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カントールの定理 その2

カントールの定理では集合 X とその冪集合 2X の間に1対1対応がないことを対角線論法で次のように証明している。

集合 X からその冪集合 2X への写像 φ : X -> 2X において、つぎのような集合 Y = { x ∈ X : x /∈ φ(x) } に対応する x ∈ X は存在しない。なぜなら、x /∈Y ならば x ∈ Y でなければならないし、x /∈ Y ならば x ∈ Y にならなければならなくなるのでパラドックスが生じるからだ。

確かにどのような φ についても、全単射が存在しないのだから、集合とその冪集合とでは濃度が異なると言える。集合と冪集合に全単射が存在するという仮定は反例が一つあれば否定することが出来る。

しかし、この対角線論法のような背理法は何となく納得できない感じがつきまとう。たとえば集合 {1} の冪集合は {{}, {1}} であるが、これには自然数の集合のうち {1, 2} をとると f(1) -> {}, f(2) -> {1} という全単射を作ることができる。また、集合 {1, 2} のべき集合 {{}, {1}, {2}, {1,2}} の場合は {1, 2, 3, 4} を当てれば全単射を作ることができる。この論法でどんなに大きな自然数の部分集合のべき集合を作っても、それに見合う自然数の集合をとれば冪集合との全単射を作ることができる。そうであれれば、自然数全体のべき集合と自然数との全単射を作るのは可能ではないのだろうか。

そこで、集合 A = {1, 2} のべき集合 P(A) = {{}, {1}, {2}, {1,2}} に対し集合 B = {1, 2, 3, 4} の要素を対応させる f(1) = {1}, f(2) = {2}, f(3) = {1,2}, f(4) = {} となるような全単射 f を考える。すると C = {x ∈ B | x ∈ f(x)} = {1, 2}, D = {x ∈ B | x /∈ f(x)} = {3, 4} である。たしかに D = {3,4} に対応する自然数はない。

ここで B = {1,2,3,4} を別の目で見てみよう。これらは全単射で P(A) に対応しているからこれを P(A) の要素である集合と同一視してみよう。すると、1, 2 は自分自身を要素とする集合と見ることができるし、3, 4 は自分自身を要素として含まない集合と見ることができる。そうすると {3, 4} は自分自身を要素として含まない集合の集合になる。これは B = {1,2,3,4} の中には存在しないので、新しく集合を表す自然数として 5 = {3, 4} を B の要素として加えることにする。すると 5 は {3, 4} の要素ではないが、自分自身を要素として含まない集合になってしまい、ラッセルのパラドックスと同じ状況が発生する。

無限集合の冪集合と集合の要素との全単射がつくれないというカントールの定理は、形を変えたラッセルのパラドックスだったのだ。集合 B の要素のように要素が個としての性質と、集合としての性質を同時に持ってしまうことが、パラドックスの発生する原因だ。自然数の部分集合の冪集合の要素にはどのようなものについても自然数を対応付けることができるが、その対応付けによって自然数が数としての意味と集合としての意味を同時に持つようになるため、自分自身を要素としない集合(すべて)の集合に対応する自然数を見つけることができなくなってしまう。なぜならそういう集合はつくれないからだ。これを濃度が違うと言ってもいいのだろうが、どうしても違和感が拭えない。

自然数と実数の対応付けができないのも同じ理由になる。このブログの過去の記事でも述べたように、実数と自然数の冪集合との間に全単射があると考えることができるから、カントールの定理と同じ理由で、自然数と実数の全単射を作ることができない。しかし、それは、実数の中にどれだけでも稠密に自然数を対応付けることができるという性質を妨げるものではないのだ。

自然数の集合とその冪集合との全単射が作れないからその濃度が異なるのは間違いないだろうが、それを無限集合の要素の数が異なるという風に捉えるのは少し問題があるのではないかという気がする。むしろ、集合をものの集まりであるというものであると考えることで、ものに個としての性質と集合としての性質の2重の性質を与えることによる構造的な問題のような気がする。

