を考えると、記号内容としての外延の要素には自分自身を要素として含まないが、それゆえに記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない集合」という属性を持つことになる。このようなコンフリクトが発生するのは、集合の定義では集合という記号表現とその外延という記号内容が不可分に結びつくためだ。

また、記号表現である集合自身がその外延に含まれるときは、再帰的な定義となるため、その要素である集合自身を確定することができない。つまり、その集合自身は何かという問いには無限再帰のため永遠に答えられない。

こう考えると、素朴集合論にラッセルのパラドックスが発生する原因は、まさに「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義に存在していたことが分かる。また、なぜそういうことが起きてしまうのかは、その集合の定義を記号論的に解釈することによって明確にできる。



What is a set which contains itself as an element

The set that causes Russell's paradox is "a set of sets that does not contain itself as an element", but it is hard to imagine a set of "a set containing itself as an element". However, you can clearly understand it from the point of view of Saussure's semiotics.

Saussure defines a symbol as an indivisible combination of the symbolic expression which is the symbol itself and the symbolic content pointed to by the symbol. Then, the definition of the naive set theory that "a set is an object which is a collection of objects" can be interpreted semiotically. That is, a set itself is a symbolic representation of a set, and a collection of objects that are extensions of the set can be defined as the symbolic content of the set.

Considering this kind of situation, the problem does not arise that the set itself, which is a symbolic representation, is included as an element of its extension. It is also possible if the set is not included in the extension.

A set whose symbol expression is not included in its extension is considered to be definable because it does not become a recursive definition. However, in that case, the property of the set as a symbolic representation has an attribute "not including itself as an element". So, considering the set of "sets that do not include themselves as elements", the set itself (symbolic expression) is not included in its extension (symbolic contents), but the set it self (symbolic expression) is also a set that does not include itself. Such a conflict occurs because of the symbolic expression of a set and the signification it i.e. its extension are inseparably linked.

Conversely, when a set itself, which is a symbolic representation, is included in its extension, it is a recursive definition. So it can not determine its own set itself. In other words, the question of what the group itself is unable to answer forever for infinite recursion.

In this way, it turns out that the cause of Russell's paradox occurring in the naive set theory was exactly in the definition of the set "a set is an object which is a collection of objects". Also, why such a thing happens can be clarified by semiotic interpretation of the definition of that set.


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by tnomura9 | 2016-12-26 12:45 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

826aska

「スター・ウォーズ」メドレー 【 STAR WARS 】 エレクトーン演奏

パイレーツ・オブ・カリビアン 「彼こそが海賊」 Pirates of the Caribbean エレクトーン

【ルパン三世 '78 2002バージョン】 エレクトーン演奏 Lupin the 3rd '78 2002Version

組曲「となりのトトロ」より エレクトーン演奏

【JIN -仁- Main Title】 エレクトーン演奏

【 Twilight In Upper West 】 エレクトーン演奏

スターウォーズのテーマ 生演奏 天才エレクトーン少女



演奏者は15歳の中学生の女の子。演奏の技術が天才か普通かがネットで議論されているが、聞きたいと思わせる演奏を評価したい。それにかわいいが加わって最強だ。


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by tnomura9 | 2016-12-23 15:28 | ボーカロイド | Comments(0)

ラッセルのパラドックスなんて怖くない

集合について初めて学習し始めたとき、そのわかりやすさがうれしかった。

集合を「ものの集まりというもの」としてとらえることで、いろいろなことが分かりやすくなる。和集合や共通部分の意味もよくわかったし、「xは犬である」という術語を満たす x を集めるとそれは集合になるという内包的定義も納得できた。

しかし、参考書を読み進めていくといきなりラッセルのパラドックスが現れて奈落の底に落されたような気持になった。「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまうというのだ。素朴集合論はそのため数学の基礎としては全く使えないことになるというのだ。

