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読書の腕前

講演会が終わったが、タクシーが捕まらなかった。幸い予約していたという友人に相乗りさせてもらい駅に着いたが、なんとなくそのまま家に帰りたくなくなった。家路を急ぐ友人にちょっと遊んできますと別れを告げ、小雨の夕暮れの中傘をささずに歩き出した。資料を入れた鞄が少し重たかった。10分ほど歩いてツタヤに入った。最近の出版不況を反映してか、この街にもツタヤ以外の本屋がなくなってしまった。

入り口の自動ドアを通り抜けると、本の洪水が目に入った。めまいがした。これらの本のどれだけが読まれ、どれだけが廃棄されるのだろう。そういえば、随分前から読むためだけの本を読んでいない。朝起きて、戦場のような職場の仕事が終わった後は、とにかく横になることしか考えられない。金曜日には少し気分が高揚するが、土曜日も働いているので、時間が自由になるのは、午後も遅い方だ。日曜日も夕方になると気分が塞いでくる。そのためか、書店に入っても、書棚の本よりは本を物色している人の方が気になる。確実に変態だから、すぐに自分を戒めるようにはしているが。

所在なく書架の間を彷徨っていたら、文庫本の新刊のコーナーに目が止まった。帯にピース又吉の写真入りの推薦文があったので手に取った。又吉の本は読んでいないが、相当の読み手であることはテレビのインタビューを見ればわかる。

最初のページにはある外国の女流作家の小説が紹介されていた。大学で文学を学んだ高学歴の女性が、大学生の息子を残して離婚し、田舎の港町でレストランの給仕をしながら生計を立てている。唯一の楽しみは、レストランが閉まった後の波止場での読書だ。艀に自前のテーブルと椅子と電気スタンドを持ち込んで読書にふけるのである。その読書の時間がなんとも幸せそうだった。

パラパラとページをめくって、次に目に飛び込んできたのは、著者の小学校の時の思い出だった。小学校の時から、学校の図書館や、近所の雑誌の廃棄物の集積場でたくさんの本を読んでいた。子供ながらに読書の腕前には自信があった。しかし他の成績はあまり振るわなかったらしい。ある日、担任の H 先生がコピーの文章をどれだけ早く読めるかを生徒たちに求めた。著者は先生が止めの号令を発する前に全文を読み終わっていたのでそういう風に書き込んだが、何が気に入らなかったのかその先生はお前がそんなに早く読めるはずがない、読めるのはせいぜいこれだけだと生徒が見ている前で、文章の中度に線を引いて見せた。

とにかく読んでみようという気になり、購入して鞄に入れ、止んでいなかった小雨の中を駅に引き返した。駅の構内にスペイン料理の店があり、そこで、しばらく読んでみたくなったのだ。マグロのサラダと名前を忘れたが白魚と卵をオリプオイル入りの出汁で煮込んだものにパンを浸して食べる料理を頼んだ。白のスパークリングワインが先に来たのでそれを飲みながらさっき買った本を読み始めた。著者の読書に対する並々ならない愛情が伝わってくる。とにかくたくさんの本を読む大切さ、古書店を探索する楽しみや、書評や解説を読む楽しみなどに目が開かれる思いだった。白ワインがなくなった頃に料理が運ばれてきたので、赤ワインを頼んだ。料理は薄味で胃にもたれなかった。ワインをすすり、料理を食べ、本を読み続けた。

思いもかけず、至福の時間を過ごすことができた。感謝。

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by tnomura9 | 2016-05-29 12:34 | 話のネタ | Comments(0)

素朴集合論の有向グラフモデル

素朴集合論のモデルを有向グラフとして記述してみた。

集合 U (universe) は関心のある要素と集合を集めた有限集合である。集合 U の要素/集合間には、所属関係 Ψ(x, y) という2項関係が定義される。Ψ(x, y) は集合 x が要素/集合 y を要素として含んでいることを示している。U の要素のうち要素をひとつも含まないものは純粋な個体である。