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by tnomura9 | 2015-07-21 03:47 | 考えるということ | Comments(0)

ラッセルのパラドックスの記事リスト

1. ラッセルのパラドックスと自己言及

集合の定義からものの集まり {a, b, c, ... } を集合 A と考えることで、それまで想定していた集合の要素以外に新しい「もの」である集合 A が発生してしまう。また、述語 P(x) を充足する要素 {a, b, c, ... } を集めて集合 A であると定義した時に同時にそれらの要素とは異なる集合 A という新しい要素が発生する。

この要素に述語 P(x) を適用(自己言及)した時に A が P(x) を充足する、すなわち、P(A) が真になる場合と、A が P(x) を充足しない場合、すなわち、P(A) が偽になる場合が発生する。

この際に、集合 A が P(x) を充足しない場合は A の外延的定義と P(x) による内包的定義は一致する。しかし、P(x) を充足するどのような要素を集めて集合 A を作っても A が P(x) を充足してしまう場合、集合 A を作ると同時に A には含まれない要素であるが述語 P(x) を充足する集合 A が発生してしまうため、内包的定義では集合を定義することができなくなる。「自分自身を要素として含まない集合」という述語はその典型例だ。

自分自身を要素として含まない集合、例えば「犬の集合」のようなものを適当に集めて集合 R = {a, b, c, ... } を作る。このとき R は R の要素としては含まれない。なぜなら R = {R, a, b, c, ... } としてしまうと、R は自分自身を要素として含む集合になってしまうからだ。したがって、R = {a, b, c, ... } の要素には R は含まれない。しかし、まさにその故に R は自分自身を要素として含まない集合になってしまう。

しかし {a, b, c, ..., } が自分自身を要素として含まない要素「全て」の集合でなければ、このような集合は普通に存在する。自分自身が要素として含まれないにもかかわらず、自分が自分自身を要素として含まない集合という述語を充足するという形は普通にありえる。しかし、どんなに多くの自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作っても、その集合自身は必ず自分自身を要素として含まないにもかかわらず、述語を充足してしまう。したがって、述語を充足する要素「全て」を集めた「集合」はつくることができない。

その場合、P(x) を充足する要素の全体というものを考えることは可能だがそれは「集合」ということはできず「クラス」になってしまう。「クラス」を無理に「集合」と考えるとラッセルのパラドックスが発生してしまう。

2. 素朴集合論の有向グラフモデル

素朴集合論については、集合をノードとし所属関係という有向エッジでノードをつないだ有向グラフとしてモデル化できる。これは集合を集めた集合 A に所属関係という二項関係 Ψ(x, y) を導入したものと捉えることができる。このモデルでは集合 a (∈ A) の外延は {x | Ψ(a, x) = 1} で表すことができる。

この有向グラフによるモデルの最大の特徴は、集合 A の要素数では、集合 A のすべての部分集合を代表させることはできないということだ。すなわち、集合 A の要素の外延として定義できる集合 A の部分集合は、集合 A のべき集合の要素のほんの一部分のみである。すなわち、集合 A は集合を作る操作について自己完結的ではない。

また、この二項関係についての不動点定理 --- f(Ψ(x,x)) = Ψ(a,x) なら f(Ψ(a,a)) = Ψ(a,a) --- により、集合 A には「自分自身を要素として含まない集合の集合」を表す要素を見つけることはできない。

