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命題論理(5)

5.含意を含むトートロジーは使い勝手がいい

トートロジーは原子命題の真偽にかかわらず常に真となる命題だ。しかしそれは A ∨ ¬A のような同語反復で全ての場合に真であるかもしれないが、それ自身が何かを語るというものでもない。どうして、論理学でこのようなトートロジーが重視されるのだろうか。

確かに、トートロジーはそれ単独で何かを語るというような命題ではない。それはヴィトゲンシュタインが「語りえぬものに対しては沈黙しなければならない」と述べた通りである。論理学の真理とは同語反復以外の何物でもない。

しかし、トートロジーの命題は三段論法による推論に使われた時にその真価を発揮する。三段論法(modus ponens) とは既知の定理から新しい定理を論証する時に使われる論法である。それは、A -> B という命題が真で、命題 A が真であれば、命題 B は真であるという主張だ。この A -> B という含意を含む命題にトートロジーが採用されれば、どのような場合でも命題 A が真ならば、命題 B は真である。さらに、命題 A がトートロジーであれば命題 B もトートロジーとなる。なぜなら、これらの命題に含まれる原子命題の真偽がどのようなものであろうとトートロジーの命題の真理値は常に真であるからである。

このことは、トートロジーからトートロジーを導出して得られる定理は、個々の原子命題の真偽によらず、常に真であることを意味している。個々の命題の真偽に依存しない純粋に論理固有の真理がトートロジーなのである。

三段論法と組み合わされたトートロジーの威力を見るために、一つ実例を挙げてみる。

ウカシェビッチの公理である次の命題はトートロジーだ。

A -> (B -> A)

この命題の A や B にはどのような命題を当てはめてもトートロジーの常に真であるという性質は変わらない。A や B にどのような命題を当てはめても、それらの命題の真理値は T か F かのどちらかであるから。A と B が原子命題の場合と同じように真理値表を作ることができ、その結果はトートロジーとなる。

そこで B に (A -> A) という命題を当てはめてみる。この命題がどのような真理値をとるのかは明らかではないが、B にはどのような命題を当てはめても良いので (A -> A) でも構わないわけだ。

A -> ((A -> A) -> A) .... (1)

明らかにこの命題はトートロジーである。すなわちその中に含まれるどのような原子命題の真偽にかかわらず、この命題の真理値は常に真だ。

ウカシェビッチの公理にはもう一つ別の公理がある。そのトートロジーは、次のようになる。

(A -> (B -> C)) -> ((A -> B) -> (A -> C))

B, C にはどのような命題を当てはめても良いので B には (A -> A)、C には A を当てはめる。するとこの命題は次のようになる。

(A -> ((A -> A) -> A)) -> ((A -> (A -> A) -> (A -> A)) ... (2)

ここで、トートロジー (2) の含意と トートロジー (1) とを比べてみると、(2) の含意の前項が (1) と同じ命題であることがわかる。(1) はトートロジーなので常に真である。従って、三段論法によって、(2) の後項は命題に含まれる原子命題の真偽よらず真である。すなわち、トートロジーである。

(A -> (A -> A)) -> (A -> A)

さらにこの命題の前項は (A -> (B -> A)) の B に A を当てはめたものなのでこれもトートロジーである。従って、三段論法により次の命題はトートロジーとなる。

A -> A

この含意の命題は命題 A の真偽によらず真になる。

古代ギリシアの哲学者たちは、現実世界のあり方にかかわらず真であるものこそが真理であると考え、それを追い求めた。トートロジーは原子命題の真偽によらず常に真なので、このような哲学者の追い求めた真理を現わしていると言えるかもしれない。しかし、現実世界から独立した論理的な真理は、もはや現実世界とは関わりがない。「語りえぬものに対しては、沈黙しないといけない」のである。

しかし、このようなトートロジーに含意が含まれている時、含意の前項に与えられる命題によって、多彩な理論が出現する。論理の世界に様々な理論の公理を導入することによって、多様な理論の体系が構築されることになる。論理の真理とは、このような現実世界を含む多様な理論に、論理的な骨組みを提供することがその役目なのである。