U の要素のうち集合はそれに属する要素/集合を含む。また集合に分類されるが要素を含まない空集合 φ は U の要素である。要素を含まないという点では、φ と一匹の犬のような集合ではない純粋の要素との区別がつかないが、φ = {null} というように空集合は null という要素のみを含むと考えると、空集合を集合と考えることができる。

null と同じように要素を含まない無限記号 ∞ も U の要素である。無限記号は無限集合の要素として含まれ、その集合が無限集合であることを表す。U はいつでも拡張可能であるが、拡張のある時点では常に有限集合であるので、その中に無限集合を含まない。無限記号を含む集合は、その集合が有限集合ではなく、U の拡張に伴って拡張される無限集合であることを示している。

集合 U の要素 a の外延とは Ψ(a, y) が真となるような y を集めた U の部分集合である。

集合 U の要素数は、集合 U の部分集合の数より少ないため、それらの全てを表すことはできない。集合と呼べるのは U の要素であって、その外延を持っているものだけである。U の部分集合であって、それを外延とする U の要素が存在しないものは、クラスとなる。

集合 U の要素は、内包的定義で集合 U の部分集合を定義できる。また、述語の排中律は、集合 U の要素につついて成立する。内包的定義で定義できる集合 U の部分集合は広義のクラスである。このうちそれを外延とする U の集合を持つものが集合であり、そのような U の要素を持たないものが狭義のクラスである。

集合 U には2項関係 Ψ(x,y) が定義されているため、自己言及 Ψ(x, x) 及び不動点が発生する。この性質のため、「自分を要素として含まない集合の集合」を集合 U の要素の中に求めることはできない。したがって、ラッセルのパラドックスは自然に排除される。

集合 U は有限集合であるが、いつでも拡張可能であるという性質と無限記号により、極限としての無限集合を扱うことができる。

このモデルの特徴は、あくまでも有限集合の範囲で議論が構築できること。集合とクラスの違いを明確に定義できること。ラッセルのパラドックスを排除し、排中律が成立すること。有限集合であるが、可能無限の立場から極限としての無限集合を扱うことができることなどだ。

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by tnomura9 | 2016-05-27 06:40 | 考えるということ | Comments(0)

ラッセルのパラドックスの概要

ラッセルのパラドックスの概要をまとめてみた。

まず素朴集合論の世界を、集合を集めた集合 A であると考える。すべての集合を集めた集合を考えると矛盾が出てくるので、すべてではないが当面関心のある集合はおおむね集めた集合を考えるのだ。

次にこの集合 A に所属関係という2項関係を導入する。集合 A の任意の要素は互いに要素として含むか含んでいないかをいうことができる。この2項関係は数学的には A の直積集合から2値集合 {0, 1} への写像になる。この2項関係は自分自身との関係も含んでいるので自己言及が発生する。

この2項関係のオペランドのひとつを固定すると、それは集合 A から2値集合への1変数関数になる。この関数は、固定した要素の外延と対応している。つまり、集合 A の要素 a に属する要素の集まりとしての集合はこの関数であらわすことができる。しかし、集合 A の要素数が n のとき、集合 A の部分集合全体の数は 2^n になるため、集合 A ではその部分集合全てを集合 A の要素で表すことはできない。集合 A の部分集合のうち A の要素で表せないものがある。

集合 A の直積から2値集合への写像があるとき、任意の関数 f: {0,1} -> {0,1} で f(m(x,x)) = m(a, x) と定義できる場合、m(a, a) は f(x) の不動点となる。すなわち f(m(a,a)) = m(a,a) である。この不動点の発生には m(x,x) という自己言及が関係している。

このように、集合 A に二項関係が定義されている場合、この二項関係によって、集合 A の要素 a に対応する集合 A の部分集合が定義できるが、二項関係の自己言及が原因で、集合 A の部分集合のうち「自分自身を要素として含まない集合の集合」に対応する集合 A の要素は定義できない。これがラッセルのパラドックスの発生原因になる。

このように、ラッセルのパラドックスは集合の要素間に二項関係が定義された場合に発生する普遍的な現象だった。


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by tnomura9 | 2016-05-26 14:48 | 考えるということ | Comments(0)

ラッセルのパラドックスのメカニズム

ラッセルのパラドックスの発生するメカニズムをわかりやすく説明できるようになった気がする。次のような仕組みについて考えると、ラッセルのパラドックスの発生する理由が分かりやすい。