便利なものをいろいろ見せられたうえで最後にそれは全部不良品でしたと言われたようで、腹立ちを覚えたことを覚えている。

こう言ってもらえたらよかったのだ。「素朴集合論は有限集合を扱っているうちは矛盾はありません。しかし、無限集合を扱うときと、内包的定義を使って集合を定義するなどの集合の概念の拡張を行うときは注意が必要です。」

これらは有限集合の拡張だ。全く問題のなかった有限集合の集合論を無限集合に拡張したり、内包的定義を導入したときにいろいろと不都合なことが起こる可能性がでてくる。無限集合についてはこの記事では触れない。

また、ラッセルのパラドックスは内包公理の問題であって、無限集合との関係はない。それは、床屋のパラドックスや、図書館目録のパラドックスが有限集合について述べているのにも関わらずパラドックスになってしまうことでもわかる。

ラッセルのパラドックスが発生する原因は、集合がものとしての集合それ自体と集合がさし示す「ものの集まり」としての二つの性質が不可分に結びついているという記号論的な構造にある。

ソシュールの記号論では、記号には記号そのものである記号表現とその記号がさし示す記号の概念である記号内容が不可分に結びついているとする。たとえは交通標識のUターン禁止は標識の図柄としてのUターン禁止の画像とそれがさし示すUターンが禁止されているという記号の意味が不可分に結びついている。

「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義も、この記号論的な観点から分析することができる。つまり、集合には物としての記号表現とその集合が指し示す物の集まりとしての記号内容が不可分に結びついているのだ。

犬の集合には犬の集合という物としての記号表現と、その集合がさし示す犬の集まりが不可分に結びついている。この場合犬の集合という物も物の一つだから犬の集合の要素として含まれるかどうかを考えないといけない。犬の集合の場合犬の集合自体は犬ではないので自分自身の要素としては含まれない。

ところで、犬の集合や、猫の集合のような自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作ってみよう。たとえば犬の集合と猫の集合の集合である。この犬の集合と猫の集合の集合は自分自身がその要素として含まれるだろうか。犬の集合と猫の集合を集めたものが犬の集合と猫の集合の集合なので、それ自身は自分の要素としては含まれない。

ここで、犬の集合と、猫の集合を考えてみよう。これらはどちらも「自分自身を要素として含まない集合だ」また、犬の集合と猫の集合の集合もやはり、「自分自身を要素としては含まない集合の集合」だ。すなわち、「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合は、それがどのような集合であっても自分自身を要素としては含まないにも関わらず、「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。

したがって、「自分自身を要素として含まない集合」をどのように集めて集合を作ったとしても、その集合の記号内容としての集合は、自分自身を要素として含まないにも関わらず、その集合の記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない」という術語を充足してしまう。言い換えると、「自分自身を要素として含まない集合」を全てあつめた集合をこの述語では定義できないということだ。

端的に言うと、述語として全てのものがそれを充足するかしないかを判定できたとしても、その述語による内包的定義で定義できない集合があるということだ。それは集合に集合そのものとしての記号表現と、その集合が表す記号内容としての物のあつまりが不可分に結びついているという記号論的な性質から説明できる。

説明がわかりにくくなってしまったが、要するに集合は集合という記号表現とその集合で表される物の集まりという記号内容から構成されていると考えることがポイントだ。

この観点でラッセルの集合を見ると、自分自身を要素としては含んでいないがそれゆえに「自分自身を要素として含まない集合」であるというその構造が見えてくる。したがって、ラッセルのパラドックスを得体の知れない奇妙な集合と神秘的に捉える必要はなく、記号表現は、記号内容である物の集まりの一員ではないが、それゆえに記号表現がそれらと同じ述語を充足するという物の集まりの構造が見えてくる。

集合は物の集まりという物であるという集合の定義や「自分自身を要素として含まない集合の集合」というラッセルの集合の定義は単純である。したがってそこから発生するパラドックスのメカニズムも上に述べたように至極単純なものなのだ。