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by tnomura9 | 2016-07-31 17:19 | 考えるということ | Comments(0)

命題論理(4)

4. Haskell による真理値計算プログラム

真理値表の計算は機械的なので、コンピュータにやらせることができると思いついた。そこで、Haskell で計算させてみたら簡単に ghci で計算できた。

Haskell にはビルトインの論理演算子として、not, &&, || が含まれている。

Prelude> not True

False

Prelude> True && False

False

Prelude> True || False

True


含意はないので自前で定義した。


Prelude> let imply a b = (not a) || b

Prelude> True `imply` False

False


真理値表の計算値は内包表記を使う。


Prelude> [a `imply` b | a <- [True,False], b <- [True, False]]

[True,False,True,True]


これはつぎのような真理値表の結果と同じだ。


A | B | A -> B

T | T | T

T | F | F

F | T | T

F | F | T


これでトートロジーの確認が楽になった。


Prelude> [a `imply` (b `imply` a)| a <-[True, False], b <- [True, False]]

[True,True,True,True]


これは A -> (B -> A) がトートロジーであることを示している。


このような命題の真理値を求める関数 V を真理値関数というが、『数学基礎論講義』では次のように定義してある。


(1) A が原子命題のとき、V(A) = v(A) ... ただし v(A) は原始命題 A に真理値を割り当てる関数。

(2) V(¬A) = T ⇔ V(A) = F

(3) V(A ∧ B) = T ⇔ V(A) = T かつ V(B) = T

(4) V(A ∨ B) = T ⇔ V(A) = T または V(B) = T

(5) V(A -> B) = T ⇔ V(A) = F または V(B) = T


数学的な表現になっているが、上のプログラムと同じ結果になる。真理関数をこういう形で定義すると、毎回真理表を作らなくても真理関数 V によって命題の真偽を調べることができる。真理値表を作成する場合も、真理値関数を利用する場合も、いずれの場合も命題の構造に対して機械的に真理値を計算できる。命題の真理値がその構造から機械的に求められるというのが重要である。


また、命題論理を拡張した述語論理では、量化記号を含む命題を扱うが、量化記号を含む命題の場合、有限集合を対象とした命題は有限個の命題論理に分解できるが、無限集合を対象とした命題は無限個の命題に分解されるため、直接に真理表を作成できない。このような場合でも上の真理関数を拡張して量化記号を真理関数に導入することによって、述語命題の真理値を計算できる。


命題論理の場合も述語論理の場合も命題の真理値はその構造から機械的に計算できるということが重要だ。


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by tnomura9 | 2016-07-31 08:51 | 考えるということ | Comments(0)

命題論理(3)

3.命題論理のすべての命題は2つの論理記号、¬ と -> だけで記述できる

原子命題から命題を作るために命題論理では、否定記号、連言記号、選言記号、含意の4つの記号を使うが、これらの記号は他の論理記号で置き換えることができる。最終的には2つの論理記号があれば、命題論理のすべての命題が記述できることが分かっている。

たとえば、A -> B の真理値表は次のようになる。

A | B | A -> B
T | T | T
T | F | F
F | T | T
F | F | T

また、¬A ∨ B の真理値表は次のようになる。

A | B | ¬A | ¬A ∨ B
T | T | F | T
T | F | F | F
F | T | T | T
F | F | T | T

これらの二つの真理値表の結果は同じだ。つまり、論理記号の含意記号 -> は否定記号 ¬ と選言記号 ∨に置き換えることができる。また、A ∨ B の真理値表を ¬A -> B の真理値表と比較すると、選言記号を否定記号と含意記号に置き換えることができるのが分かる。