まず第一に有限集合 A = {a1, a2, a3, ..., an} を取り上げる。次にこの集合 A に要素間の所属関係

m(x, y) : A x A -> {0, 1}

を導入する。m(x, y) は x が y を要素として含んでいれば 1 含んでいなければ 0 の値をとるものとする。m(x,y) は次のような演算表で一意的に決まる。

** a1 a2 a3 ... an
a1 1 0 0 ... 0
a2 0 1 0 ... 1
a3 1 1 0 ... 0
...
an 0 1 0 ... 1

この時各行の数列は、対応する行の要素の外延を規定する。例えば a2 = {a2, ... , an} である。集合 A には n 個の要素しかないので、この集合の要素は高々 n 個の A の部分集合しか表現できない。集合 A の部分集合は 2^n 個あるので、集合 A に所属関係を導入することによって表現できる集合は、集合 A の部分集合の一部でしかない。

ところで、m(x, y) のうち第1引数を固定した g(x) = m(a, x) は A の1引数関数である。また m(x,x) は演算表の対角線部分の値を示す。ここで、f(x) : {0, 1} -> {0, 1} という2値集合から2値集合への関数を次のように定義する。

g(x) = f(m(x,x))

この時、

f(m(a,a)) = g(a) = m(a, a)

となるので m(a,a) は f(x) の不動点となる。f が否定関数であれば、

¬ (m(a,a)) = m(a,a)

となって矛盾になる。

不動点定理による説明がわかりにくければ次のように考えても良い。A = {a1, a2, a3, a4} について要素間の所属関係が次のように定義されているとする。

** a1 a2 a3 a4
a1 1 0 0 0
a2 0 1 0 0
a3 1 1 0 0
a4 * * * *

a4 が定義されていないのはこれを

g(x) = m(a4, x) = ¬ (m(x,x))

となるように定義したいからだ。g(x) は x が自分自身を要素として含まない時に 1 含む時に 0 になるような関数である。これを、a4 をインデックスとする関数として定義したい。つまり、m(a4, x) がラッセルの集合の外延となるように定義したいということだ。g(x) = m(a4,x) は a1, a2, a3 については簡単に求められる。対角線部分を反転させればいいだけだからだ。つまり、

a4 0 0 1 *

となる。ところが * の m(a4,a4) には 1 も 0 も置くことができない。m(a4,a4) が 1 であるとすると g(x) の性質から m(a4,a4) は 0 でなければならないし、m(a4,a4) が 0 であると仮定しても同様の困難が生じる。したがって、g(x) = ¬ (m(x,x)) となるように m(a4, x) を定義することはできない。g(x) = m(a4, x) のように定義できるのは例えば、演算表の a4 行の値が、

a4 1 0 1 0

のようになる場合だ。ところが、この場合 g(x) = ¬ (m(x,x)) を満たす A の部分集合は {a3, a4} なので、自分自身を要素として含まない集合の集合は A の部分集合として存在するのに、それを表す要素が集合 A の中に取れないので不思議に思うのだ。

また、A の部分集合の中には、それを表す A の要素が見つからないものが多くある。これは A については集合として表すことができず、クラスとなる。クラスを外延とする A の要素はないので、クラスは集合の要素となることができない。ラッセルのパラドックス以外にもクラスは多数存在し、それは、A に導入された所属関係に依存している。

以上の議論をまとめると、集合の集合 A について、その要素間に所属関係という二項関係を導入すると、集合 A の要素の外延が集合 A の部分集合となるようにできる。しかし、集合 A の要素は集合 A の全ての部分集合を表すには要素の数が不足する。また、不動点定理のため、集合 A の要素の外延が自分自身を要素として含まない集合の集合というラッセルの集合となるようにはできない。これが、有限集合におけるラッセルのパラドックスのメカニズムだ。

集合 A の要素数をどんなに増やしてもこの議論は成立するので、結局、全ての集合を含む集合 A を仮定しても、ラッセルの集合を外延とする集合を集合 A の中に見つけることはできない。結局のところ、ある集合 A に要素間の所属関係を導入するという方法では、その集合の全ての部分集合は表現できない。特に自分を要素として含まない集合の集合を集合 A の中に定義するのは不可能であることがわかる。

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by tnomura9 | 2016-05-24 22:33 | 考えるということ | Comments(0)

自然数と実数の濃度差

自然数の二項関係 p(x,y) について考えてみる。すなわち p(x,y) : N x N -> {0, 1} という関数 p(x,y) を考えてみよう。この関数は次のような演算表で一意的に表される。

* 1 2 3 ...
1 1 0 0 ...
2 0 1 0 ...
3 1 1 0 ...
...