ラッセルの集合の構造が上に述べたような分かりやすい単純な構造であるのが分かれば、ラッセルのパラドックスを説明が不可能な神秘的な現象であると考える必要がなくなる。安心して集合を扱っていいのだ。



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by tnomura9 | 2016-12-18 23:49 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

溶融シリコンベースのエネルギー貯蔵システム

バルセロナ工科大学が、エネルギーを溶融したシリコンに熱エネルギーとして蓄える技術を開発した。保温して蓄えた溶融シリコンのエネルギーは、光熱電変換器で直接電気として取り出すため、配管などの周辺の設備がいらず構造が簡単になる。また、変換効率も50%と高効率だ。変動の大きい自然エネルギーを蓄えるための有力な技術になる可能性がある。

この記事を「考えるということ」カテゴリにしたのは訳がある。上のリンクのサイトは英語だが、冒頭の次の部分を Google 翻訳で日本語に翻訳してみた。

Innovative molten silicon-based energy storage system
Researchers from UPM have developed an innovative energy storage system which is able to store up to ten times more than the existing solutions using materials abundant in nature.

A team of researchers from Solar Energy Institute at Universidad Politécnica de Madrid (UPM) are developing a novel system that allows the storage energy in molten silicon which is the most abundant element in the Earth's crust. The system, which has been recently published in the Energy Journal and has patent pending status in the United States, and aims to develop a new generation of low cost solar thermal stations and becoming a innovative storage system of electricity and cogeneration for urban centers.

革新的な溶融シリコンベースのエネルギー貯蔵システム
UPMの研究者は、本質的に豊富な材料を使用して既存のソリューションよりも最大10倍も格納できる革新的なエネルギー貯蔵システムを開発しました。

マドリード大学(UPM)のソーラーエネルギー研究所の研究チームは、地球の地殻中で最も豊富な元素である溶融シリコンの貯蔵エネルギーを可能にする新しいシステムを開発しています。 エネルギージャーナルに最近掲載され、米国で特許出願中のシステムであり、低コストの太陽熱発電所の新世代を開発し、都市中心の電気とコージェネレーションの革新的なストレージシステムになることを目指しています。


こうしておいて日本語で概要を掴んでおけば、読解が随分楽になる。面白い情報のようだが英文なのでいいやと諦めなくてもいい時代になりつつある。

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by tnomura9 | 2016-12-15 08:23 | 考えるということ | Comments(0)

グランドフィナーレ

ツタヤで「グランドフィナーレ」というDVDをさした考えもなく借りてきて観た。親友の年老いた作曲家と映画監督が超豪華な山間のリゾート・ホテルでの滞在を楽しむというドラマだった。素晴らしい映像美だったが、見終わったあと老いるということの底知れないさみしさだけが残った。

若いときに成功し名声を博した二人だが、すでに人生の黄昏にある。実力も気力もまだまだと自負しながらも、周囲の若者の人生を謳歌するさまに疎外感を感じざるをえない。若者はその苦しみにさえリアリティがあるが、彼らにはそれすら乏しくなっている。豪華な施設も彼らの衰えを救ってはくれない。概念的に捉えた老年には、すさまじいまでの虚無感が伴うものだと思った。

救いがたい気分でチャンネルをひねったら。高齢の森林作業員のドキュメンタリーをやっていた。木を植えてから30年後の木材を想定して地道な剪定を続けるのだそうだ。山の中の道路も100年先の伐採を考えてその人が道路の設計をしたという。電動車椅子が必要な状態だが、剪定のときは立ち上がって指揮をする。大地と繋がったこの人の命はその死後もずっと続いていくのだろうと感じさせられた。

自分で経験しないと分からないのが晩年だ。自分のはどんな晩年になるのだろう。

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by tnomura9 | 2016-12-11 12:32 | 話のネタ | Comments(0)