A | B | A ∨ B
T | T | T
T | F | T
F | T | T
F | F | F

A | B | ¬A | ¬A -> B
T | T | F | T
T | F | F | T
F | T | T | T
F | F | T | F

また、次の真理値表から A ∧ B は ¬(A -> ¬B) で置き換えることができることが分かる。

A | B | A ∧ B
T | T | T
T | F | F
F | T | F
F | F | F

A | B | ¬B | A -> ¬B | ¬(A -> ¬B)
T | T | F | F | T
T | F | T | T | F
F | T | F | T | F
F | F | T | T | F

結局、否定記号、連言記号、選言記号、含意記号の4つの論理記号のうち、否定記号と含意記号の二つだけで命題論理のすべての命題を表記できることが分かる。

それぞれの論理記号には直感的な意味があるので、わざわざ2つの記号に集約するために複雑な表現を取らなくてもいいように思えるが、論理記号を減らすことによって、公理から定理を導くための証明が簡単になる。ウカシェビッチの公理系では、公理は次の3つの命題で、推論規則に三段論法だけを使い、全ての常に真な命題(すなわち定理)を証明することができる。

P1. A -> (B -> A)
P2. (A -> (B -> C)) -> ((A -> B) -> (A -> C))
P3. (¬B -> ¬A) -> (A -> B)

三段論法とは A -> B が定理の時、Aが定理であれば B は定理であるという論証である。命題論理の命題は多様なものが考えられるが、そのうち真理値が常に真である定理はすべて上の3つの公理と三段論法だけで論証できるとなると、命題論理の構造が実にシンプルに見えてくる。

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by tnomura9 | 2016-07-30 14:29 | 考えるということ | Comments(0)

命題論理(2)

2.原子命題と論理記号で(分子)命題を作る

「雪は白い」のような一言で言い表せる命題は原子命題だ。原子命題は論理記号でつなぎ合わせることによって「夕方の空が赤いならば明日は晴れだ」などのような複合的な命題を作ることができる。二つを区別するときは要素的な命題は「原子命題」論理記号を使って原子命題を組み合わせたものは「命題」と呼ぶ。

論理記号には次の6つがある。

否定記号  ¬ (... でない)
連言記号 ∧ (かつ)
選言記号 ∨ (または)
含意記号 -> (ならば)
全称記号 ∀ (任意の ... について)
存在記号 ∃ (ある ... について)

最後の2つは述語論理で使われるので、この記事には関係ない。

「雪は白い」のような原子命題 A は真または偽の真理値をとる。ふつう真理値の真は T 偽は F であらわす。原子命題の真理値を求める関数を v とすると A が真なら、v(A) = T である。A が偽であれば v(A) = F だ。

これはまた、変数 A が T または F の値を持つと考えてもよい。さらに、Aと書いたカードの裏に T と書いたり F と書いたりすると考えてもよい。論理学も抽象化していくとだんだんゲームやおもちゃのように見えてくる。

命題に論理記号をつけると新しい命題を作ることができる。たとえば命題 A が「雪は白い」という命題だったとすると、否定記号を付加した ¬A は「雪は白くはない」という新しい命題である。この新しい命題も真理値を持つ。しかし、この(複合)命題 ¬A の真理値は原子命題 A の真理値に依存する。このような(複合)命題の真理値を求める関数を V とすると v(A) = T すなわち A が真の時 V(¬A) = F すなわち ¬A は偽である。

この関係はつぎのような真理値表で表すことができる。

A | ¬A
---------
T | F
F | T

この表では、原子命題 A の真理値が T のとき、命題 ¬A の真理値が F であることを示している。また、A の真理値が F の時は ¬A の真理値は F である。

論理記号の連言記号 ∧ は二つの原子命題から新しい命題を作り出す。すなわち A ∧ B である。この新しい命題は原子命題 A と 原子命題 B がともに真の時にのみ真となる。A が「雪は白い」で B が「雪は冷たい」という命題だとすると。「雪は白いかつ雪は冷たい」という命題 A ∧ B は雪が白くて、雪が冷たいときのみ真になる。この関係も真理値表にすることができる。