ここで、この演算表のうち自然数の部分集合 {1, 2, 3} の部分を抜き出してみる。

* 1 2 3
1 1 0 0
2 0 1 0
3 1 1 0

さらに、この演算表の見方を変えて、演算表の行の数列に注目して、行の自然数と、{1,2,3} の部分集合との対応表と考えることにする。例えば 3 行目に注目すると、その数列は 1 1 0 だから、これは、3 -> {1,2} の対応関係を表していると考えるのだ。

演算表の値は任意に取れるから、演算表は次のような場合も考えられる。

* 1 2 3
1 0 1 0
2 1 0 0
3 0 0 1

しかしながらどのような場合でも行の数は 3 までしかないので、この演算表には {1,2,3} の全ての部分集合を表すことはできない。{1,2,3} の部分集合は {}, {1}, {2}, {3}, {1,2}, {1,3}, {2,3}, {1,2,3} の 2^3 = 8 個あるからである。

このように自然数の二項関係の表を自然数とその部分集合との対応関係と読み替えることができるが、この二項関係の演算表では、自然数と部分集合との全ての対応関係を作るには、自然数の数が不足していることがわかる。上の例は {1,2,3} について議論したが、自然数の個数 n をどのように大きくしていってもこの関係は変わらない。さらに、その場合、自然数の数とその部分集合との差は指数関数的に開いていく。

実は、この演算表は、カントールが対角線論法で実数と自然数との全単射ができないことを証明した時に使われたものと構造的に同じものである。したがって、カントールの議論では、自然数と実数の差は 2^∞ - ∞ と非常に大きなものになることがわかる。

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by tnomura9 | 2016-05-20 08:04 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論と排中律

素朴集合論をモデル化すると次のようになる。

数学の理論などを組み上げるために当面必要な集合が a1, a2, a3 だったとする。この時これらを集めた集合 U (universe) を考える。つまり、

U = {a1, a2, a3}

である。この、集合 U については要素の間に所属関係という二項関係が定義されており、 a ∋ b は a が b を要素として含んでいれば 1 を、a が b を要素として含んでいなければ 0 の値をとる。この二項関係は次のような演算表で定義できる。

*** a1 a2 a3
a1 1 0 0
a2 0 1 0
a3 1 1 0

この演算表の行の数列は、各行の集合の外延を表している。例えば集合 a3 は a1, a2 を要素として含むので、

a3 = {a1, a2}

である。しかしながら、この演算表では U = {a1, a2, a3} の全ての部分集合を表すことはできない。{a3}, {a1, a3}, {a2, a3}, {a1, a2, a3} などを外延とする集合は U の中には見つけられない。この例の U の要素数は 3 個であるのに対し、U の部分集合の数は 2^3 = 8 個あるからだ。従って演算表をどのように変えても集合で表されない外延が存在する。

特に「自分自身を要素として含まない集合の集合」を表す集合を U の中に見つけることはできない。このような集合の外延は演算表の対角線部分の値を反転した数列、0 0 1 になるが、この数列は U のどの行の数列とも対角線の部分で異なるため U の要素にこのような外延を表す集合を見つけることはできない。しかしながら {a3} という U の部分集合は存在するので、パラドックスと感じられる。

問題は、このようなモデルに排中律が適用できるかということだ。排中律は論理の根本になる公理なので、これが成立しないとすると論理的な推論が厄介になる。

そこで、この U に述語 p(x) を導入する。関数 p(x) の引数は U = {a1, a2, a3} の要素であり、値は {1, 0} の要素である。p(x) は a ∈ U が条件を満たせば p(a) = 1 であり、そうでない場合は p(a) = 0 である。p(x) は全ての U の要素について定義されるから、p(a) は必ず 1 か 0 の値をとる。つまり U において、p(a) は排中律を満たしている。