このように、素朴集合論におけるラッセルのパラドックスは有向グラフの性質として捉えることができる。

3. ラッセルのパラドックスの記事リスト

自然数と実数の濃度差

素朴集合論からパラドックスを追い出す

クラス

集合の属性とは何か

図書館の書籍目録と排中律

内包的定義が自己言及しなければ問題は解決するか

図書館目録のパラドックス

素朴集合論の復権

集合の定義の再帰性について

素朴集合論と排中律

素朴集合論の正体

集合と排中律

集合論への疑問

素朴集合論はちっとも素朴ではない

対角線論法を斬る

ラッセルのパラドックスと再帰

ラッセルのパラドックスと排中律

『ラッセルのパラドックス』の要点

ラッセルのパラドックスの謎が解けた

ラッセルのパラドックス 圏論 不動点

自分自身を要素として含む集合

排中律

ラッセルのパラドックスの意味するもの

内包的定義の適用範囲

内包的定義の問題点 自己言及性について

ラッセルのパラドックス

パラドックスのトリック


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by tnomura9 | 2015-07-19 18:37 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスのメカニズム

ラッセルのパラドックスのことについてあれこれ考えているうちにだんだん考えがまとまってきた。結局のところラッセルのパラドックスというのは、集合の外延的定義と内包公理の間のコンフリクトだった。

集合を外延的に定義すると、そこには要素の集まり {a, b, c, .. } という部分と、ものとしての集合 A という二つの要素が発生する。これは集合を集合とその内容のペア ( A, {a, b, c, ... } ) で考えると見通しが良い。内包的定義の述語 P(x) は {a, b, c, ... } の個々の要素 a, b, c に加えて集合それ自身の A に適用される。当然 {a, b, c, ... } は述語 P(x) を充足するので、問題は A が P(x) を充足するかどうかということになる。

したがって、集合を表すペア (A, {a, b, c, ... } ) は A が P(x) を充足する場合と、A が P(x) を充足しない場合に分かれる。このうち、A が述語 P(X) を充足しない場合は問題は生じない。この場合集合の外延的定義と内包公理による集合の定義は一致する。

問題は A が内包公理を充足してしまう場合である。ここで注意しておかないといけないのは P(x) を A が充足することが必ずしも A がそれ自身の要素であるとは言えないということだ。A は {a, b, c, ... } の要素としては含まれないが、同時に P(A) が真であるということはあり得る。ただしこの場合 {a, b, c, ... } の外に P(x) を充足する要素 A が出現してしまうので、P(x) を充足する要素の集まりが必ず集合になるという内包公理を適用すると、ラッセルのパラドックスが発生してしまう。

集合のペア (A, {a, b, c, ... } ) について {a, b, c, .... } によって充足される述語 P(x) を A が自分自身の要素ではないにもかかわらずこれを充足してしまうという例には次のようなものがある。「自分自身を要素として含まない集合」を適宜集めて集合 R を作ると、それ自身が「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。なぜなら、この場合に R が R 自身の要素として含まれるとしてしまうと、R は「自分自身を要素として含む集合」になってしまうので、R が R の要素として含まれることはない。したがって、 R は自分自身に要素として含まれないにもかかわらず述語を充足してしまうという事態はありえる。ところが、このような集合の極限としての「全て」の「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合を内包公理で定義することはできない。

このような場合でも述語 P(x) を充足する要素だけを次々に集めていくことはできる。しかし、そのような集まりを集合として括るたびに、そのなかに含まれない P(x) を充足する要素 A が発生する。これは内包公理を適用するとパラドックスになるので、いつまでたっても P(x) を充足する要素全てを含む集合を作ることはできない。したがって、集合のペア (A, {a, b, c, ... } ) のうち A が述語 P(x) を充足するものは内包公理で集合を定義できず「クラス」になってしまう。

「犬でないものの集合」は集合のペア (A, {a, b, c, ... } ) で A が述語「犬ではないもの」を充足する。このような場合はラッセルの集合のようにパラドックスは起こさず (A, {A, a, b, c, ... } ) というペアを定義できる。しかし、このような集合は実際は、

A = {A, a, b, c, ... } = {{A, a, b, c, ... }, a, b, c} = {{{A, a, b, c, ...}, a, b, c, ... }, a, b, c, ...} = ....