A | B | A ∧ B
T | T | T
T | F | F
F | T | F
F | F | F

このように真理値表の行をみれば、原子命題の真理値がいろいろと変わるときに(複合)命題の真理値がどうなるかが分かる。

ちなみに、連言記号の真理値表は次のようになる。A ∨ B という命題は命題 A か命題 B のどちらか一方でも真ならば真になる。両方真でもやはり真である。

A | B | A ∨ B
T | T | T
T | F | T
F | T | T
F | F | F

含意記号の真理値表は次のようになる。Aが真でBが偽の時以外は含意の真理値は真になるのが意外な感じがするが。含意というのは A が真であるときに B が偽となることはないことを主張する命題であるからだ。A が真の時は B が必ず真であることが要求されるが、A が偽であったときに B の真偽は知りようがない。西の空が赤ければ明日は晴れるが、西の空が赤くなければ、晴れるとも雨が降るとも言えない。西の空が晴れているのに翌日は雨だったら、西の空が赤ければ明日は晴れだという命題は間違っているだろうが、西の空が晴れていなければ、西の空が晴れたら翌日は晴れだという推論が誤っているとは言えないからだ。

A | B | A -> B
T | T | T
T | F | F
F | T | T
F | F | T

はじめて記号論理学の本を読んだときに、含意以外の真理値表の意味はよく分かった。随分後まで、含意の真理値表については納得できなかったが。論理学というのは必要なことのみ語るという省エネの精神で動いているのだということに思い至ってから何となく分かる気になった。

真理値表は(複合)命題をつなげることもできる。A -> (B -> A) というような命題の真理値表も作ることができるのだ。

A | B | B -> A | A -> (B -> A)
T | T | T | T
T | F | T | T
F | T | F | T
F | F | T | T

面白いことに、A -> (B -> A) という命題の真理値は A と B の真理値にかかわらず常に T になることが分かる。つまり、原子命題の真偽にかかわらずこの命題は常に真なのだ。このような命題をトートロジーという。このような常に変わらない真理というのは非常に大切だ。どのような三角形の内角の和も180度である。三角形の形は様々でもその内角についてみると常に180度から変わることがない。

また、トートロジーの意味は「同語反復」だ。トートロジーとは単なる言い換えに過ぎない。『鏡の国のアリス』でナイトの吟遊詩人は「私の歌を聴けば誰でも涙を流すか、または、流さない」と言ったが、これは永遠の真理であると同時になんの意味もない。トートロジーの常に変わらない真理と何事も語っていないというナンセンスさを浮き彫りにしている。

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by tnomura9 | 2016-07-28 19:22 | 考えるということ | Comments(0)

命題論理(1)

1.命題は言葉である。言葉には言葉そのもの(記号表現)と言葉の指し示す内容(記号内容)が不可分に結びついている

命題は言葉である。「雪は白い」という言葉は命題だ。ただし、これが命題となるためには、この言葉が真であるか偽であるかが定められる必要がある。

「雪は白い」という言葉の記号だけでは真偽を論じることはできない。それは単なる記号(記号表現)だからだ。「雪が白い」という命題が真であるか偽であるかは、その言葉の示す内容(記号内容)が真である必要があるのである。従って、「雪が白い」という命題は、実際の雪が白い時は真であり、雪が黒ければ偽である。

つまり、「雪が白い」という命題が真であるのは雪が白いという事実と同値関係にある。すなわち、

「雪が白い」が真 ⇔ 雪が白い

すなわち、「雪が白い」という命題が真であれば、実際の雪は白い。逆に実際の雪が白ければ、「雪が白い」という命題は真である。

ところで、「雪が白い」は言葉だが、「「雪が白い」が真」も言葉だ。従って「「雪が白い」が真」という言葉についても真偽を問うことができる。この場合次のような同値関係が成り立つ。

「「雪が白い」が真」が真 ⇔ 「雪が白い」が真 ⇔ 雪が白い

このように「雪が白い」という命題には、記号(記号表現)であると同時に雪が白いという事実(記号内容)を指し示しているという二重性がある。哲学的にはこれは重要であるが、数学として扱うには少々不便である。そこで命題の扱いを簡潔にするために、命題の記号としての側面(記号表現)のみを取り上げてその記号内容については問わないことにする。その代りに「雪が白い」という命題は真という属性か、偽という属性を持っていると考える。

この考え方だと「雪が白い」という言葉が指す内容は問題にされない。単に記号(記号表現)としての「雪が白い」という言葉が、真という属性を持つか、偽という属性を持っているかのどちらかだと考える。それであれば「雪が白い」という命題についてはその内容は問題にされていないのだから、もっと簡単な A という変数に置き換えることができる。このような要素的な命題は原子命題と呼ばれる。また、命題には「A かつ B」のような複数の原子命題を論理記号で結合したものがある。このような複合的な命題は単に命題と呼ばれる。