そこで p(x) による集合の内包的定義を次のように定義する。

a = {x | p(x) = 1}

これは U の部分集合 a を規定することができる。しかし、この部分集合を外延とする U の要素である a が常に存在するわけではない。はじめに述べたように U の要素数では U の全ての部分集合を表すには表現力が不足しているからだ。U の要素の演算表で表現できないような U の部分集合は U においては集合ではなく、クラスになる。

このように素朴集合論では、排中律は成立し、述語による内包的定義はクラスを定義できるが、集合を定義できない場合がある。

また、U の部分集合を全て表現するために、集合 S = {b1, b2, b3, b4, b5, b6, b7} を用いることができる。この場合は S の要素は U の全ての集合の要素に対応させることができる。しかし、このモデルでは集合の集合のような重要な集合を作ることができない。U における表現力の不足は、このような集合の集合を集合として扱うための代償だったのだ。

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by tnomura9 | 2016-05-16 07:43 | 考えるということ | Comments(0)

公理的集合論とは何か

素朴集合論からラッセルのパラドックスを追い出すために公理的集合論が考えられたのだが、公理的集合論の公理だけを見ても何のことが理解できなかった。前回の記事で、素朴集合論のモデルとしてどんどん拡大していく有向グラフというイメージが使えることがわかったので、これに対して公理的集合論の各公理がどのような役目を果たしているのかを考えてみるのも面白いだろうと思った。

公理的集合論 ZF の公理としては、Wikipedia の記事のものを参照した。以下の記事に正当性があるかどうかはいささか心許ないが、公理的集合論を見える化することができるのではないかと思う。

外延性の公理 A と B が同じ要素を持つのなら A と B は等しい

集合の所属関係をグラフで表すとき、異なる要素(ノード)が同じ要素の集まりを外延として持ってもいいが、そういう重複を禁じるということだ。このため、部分的なネットワークの要素数は可能な要素の組み合わせで決まる。部分的なネットワークの要素は一意的に決まる。

空集合の公理 要素を持たない集合が存在する。

公理的集合論で公理的にアプリオリに存在を認められているのは空集合だけだ。他の集合は、要素を集めて集合を作る操作で作り出されることになる。

対の公理 任意の要素 x, y について、x, y のみを要素とする集合が存在する。

要素を集めて集合を作る操作を公理にしたもの。公理では二つの要素についてしか述べられていないが、この操作を繰り返すことと、和集合の公理を使うことで任意の要素を持った集合を作ることができる。

和集合の公理 任意の集合 X に対して、X の要素の要素全体からなる集合が存在する。

この公理によっても、現在ある要素(集合)から新しい集合を定義することができる。

無限公理 空集合を要素とし、任意の要素 x に対して x ∪ {x} を要素に持つ集合が存在する。

これは少々技巧的だが、空集合から初めて、公理によって作っていく集合のネットワークの中に自然数の無限集合を作るための公理だ。ここでは説明を省略する。

冪集合公理 任意の集合 X に対して X の部分集合全体の集合が存在する

これは冪集合の存在を保証する公理。有限集合の場合は自明だが、無限集合特に実数の集合については自明ではない。

これまでの公理は、空集合をもとに、これらの公理で導出できるものだけが集合であるということを示している。集合はものの集まりというものであるという定義ではラッセルのパラドックスが発生したので、これらの公理によって導出されたものだけが集合であるとしたのだろう。

置換公理 "関数クラス"による集合の像は集合である

これはラッセルのパラドックスが発生しないように工夫した、内包的定義。集合と認められたものを基準にしているので、ラッセルの集合は排除される。

正則性公理(基礎の公理) 空でない集合は必ず自分自身と交わらない要素を持つ

これは a = {a} のような無限再帰を禁止したもの。ラッセルのパラドックスとは関係がない。

このように考えてみると抽象的だと思っていた公理的集合論が、空集合を出発点として次々に集合を作り出していくためのルールであるということがわかる。意外に単純な発想だったのだ。しかしながら、この方法では、なんでラッセルのパラドックスが発生するかということの答えにはなっていない。

前回の「素朴集合論とは何か」で述べたような、集合とその所属関係の有向グラフとして表し、集合はその有向グラフのノードであり、集合の外延は、集合同士の所属関係の演算表で決まるという定式化をすれば、ラッセルの集合は、どのような集合を集めても、それらの中に含まれないということがわかる。