という無限に展開される異常な集合になってしまう。したがって、「犬でないものの集合」の場合も内包公理で定義できない「クラス」であると考えるべきである。つまり、(A, {a, b, c, ... }) というペアで、A が P(x) を充足してしまい集合が内包公理で定義できない集まりと考える。この場合は {a, b, c, ... } という要素の集まりには異常な要素は発生しないが、内包公理では集合が定義できない集まりである。

要するに P(x) が A に自己言及された時、P(A) が偽となるものは内包公理で集合が定義され、P(A) が真となるものは内包公理でクラスが定義されると考えるとすっきりする。

素朴集合論の「ものの集まりは集合というものである」という直感的な定義は、ものの集まり以外にその集合自身という新しいものを作り出してしまう生成的な定義だ。内包的な定義で要素を集めた時に、その要素以外にその集合自身という余計なものが発生してしまう。

この余計に生じてしまった要素に述語を適用するというのはおかしな話だが、その余計な要素を取り入れて新しく述語を充足する要素を集めなおして集合を作り直すことは可能だ。しかし、その場合にもその集められた要素以外に新しい集合それ自身というものが発生してしまう。この操作が無限に繰り返されれば、述語を充足する集合の要素はどんどん増えて行く。しかし、いつまでたってもそれらの要素全てを含む集合を作ることはできない。

「自分自身を要素として含まない集合」という述語は、次々に新しい要素を作り出して取り込んでいく。また、その際に作り出された要素やそれ以外の述語を充足しない要素を含めて、その述語は要素に対して常に真か偽の値を示す。すなわち、排中律は破られない。それにもかかわらず、「自分自身を要素として含まない集合「全て」を集めた集合を作ることはできないのだ。

内包公理はすでにある要素について、述語を充足する要素の集まりを定めることができる。しかし、その集まりを集合として定義した時に、どうしても、それまでに存在した要素以外に、集合それ自身というものが発生してしまう。このため、内包公理で定められる集まりは「集合」にできるものと、集合にできないが共通の性質を持った要素の集まりである「クラス」になるものの二つに分かれてしまうのだ。

内包公理の役割をこのように捉えると、自分自身を要素としない集合の集合はそれ自身に含まれることはないため、ラッセルのパラドックスは発生せず、素朴集合論には矛盾はないことがわかる。

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by tnomura9 | 2015-07-16 23:28 | 考えるということ | Comments(0)

自分自身を要素として含む集合は存在するか

自分自身を要素として含む集合は存在するだろうか。プロ野球で監督でキャッチャーという選手もいたし、「犬でないものの集合」はそれ自身が「犬でないもの」なので、そういう集合はあってもいいような気がする。しかし、素朴集合論の外延性の公理の性質から、集合は自分自身を要素として含むことはないことが分かる。

外延性の公理とは、ある集合と別の集合が等しいというための必要十分条件は、その集合の要素が全て一致することだという公理である。たとえば A = {1, 2}, B = {2, 3} という集合があったとき、A = B であるためには、その要素が全て一致していなければならない。この場合要素の 2 は一致しているが、1 と 3 が一致していないので A = B ではない。

至極わかりやすい公理だが、自分自身を要素として含む集合にこれを適用すると厄介なことが起きる。自分自身を要素として含む集合の最も簡単な例は「自分自身だけを要素として含む集合」だ。つまり A = {A} だ。しかし、B = {B} という別の「自分自身だけを要素として含む集合」が存在した時、A と B は同じものだろうか。

A = B を証明するためには、外延性の公理によって A の要素と B の要素は一致しなくてはならない。A の要素は A だけだし、B の要素は B だけだ。したがって、要素である A が要素である B と等しければ A = B が証明されるが、そのためには A = B でなくてはならず、最初の議論に戻ってしまう。したがって、A = B を証明するために外延性の公理を適用してもその適用は無限に終わらない。つまり、A = B とも A /= B とも証明できないということになる。

集合の一意性を求めるために外延性の公理を適用した時のこのような無限後退は、A = {A} ばかりでなく、A ={ A, a, b, ... } のように自分自身を要素として含む集合全てについて見られる。すなわち、自分自身を要素として含む集合についてはその一意性を外延性の公理を利用して証明することができない。