命題論理では、このように具体的な命題は A という変数に抽象化される。そうして、この抽象的な命題 A が真であるかあるいは偽である時どのような定理が導出されるかを考えるのだ。従って命題 A と言っても特定の命題を表しているわけではなく、その真偽も未定だ。なんだか心もとないがそのおかげで命題 A にはどのような命題でも当てはめることができる。命題の抽象化によって、どのような具体的な命題にも定理を適用できるのだ。

命題論理では、このような抽象的な命題からどのような論理法則があるのかを推論していく。従って、命題論理は命題の言葉としての側面(記号表現)を取り扱う論理体系だ。

命題は言葉としての性質(記号表現)とその言葉が示す内容(記号内容)が不可分に結びついているが、記号としての言葉(記号表現)を対象として取り扱うことができる。このため、つぎのような命題も表現可能だ。

「この命題は誤りだ」

この命題ではこの命題という指示語で「この命題は誤りだ」という命題自身(記号表現)を指し示すことができる。そうして「この命題は誤りだ」という言葉が示す記号内容として「この命題が誤りだ」という事実を示している。しかし、命題にこのような自己言及が行われると、「この命題は誤りだ」が真であれば、この命題は偽であることになり、「この命題は誤りだ」が偽であれば、この命題は真であることになる。従って「この命題は誤りだ」という命題には真偽値を割り当てることができない。

命題論理の原子命題にはこのような自己言及は考えられていないので、命題は必ず真か偽の真理値を持つことになる。そのため、命題論理には矛盾が起きない。「公理から演繹された定理は全てトートロジーであり、トートロジーである命題は全て証明可能である」という命題論理の完全性定理は、この原子命題は必ず真または偽の真理値をとるという性質から演繹される。

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by tnomura9 | 2016-07-26 22:21 | 考えるということ | Comments(0)

数学基礎論講義

『数学基礎論講義 不完全性定理とその発展』田中一之、鹿島亨、角田法也、菊池誠(著)を読んでいる。学部初級から大学院初年度の学生が対象らしいので、素人が読める本ではない。

それでも命題論理、命題論理の完全性の証明、述語論理、述語論理の完全性定理、再帰的関数、不完全性定理、不完全性定理の発展という風に、層状に整然と議論が進められているので、数学基礎論を見通しよく学んでいくための良いガイドになりそうだ。

おそらくこの本を理解するために、色々な本を物色しないといけないだろうし、最終的に理解できるかどうかは疑問だが、ガイドを片手にいろいろな情報を物色するというのは、なかなか楽しそうだ。

また、専門書を読んで素人が考えた(誤解した)ことをブログにまとめてみるのも面白そうなので、しばらく、この本を中心にブログを書いてみることにする。素人というのは専門家が常識として素通りするような事柄につまづいて色々と変なことを考えたりするので、大半は誤解だが、結構面白い視点もあるかもしれない。

しかし、そのために少し工夫することにした。ひとつ目は難解な用語を使わないこと。2つ目はあまり長い議論はしないことだ。どうせ誤解なら、読んだ人がすぐにこれは誤解だと判断できたほうがいい。また、よく考えたことなら、簡潔に表現できるはずだからだ。

どういう記事になるかはわからないが、命題論理の完全性定理まではやってみたいと思う。これがきちんと理解できれば、述語論理の完全性定理や、うまくいけばゲーデルの不完全性定理がわかるようになれるかもしれないからだ。やってみないと分からないのだけれど。

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by tnomura9 | 2016-07-25 23:47 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

命題論理学

論理とは何かを学習するのには命題論理学を学ぶのがいいと思う。なんといっても「ラッセルのパラドックス」がない。論理を学ぶのに矛盾が潜んでいるかもしれないと言われたら、初学者は途方にくれるだろう。論理の活用法を学びたいだけなのに、いきなり論理の構造の深淵に投げ込まれるようなものだからだ。幸いなことに、命題論理学には矛盾がない、全くない。それは命題論理学が取り扱う複合命題が、全て有限の原子命題で構成されているからだ。