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by tnomura9 | 2016-05-15 11:40 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論とは何か

素朴集合論にはラッセルのパラドックスのようなものが発生するので、何か不可思議なものが潜んでいるような気がする。しかし、素朴集合論の本体は、集合とはものの集まりという「もの」であるという定義によってつくられる、要素(もの)の有向グラフでしかない。

つまり、素朴集合論の世界は要素(集合を含む)をノードとし、所属関係を有向エッジとする、有向グラフで表すことができる。したがって、この有向グラフは、要素(集合を含む)のリストとリストの要素間の所属関係の演算表で完全に記述できる。

例えば、集合 a1, a2, a3 を要素とする集合 U について考えてみる。すなわち、

U = { a1, a2, a3 }

である。また、これらの要素は、U の要素を要素として含んでおり、次のような関係にあるとする。a1 = {a1}, a2 = {a2}, a3 = {a1, a2}

するとこれらの要素の所属関係について次のような演算表を作ることができる。演算表の値の 1 はその行の要素が、列の要素を要素として含んでいることを示し、0 は行の要素が列の要素を要素として含んでいないことを示している。

** a1 a2 a3
a1 1 0 0
a2 0 1 0
a3 1 1 0

U のグラフはこの U のリスト {a1, a2, a3} と上の演算表で完全に記述できる。また、要素の外延は演算表の値が 1 になる要素を集めることでわかる。

素朴集合論の世界はこのような単純な有向グラフなのだ。

しかし、素朴集合論の定義では、集合の集合もまた集合になる。実際、要素 a1, a2, a3 以外にも a1 a2 a3 を要素とする集合は演算表には乗っていない、{a3}, {a1, a3}, {a2, a3}, {a1, a2, a3} などがあるので、これらを a4, a5, a6, a7 とすると U を拡張して {a1, a2, a3, a4, a5, a6, a7} にする必要がある。もちろん演算表も改訂しなければならない。

しかし、そうして拡張した U も U の要素を要素とするような集合を全て記述することはできないから U の拡張は延々と続くことになる。素朴集合論の世界とは、このような無限に拡張されていく有向グラフなのである。

素朴集合論ではこのように U が次々に拡張されていくが、そのどの U についても、前回論じたように、U の要素のうちで「自分自身を要素として含まない集合の集合」を表す要素を U の内に求めることはできない。また、U は拡張するたびに、U の要素で構成される集合のうち U の要素では表されていないものが発生する。したがって、素朴集合論では、全ての集合の集合というものを作ることはできない。

このように、ラッセルの集合は素朴集合論では発生しない。ラッセルのパラドックスはそのような集合が存在するという仮定のもとでの現象だ。したがって、そのような集合はないので、パラドックスも発生しない。

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by tnomura9 | 2016-05-14 08:16 | 考えるということ | Comments(0)

床屋のパラドックスへの答え

床屋のパラドックスとは村人の中に、「自分の髭を剃らない人の髭を剃る床屋」がいたら、その床屋は自分の髭を剃ることも剃らないこともできないというパラドックスだ。すなわち、床屋が自分の髭を剃れば、床屋は「自分の髭を剃る人」の髭を剃ることになり、床屋のルールに反するし、床屋が自分の髭を剃らなければ、床屋は自分の髭を剃らない人の髭を剃らなくてはならなくなる。

このジレンマはしかし、床屋が村人の外の人であれば起きない。床屋は村人ではないので、村の全ての「自分の髭を剃らない人」の髭を剃ることができる。

だから、床屋のパラドックスに対する答えは、「村人の中には、全ての自分の髭を剃らない人の髭を剃る人は存在できない。」というものだ。しかし、村人でなければそのような床屋は存在する。つまり、床屋の存在を村人の中に求めたのがパラドックスの発生原因だ。

床屋のパラドックスが問題とされるのは、村人は確かに自分の髭を剃る人と剃らない人に分かれるはずなのに、村人の中にそれを判断する床屋が居ると考えるとパラドックスになるというところだ。

同じことはラッセルのパラドックスについても言うことができる。任意の集合の集合 A について、「A の要素のうちで自分自身を要素として含まない集合の集合」は A の要素として見つけることはできない。A の外であれば、そのような集合を見つけることができる。