逃げるは恥だが役に立つ

最近、TBSの火曜日午後10時のドラマの「逃げるは恥だが役に立つ」を面白がって見ている。原作の方も Kindle でダウンロードして読んだので熱狂的なファンにはいるのだろう。

ラブコメに感動するという年ではないので興味はもっぱら話の設定や、会話の内容だ。「えっ」というような意表をついた展開が心地よい。驚いた後には、なにか考えさせられてしまう。グリコのアーモンドキャラメルのようなものだ。もっとも、「一粒で2度おいしい」というアーモンドキャラメルのキャッチフレーズを知っている人は少ないと思うが。

ドラマもあと2話で終わるし、原作もあと1冊で完了するらしい。楽しみが一つ減るが、最近になくドラマを面白いと思ったのが楽しかった。

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by tnomura9 | 2016-12-11 12:04 | 話のネタ | Comments(0)

Russell's Paradox

1. Russell's Paradox

The paradox of Russell is a paradox about naive set theory discovered by UK philosopher and mathematician Bertrand Russell. that is,

"The set of all sets that are not members of themselves can neither be a member of itself nor be not."

Consider this set as R, if R does not contain itself, R must be a member of R as R is "a set that is not a member of itself". On the other hand, if R contains R as an element, this must satisfy the intensional definition "a set that is not a member of itself", so R must not contain R as an element. In either case a paradox will occur.

Since sets should be divided into either sets that contain themselves or sets that do not contain themselves, if a paradox occurs in one of them, the method of defining a set with an intensional definition can not be used. Furthermore, since most of the sets seems not to contain themselves, the occurrence of a paradox in the collection of them will shake the foundation of set theory.

By definition that "a set" is considered as "an object" of collections of objects. And according to the comprehension axiom, a set can be defined by collecting objects that satisfy the predicate. But, the unmistakable paradox is hidden under these definition. You can imagine the hurdles of logic scholars and mathematicians. Even so, what is the secret mechanism of the paradox?

2. Mechanism of Russell's paradox

Let's see what mechanism causes Russell's paradox.

Russell's set is "a collection of all the sets that do not contain themselves". But before collect all of such sets, let's consider collect a suitable number of "sets that do not contain themselves" rather than all, and name the set R ' . For example, "the collection of dogs" is not a member of the collection of dogs, therefore, "the set of dogs" is "a set that does not contain itself". You can easily compose R' with those sets like "a set of dogs" if you do not consider collection of all of them.

And then, let us consider whether R ' itself is contained R'. From the intensional definition it is clear that R ' is not a member of R'. This is because if R' is contained in R' as an element, R' as an element becomes a set that contains itself. Therefore, R' never contains R' itself. However, for that matter, R' satisfies the predicate "a set that does not contain itself".

In the case of such a set, however, it is not a problem because the intensional definition is a collection of "suitable number of the sets which do not contain themselves". This set can exist stably. However, no matter what kind of R' is made, R' satisfies the predicate "a set that does not contain itself" in spite of R' does not contain R'. Therefore, we can not make the set that collects ALL the sets that do not contain themselves such as Russell's set. That means Russell's set cannot exist as "a set". Such collection should be thought as "a class".

In Russell's paradox it happened because such a collection was thought as a set. From that point of view, it is not permissible to have a collection that collects sets that do not contain themselves and not a member of itself at the same time. However, paradoxes will not occur if such a collection is classified as a class and distinguished from a set.

The point is, considering a set as an object is the essential cause of paradox. If you think about a set is an object, collection of objects it denotes must be distinguished from itself. In Saussure's semiotics, the sign is the inseparable combination of the signifier and the signified, and a set itself is apparently a signifier and its extension is a signified. From this point of view, you can easily imagine what is a set that contain itself and what is a set that does not contain itself. Both case can be occur in that model, although, any set which collect the sets that does not contain themselves never be a member of itself.