複合命題を構成する原子命題が有限であれば、どのように多くの原子命題で構成されていても、その命題がトートロジーであるかどうかは真理表を作成することで機械的に求めることができる。証明もその否定も証明できない命題などは発生しない。

述語論理学になると、そのあたりの事情が怪しくなってくる。例えば ∀xP(x) つまり全ての x について P(x) などのような命題は、P(x) による内包的定義で定義される集合が無限集合であれば、その中に無限を含んでいるので、真理表を作成できない。P(x) で内包的定義される集合を P とすると、ある要素 x1 が P(x) を満たすと言う命題は命題論理学に翻訳すると P1 で表すことができる。したがって ∀xP(x) は命題論理学では P1 ∧ P2 ∧ P3 ∧ ..... と無限の原子命題で構成される複合命題になってしまい、真理表すら完成させることができなくなる。述語論理学には、このような有限の複合命題で成立している性質は、無限の原子命題を含む複合命題でも成立するだろうというような論理の飛躍が見られる。

このように、述語論理学は有限な命題論理の中に無限の原子命題からなる複合命題を導入して、命題論理学を拡張したものだ。無限の原子命題から構成される複合命題という怪しげなものを内包しているが、定理が全てトートロジーであるという完全性定理は証明できる。つまり矛盾は含んでいない。しかし、これを自然数という再帰的定義で定義される無限集合を扱えるように拡張すると、その論理体系では証明もその否定の証明もできない命題というのが発生してしまう。全ての命題を真であるか偽であるに分類しきってしまうことができないし、自分自身が無矛盾であるかどうかも証明できなくなってしまう。

しかし、現実的世界では応用されているのは全て命題論理学の範囲内である。微分積分学のような本質的に無限を取り込んでいるような分野でも、コンピュータでシミュレーションするときは、有限のデータしか扱わない。述語論理学で記述された命題を、命題論理学に翻訳して計算している。誤差は必要なだけ小さくできるので、実用上は問題ない。

無限の要素を数え尽くすことはできないので、有限の世界の論理を無限に拡張するときには、論理の飛躍が必要だ。しかし、その論理の飛躍が正当な物かどうかには注意が必要だ。

たとえば、自分自身を要素として含まない集合の集合というのはそのいい例だ。有限集合に限って言えば自分自身を要素として含まない集合の集合は考えることができる。しかし、その集合は、自分自身を要素として含まない。なぜなら、自分自身を要素として含んでしまうと自分自身を要素として含まない集合の集合ではなくなるからだ。しかし、まさにそのために、その集合は自分自信を要素として含まないという述語を満たしてしまう。このような構造の集合を内包的定義で定義することはできない。しかし、有限集合で見られる内包的定義の正当性を無批判に無限集合にまで拡張すると、パラドックスが発生してしまう。

このように、無限を含む論理には注意が必要だが、実用的には、命題論理学を学ぶだけで、十分論理の運用に敏感になることができる。含意はそのいい例だ。「テレビのコマーシャルのスポンサーが製薬会社ならば薬は飲まない方がいい。テレビのコマーシャルのスポンサーの多くは製薬会社である。故に薬は飲まない方がいい」という議論をよく見かける。しかし、この推論のテレビのコマーシャルのスポンサーが製薬会社ならば薬は飲まない方がいいという含意の正当性は全く吟味されていない。A ならば B であるという含意が真になるのは、A が偽であるか、または、B が真である場合である。つまり、テレビのコマーシャルのスポンサーの多くが製薬会社であるという命題が真であったとしても、薬を飲まない方がいいという命題の正当性は上の含意だけでは保証できない。上の含意はテレビのコマーシャルのスポンサーが製薬会社であれば、薬は飲んだ方がいいということは決してないかどうかによって、真偽を判定されなければならない。含意が偽であれば、三段論法の推論は不適切だ。

結局のところ、ラッセルのパラドックスが気持ち悪くても、論理学とくに命題論理学を学ぶべき理由は十分にある。

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by tnomura9 | 2016-07-25 07:52 | 考えるということ | Comments(0)