したがって、素朴集合論の段階でも「自分自身を要素として含む集合」は存在しえないということが分かる。素朴集合論でも集合は全て「自分自身を要素として含まない集合」なのだ。そうであれば、述語の自己言及は起こらない。

「自分自身を要素として含まない集合の集合」が存在するとすれば自分自身は自分自身の要素であってはならない。しかし、まさにその故に「自分自身を要素として含まない集合の集合」自身も「自分自身を要素として含まない集合」という述語を充足してしまう。

内包公理に従うと、その集合自身も自分自身の要素として含まれなくてはならないが、自分自身を要素として含む「集合」は素朴集合論には存在しない。したがって、内包公理では「自分自身を要素として含まない集合」という述語では「集合」を定義できない。すなわち、ラッセルのパラドックスは起こらない。

このように、内包公理は述語の性質によっては外延性公理に抵触するため、適用の部分的な制限が必要だということだ。つまり、内包公理では「集合」を定義できない場合があるということだ。内包公理で集合を定義した時、その集合が自分自身を定義する述語を充足するときは、内包的定義で定義できるのは「集合」ではなく「クラス」になる。

ところで、素朴集合論に「自分自身を要素として含む集合」が存在しないのは、外延性の公理を採用しているためで、「自分自身を要素として含む集合」も取り扱える体系はあるかもしれない。しかし、その場合は外延性の公理は採用できず、それを含むもっと強い公理が必要になるのだろう。

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by tnomura9 | 2015-07-13 06:59 | 考えるということ | Comments(0)

集合とクラス(ラッセルのパラドックスへの回答)

1. ラッセルのパラドックスとクラス

素朴集合論による「集合とはものの集まりという『もの』である」という集合の定義からラッセルのパラドックスが発生する。つまり、「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えると、その集合自身は自分自身を要素として含むと仮定しても、含まないと仮定してもパラドックスになってしまう。

しかし、「自分自身を要素として含まない集合」という述語を満たす要素の集まりは考えることができる。ただし、それは集合ではないのでこれらをクラスと呼ぶようだが、このクラスと集合の違いがいまひとつはっきりしない。それは、何が集合かということが明示されていないからだ。

2. 集合とは何か --- 集合の定義と外延性の公理

この集合とクラスの区別は、集合の定義とその反対方向の外延性の公理を組みにして考えるとすっきりするような気がする。集合の定義「集合とはものの集まりというものである」は再帰的な定義なので、今ある要素や集合を元に新しい集合を作り出すことができる。逆に「集合 A, B について A = B であるのは、A と B の要素がすべて一致するときに限る」という外延性の公理は、集合をその要素に分解して任意の集合の成り立ちを明らかにするという集合の定義と逆の方向性を表している。

また、外延性の公理は、集合の一意性がその要素に依存していることを示している。集合 A と集合 B が同じであるかどうかは、外延性の公理を適用して、その要素を比較しなければ証明できない。

したがって、集合の定義と外延性の公理を組み合わせると、集合とは何かということを厳密に定義できる。すなわち、集合はものの集まりだが、外延性の公理を順次適用して行って、すべてが集合ではない要素にたどり着くものに限ればいい。こうすれば、自分自身を要素とする集合は自然と排除される。なぜなら、集合が自分自身を要素として含んでいると、外延性の公理を適用して要素を求めても、悪循環のためにいつまでも集合ではない要素に到達しないので、外延性の公理の適用が無限に続くからだ。

3. クラスとは何か

それでは、クラスとは何かということだが、クラスが集合ではないというためには、それが、外延性の公理を満たさないことを言えば良い。

ところで、外延性の公理を適用するためには集合の要素が確定できなくてはならない。有限集合の場合は問題ないが、無限集合の場合、要素を列挙するためのアルゴリズムが存在しなければならない。たとえば、自然数の集合は無限集合であるが、任意の数が自然数であるかどうかは、「N が自然数であれば、N + 1 も自然数である」という再帰的定義を逆にたどれは、必ず判定できる。この場合は無限集合であっても集合の要素は確定していると言ってよい。