前回の記事で Google 翻訳で英作文したのが面白かったのでもう1回やってみた。元の原稿は過去記事の「ラッセルのパラドックスの謎が解けた」から取ったが、最後の結論の部分は Google 翻訳に対話的に日本語の文章を入力しながら作成した。その際、意味のある英文が出てくるまで日本語の文章の方を修正した。日本語の文章を短い明確な表現に変えると、翻訳された文章も英文らしい表現になっていくのが面白かった。

アイディアを英文でアップすれば、海外の人も読んでくれるかもしれない。機械翻訳が発展すれば、そんな夢のような時代がやってくるのだろう。

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by tnomura9 | 2016-12-09 02:16 | 考えるということ | Comments(0)

Semiotic set theory

Semiotic set theory

I think that it is easy to understand by handling the set semantically, because the intricacies of Russell's paradox in simple set theory seems to be easy to understand.

Semiotics is the concept of linguistics initiated by Saussure. The fundamental way of thinking is to consider the symbol as signifi- cant expression (signifiant) and symbolic content (sinifie) inseparably linked.

For example, the word "snow" is composed of the symbol "snow" and white crystals descending from the sky it points to. The term "snow" (symbol) is considered to be inseparably associated with the symbol itself (symbolic expression) and snow or concept (symbolic content) indicated by the symbol.

As the definition of a set in simple set theory is "a set is a collection of things", we can look at it as a semiotic point in the same way as the "snow". For the set A, the sign "set A" is consisted of the sign "A" itself as a symbolic expression and the group of things that set A is pointing to, that is, {a 1, a 2, ..., ak} as a symbolic content.

By considering a set as a semiotic symbol in this way it is possible to think separately from a set (symbolic expression) as a thing and a set (symbolic content) as a group of things that it points to.

Now, to simplify the discussion here, let's consider a collection {a 0, a 1, a 2, ..., an} consisting only of a set (symbolic expression). Then assume that each set points to the collection {ai, aj, ..., ak} of one of those sets (symbol contents).

In order to describe which element of this collection of sets (symbolic representation) points to which subset of the collection, we can create a n x n in table of the elements. In that table, the elements a 0, a 1, ..., an are arranged horizontally and vertically. Then In the row of the vertically aligned elements 1 is put when the element (set) contains an element corresponding to the horrizontally arranged a 0, a 1, a 2, ..., and 0 if not included as an element, at the intersection of the row and column of the table. In other words, the columns of 1 and 0 in the ai row indicate which kind of elements the set ai (symbolic representation) consists of (symbol contents).

** a 0, a 1, a 2, ..., an
a0 0, 1, 0, ..., 1
a1 1, 1, 0, ..., 0
a3 0, 0, 1, ..., 1
....

an 0, 0, 1, ..., 1

In this way, the correspondence relationship between the set ai (symbolic representation) and the group of elements (symbol contents) represented by the set ai can be described as a row of 1 and 0 in line ai. In other words, whether set ai contains set ak as an element can be determined by whether or not the number of ak columns in line ai is 1.

After that, examine the diagonal part of this table. 1 or 0 described there indicates whether the set contains itself as an element or not. For example, if the value of ai row ai column is 1, set ai includes itself as an element, and if the value of ak row ak column is 0, set ak does not include itself as an element.

Therefore, if you collect the sets ak, ..., am whose diagonal values ​​are 0, you can create sets of sets that do not contain itself as an element. Let's call it ar (symbolic expression) for borrowing. What happens to the line of 1 and 0 of the ar row corresponding to the set {ak, ..., am} represented by ar (symbolic representation)? Clearly it turns out that if the diagonal value of the table is 0, it is 1 and if 1 is 0.

Well, what matches the sequence of this ar line is in a 0, ..., an rows in the table? Obviously it is impossible. Because the sequence of ar rows is the inverted value of the diagonal, so it is different for every diagonal part of any ai.

Therefore, even though there is a group of sets that do not contain themselves as elements in the set {a 0, ..., an}, the symbolic expression of it can not exist in the table which describes the correspondence of the sets and its contents.