自分の思考のパターンを知る

前回、参考書にひく下線は少ないほうがいいといったが、それは参考書の内容をそのまま理解するよりも、参考書の内容が自分の知識のネットワークの中でどのように位置づけられるかを意識するほうが大切だという意味だ。

それと関連するが、学習をするときの自分の思考の癖のようなものを知っていることが大切だ。知識の概要を知りたがる傾向の人は、分類などの細かい内容は無視しがちだ。また、細かい内容に注意を向けていると、その知識が全体の中でどのような位置づけにあるのかというような、俯瞰的な見方をしなくなる。

さらに、本を面白いと思って読んでいると、突然読めなくなったりする。それはそれまでに読んできた内容を無意識に自分の脳の中の知識体系に結びつけようとする作業が始まるので、新しい情報が入るのを拒否するからだ。脳の能力は物理的にも有限なのだ。

この例からも分かるように、知識を習得する際には意識に上らない無意識の脳の活動が重要な働きをしている。一読してわからなかったものが、数日して突然に分かり始めたりするのは、無意識のうちにその新しい知識について考えていたからだ。

したがって、全く新しい知識を習得しようとするときは、欲張ってはいけない。1回に受容できる新しい情報の量は限られているし、その知識が消化されるためには無意識の脳の活動が一定期間必要だからだ。

つまり、新しい知識の習得は、一度に多くのインプットはできないし、それが消化されるまでの無意識の脳活動ために時間を必要とするからだ。

要するに、意識的に学習する際もこのような脳の特性に合わせて行わないと、徒労に終わる可能性がある。

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by tnomura9 | 2016-07-21 17:55 | 考えるということ | Comments(0)

最も効果的な下線のひき方

ずいぶん前から参考書に下線をひく方法をいろいろと工夫していたが満足いくものがなかった。しかし、ついに究極の方法を見つけた。

それは、1段落につき1個だけ技術用語に下線を引くのだ。1段落に1個と技術用語というのがみそだ。

1段落に1個というのは、その段落のキーワードによって段落の内容を要約するという意味がある。その段落には何が書いてあるかを一言で言い表せということだ。

しかし、キーワードだけでは文章の構造を表すこともできないし、全ての重要事項を1個のキーワードだけで済ませるわけがないので不安になるかもしれないが、それは別の方法で補う。

圧倒的に少ない下線の情報量を補うその方法は、そのページを何度も見返すことだ。下線を引いた技術用語でどんなものを思い出すかを再確認しながら、何度もブラウジングするのだ。こまごまと段落に線引きすることでその段落を分析するよりも、ちらっと眺めた技術用語からその段落に何が書いてあったかを思い出せるかどうかを確かめることのほうが大切だ。

もちろん、1回や2回で技術用語に関する内容を思い出せるようにはならない。だから、繰り返さなければならない。2,3回などとけち臭いことを言わず、20回、30回あるいはそれ以上を覚悟しておいたほうがいい。

また、下線を引いた技術用語を眺めながら、その用語について様々な問いかけをする必要がある。この用語はいつ頃作られたのか、この用語はどのような分野に使われているのか、この用語と対照的な用語は何かなど思いつく限りの問いかけをする。そうしてその問いを発するたびにそれに対する答えを調べる。

技術用語をターゲットにするのには意味がある。技術用語は使いまわしがきくのだ。なにかの技術的な文章を読むときも、あるいは自分で何かそのような文章を作成するときも、技術用語の知識は非常に役に立つ。技術用語はその分野の知識のコインのようなものだ。技術用語を習得することには十分に時間をかける価値がある。

要するに学問に王道なし。本当に大切なのは、学習に十分に時間を使うことを覚悟することだ。それから、本に書いてある内容をそのまま覚えることよりも、それが自分の脳の中にどのように組織化されているのかを知ることだ。

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by tnomura9 | 2016-07-19 19:05 | 考えるということ | Comments(0)