上の説明がわかりにくいのは集合をものの集まりとして漠然と捉えるからだ。上の集合 A の要素である集合には暗黙に二つの要素が混じっている。一つは他の集合の要素となることのできる個としての集合だ。もう一つは、その集合が指示する個の集まりとしての集合である。この二つが混同されていたために集合にはパラドックスがあるような印象を受けるのだ。

このような集合の二面性は、ソシュールの記号論の概念を借りるとはっきりと表現できる。集合を外延的に定義すると次のようになる。

a = {a1, a2, a3}

これはものの集まりを a という記号(記号表現)で表すとき、それは 記号表現 a1, a2, a3 の集まり(記号内容)を表している。つまり、集合とは集合そのものを表す記号表現 a とその記号表現が指し示す a1, a2, a3 の集まり(記号内容)から構成されているのだ。

したがって、厳密に言うと上の 集合 A の要素は、集合の記号表現の集合である。ラッセルのパラドックスでは、この記号表現の集まりの中に、それらの記号表現のうち、「自分自身を要素として含まない集合(記号表現)を集めた集まり(これは確かに存在する)を指示する記号表現は A の中には存在できないということを示しているのだ。

つまり、集合 A の要素の中に「自分自身を要素として含まない集合」という集合 A の部分集合を記号内容とする集合(記号表現)を集合 A の中には見つけることができない。しかし、A の外部にはそのような集合を表す記号(記号表現)を見つけることができる。

このように集合を集合(記号表現)とその外延(記号内容)からなっているものと捉えることで、ラッセルのパラドックスの発生原因を特定することができる。

ラッセルの集合を表す集合は、常に集合の集合の外に存在する。このため、ラッセルの集合がその集合の中に存在すると考えるとパラドックスになってしまうし、全ての集合の集合は、ラッセルの集合を中に含まないといけないので、そのような集合を矛盾なく見つけることができない。

また、集合の集合 A を考えた時、その集合の要素の数は、その冪集合の要素の数に比べて不足するので、必ず、A の部分集合のうち A の要素では表現できないものが存在することがわかる。一般に言われる集合とはこの A の要素としての記号表現であり、この記号表現を持たない A の部分集合はクラスとして集合とは区別されると考えると、素朴集合論を別に公理的に定義しなくても矛盾なく集合を扱えるのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2016-05-13 08:16 | 考えるということ | Comments(0)

デマゴーグ

デマゴーグという言葉が気になったので Wikipedia を調べてみた。以下は Wikipedia の抜粋

デマゴーグ(独: Demagog)は、古代ギリシアの煽動的民衆指導者のこと。英語ではdemagogueであり、rabble-rouser(大衆扇動者)とも呼ばれ民主主義社会に於いて社会経済的に低い階層の民衆の感情、恐れ、偏見、無知に訴える事により権力を得かつ政治的目的を達成しようとする政治的指導者を言う。デマゴーグは普通、国家的危機に際し慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急かつ暴力的な対応を提唱し穏健派や思慮を求める政敵を弱腰と非難する。デマゴーグは古代アテネの時代より民主主義社会に度々現れ、民主主義の基本・原理的な弱点、則ち究極的な権限は民衆にありその中でより大きな割合を占める人々の共通の願望や恐れに答えさえすれば(それらがどの様なものでも)政治的権力を得られる、を利用した。

クレオン(Κλέων)はアテナイの政治家である。典型的なデマゴーグとされ、好戦的な主張で民衆を煽動した。

ペロポネソス戦争中の紀元前429年に指導者ペリクレスが病死すると、弁論術を武器に民衆の人気を集めたクレオンらは、スパルタとの和平案に反対し、民会で戦争の継続を主張した。このため戦争は続行されたが、クレオンは紀元前422年に戦死した。彼の死の翌年にニキアスの和約が成り、平和が訪れるかに思えたが、後に遠征軍が悲劇的な末路を遂げたシケリア遠征を唱えたアルキビアデスによって戦争は再開された。アテナイは適切な指導者を欠いたため漸次敗北した。紀元前404年に降伏したアテナイはギリシアの覇権を失い、デロス同盟は解散し、全てを失った。

「歴史は繰り返す」を見ないですめばいいのだが。

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by tnomura9 | 2016-05-11 12:38 | 話のネタ | Comments(0)