For this reason, despite the fact that there is a group of sets that do not make themselves an element, a set ar whose symbolic content is a symbol can not be found in a 0, ..., an. In other words, there can not be a symbolic expression named set ar with those gatherings as symbolic contents. If you are going to instruct such a gathering, it should be called a class, not a set. In Russell's paradox, the paradox was deduced because we thought of a set that do not exist like this as a set.

In this way, by considering a set semiotically as a symbol composed of symbolic representations (signifiers) and symbolic contents (signifiers), it is important to clarify the reasons for classes such as those found in Russell's paradox it can.

From the above discussion, the set of Russell's "set of sets that do not contain itself as an element" can not be a set in any case, and that group will become a class, but the classes includes Russell's class are not there anything else? The answer is understood by thinking as follows.

Obviously, there are actually 2 ^ n collections whose elements are set a 0, a 1, ... an as a symbolic representation. However, there are only n sets that can be considered as symbolic expressions. All other gatherings can not be represented as a set, and they all become classes. The difference between the number of sets and the number of classes increases as the set of symbolic expressions increases. There will be far more classes at any point, even if you set the set as a symbolic expression infinitely large.

In this way, it is easier to understand the origin of the Russell's paradox and the existence of the class by grasping the set semiotically, that is, consider a set as a composition of a symbolic expression and the extension as its symbolic contents.

いきなり英文の記事で不審に思われたかもしれないが、過去記事の「記号論的集合論」を Google 翻訳にかけてみただけだ。明らかに変なところは手直ししてみたが Japanish になってしまったかもしれない。

シニフィエとかシニフィアンなども翻訳されているのに驚いた。ざっと読んだが英文らしくみえるし、知らない単語もたくさんある。おそらく変な英文なのだろうが、そのレベルでも管理人に書けと言われても書けない。

英文で論文やマニュアルを書いたり、単に英作文の勉強をするのにも Google 翻訳は便利なのではないだろうか。人工知能には期待できそうだ。

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by tnomura9 | 2016-12-05 03:25 | 考えるということ | Comments(0)

Googld 翻訳の実力

Neural Networks and Deep Learning

の扉の文章を Google 翻訳で訳してみた。

Neural Networks and Deep Learning is a free online book. The book will teach you about:

Neural networks, a beautiful biologically-inspired programming paradigm which enables a computer to learn from observational data
Deep learning, a powerful set of techniques for learning in neural networks

Neural networks and deep learning currently provide the best solutions to many problems in image recognition, speech recognition, and natural language processing. This book will teach you many of the core concepts behind neural networks and deep learning.

For more details about the approach taken in the book, see here. Or you can jump directly to Chapter 1 and get started.

ニューラルネットワークとディープラーニングは無料のオンラインブックです。 この本は次のことをあなたに教えるでしょう:

ニューラルネットワークについて。それは、コンピュータが観測データから学習することを可能にする、美しい、生物学にインスパイアされた、プログラミングパラダイムです。
深層学習について。それは、ニューラルネットワークの学習のための強力な技術セットです。

ニューラルネットワークと深層学習は、現在、画像認識、音声認識、および自然言語処理における多くの問題に対する最良の解決策を提供しています。 この本は、ニューラルネットワークと深層学習の背後にある多くの核心概念を教えてくれるでしょう。

本書で取り上げているアプローチの詳細については、こちらを参照してください。 あるいは、第1章に直接ジャンプして開始することもできます。


訳文には少し手を入れたが、一から訳すよりは随分と手間が省ける。人工知能による機械翻訳にはかなり期待している。

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by tnomura9 | 2016-12-03 14:13 | 考えるということ | Comments(0)

Newral networks and deep learning

Michael Nielsen 氏の 2016 年のネットブック

Neural networks and deep learning

ニューラルネットワークと深層学習の教科書らしい。

後で読む。

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by tnomura9 | 2016-12-02 19:36 | 考えるということ | Comments(0)