読書百編

管理人が高校生の頃、数学の先生が、余談で、自分が学生の頃の同級生に数学の解答を暗記する子がいたという話をした。数学の解答を暗記するなんてと皆に笑われていたそうだが、そのうちその級友は天才的に数学ができるようになったそうだ。数学は理解するものだが、暗記するという方法もあるものだと先生は不思議そうに語っていた。

最近、論理学をもう一度真面目に勉強してみようと命題論理学の公理系に取り組んでみた。ウカシェビッチの公理系というもので、公理は次の三つで、定理の生成は三段論法(modus ponens) を使う。

P1. A -> ( B -> A )
P2. ( A -> (B -> C)) -> (( A -> B) -> (A -> C))
P3. (¬A -> ¬B ) -> ( A -> B )

この公理から定理を次のように定義できる。

定義
(1) 公理 P1, P2, P3 は定理である。
(2) A と A -> B が定理なら、B も定理である。

この公理と三段論法と定理の定義に従って、いろいろな定理を導きだしていく。例えば A -> A のような当たり前の定理も公理から論証していかなければならない。その論証は次のように展開される。

A0 = A -> ((A -> A) -> A) ..... : P1
A1 = (A -> ((A -> A) -> A)) -> ((A -> (A -> A)) -> (A -> A)) .... : P2
A2 = (A -> (A -> A)) -> (A -> A) ..... : A1 = A0 -> A2
A3 = A -> (A -> A) .... : P1
A4 = A -> A

この証明を見ても何のことかさっぱりわからなかった。A0 は公理 P1 の A を A に B を (A -> A) に置き換えたものだということはわかる。A1 も 公理 P2 の A を A に、B を (A -> A) に C を A に置き換えたものだ。個々の式の意味はわかるのだが、どうしてこのような置き換えが必要なのかがさっぱりわからなかった。

そこで仕方がないのでこの証明を暗記してみることにした。これには結構な日数がかかった。何回も繰り返し書いたり暗唱したりしたが、不思議なことに暗記できるくらい繰り返しているうちに証明のパターンのようなものが見えるようになってきたのだ。

例えば A -> ((A -> A) -> A) は公理 A -> (B -> A) から導かれるのだが、これは公理 P1 では第1項の命題と第2項の命題が同じ命題なら、第2項の命題はどのようなものを持ってきてもいいことを意味している。公理の P2 は (A -> (B -> C)) -> ((A -> B) -> (A -> C)) は最初の内包 A -> (B -> C) を二つの内包 (A -> B) と (A -> C) に分けるという意味がある。公理 P3 はおなじみの対偶だ。

このように公理の性質がわかってくると上の呪文のような証明の意味がわかってくる。つまり A0 では最終的に証明したい A -> A という命題を P0 の B には任意の命題を代入していいという性質を利用して、定理の中に導入していることがわかる。

A1 ではこうやって定理の中に組み入れた A -> A という命題を A -> (A -> A) と A -> A という要素的な命題に分けている。

A2 は A -> ((A -> A) -> A) という A1 の前件が定理なので (A -> (A -> A)) -> (A -> A) という後件が定理になる。するとこの A2 の内包の後件が目的の定理であることがわかる。そうであれば前件が定理なら証明は完成する。そこで前件の A3 を眺めてみると、第1項と第3項の命題が同じなので第2項の命題が何であってもこれは定理になることがわかる。

このように各証明の意味がわかると、暗記も途端に楽になってくる。

読書百遍意おのずから通ずというのはこういうことを言うのだろう。冒頭の数学の解答を暗記した学生の頭の中でも同じような変化が起きていたのではないだろうか。何回も暗記のための努力を繰り返しているうちに、その解答の中のパターンや数学的な考え方が見えてきたのではないだろうか。一つのことに慣れ親しむために何回も繰り返しているうちにその本質が見えてくるのだ。これは、理解するのが難しい知識を会得するための重要な方法のような気がする。どうしてもたくさんの時間が必要だが、数学を学ぶ上での王道である。

残念ながら数学の先生は数学の解答を暗記しなさいとは言ってくれなかったが、この方法で数学を学んでいれば数学についてもっと別の印象をもてたかもしれない。


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by tnomura9 | 2016-07-12 22:19 | 考えるということ | Comments(2)