しかし、自分自身を要素としない集合の集合はこのアルゴリズムが存在しない。集合の定義を使って自分自身を要素としない集合をどんなに集めて集合を作っても、その集合が健全な集合であるためには、自分自身を要素としては含まない。そのため、その集合に要素として含まれない自分自身という「自分自身を要素としない集合」が発生してしまうからだ。いいかえると、どんな大きな集合であっても、自分自身を要素として含まない集合「すべて」を集めた集合になることはない。

したがって、「自分自身を要素としない集合」はいつでも見つけることができるにもかかわらず、そのような集合全てを要素とする集合は集合の定義からは作れない。これは、「自分自身を要素としない集合の集合」という内包的定義では集合が作れないことを意味している。

一方、これは自分自身を要素として含む集合とは異なる。自分自身を要素として含んでしまうと、外延性の公理によって集合の要素をたどっても悪循環のために永遠に探索が終わらないが、「自分自身を要素として含まない集合のクラス」の場合はそのような異常な要素は発生しない。どの要素をとっても「自分自身を要素としない集合」は確定する。しかし、それを全て集めて集合の定義を使って「集合」を作ることができないだけだ。

4. クラスと整数の無限大

このあたりの事情は自然数の無限大とのアナロジーで理解することができる。自然数には最大数はない。最大数 N があると仮定しても自然数の再帰的定義で N + 1 は最大数より大きい自然数となりこれは仮定に反する。したがって、自然数の集合には最大数は存在しない。

クラスの場合も同じようなことが言える。考えられうる限りの「自分自身を要素としない集合」を集めてきても、集合の再帰的定義から、それらを集めた集合は自分自身が要素には含まれない「自分自身を要素としない」集合になる。最大の集合を作っても、それに含まれない要素が発生してしまうのだ。したがって、「自分自身を要素としない集合」のあつまりには「自分自身を要素として含まない集合」を集めた最大の集合は存在しない。

自然数の場合、偶数と奇数のどちらかであるはずだが、無限大は偶数とも奇数ともいうことができない。おなじように、「自分自身を要素として含まない集合の集合」は集合ではないので、これを集合と考えるとラッセルのパラドックスになってしまうのだ。

整数の無限大とクラスの類似は、整数の定義と集合の定義が共に再帰的定義であることによっている。再帰的定義は基本的に現在ある要素から新しい要素を作り出す生成的な定義になっているので、整数の最大数を仮定してもそれより大きな整数を見つけることができ、最大の集合を仮定してもその要素に含まれない新しい要素が生成される。

5. いろいろなクラス

すべての集合の集合もクラスだ、上の定義では正常な集合は自分自身を要素としては含まないので、どのような集合を集めてもそれ自身は自分自身の要素ではない。したがって、すべての集合を要素とする集合は作ることができない。

猫でないものの集まりもクラスだ。猫の集合は集合だが、「猫でないもの」を集めた集合は自身が「猫でないもの」になる。正常な集合は自分自身を要素として含まないから、「猫でないものの集まり」は集合ではなくクラスになる。これは「猫でないものの集合」に自分自身が要素として含まれるという意味ではなく。集合の定義で「猫でないもの」を集めて集合を作ると、どうしてもその集合に含まれない「猫でないもの」である自分自身が発生してしまうからだ。

6. クラスと排中律

猫の集合と「猫でないもの」のクラスについて考えると面白いことがわかる。それは、それらを合わせると、考えうるどの要素についても「猫である」か「猫でない」かを言及することができるからだ。つまり、排中律は破られていない。

ラッセルのパラドックスでは、集合は「自分自身を要素として含まない集合」か「自分自身を要素として含む集合」のいずれかであるのにパラドックスが発生するので、排中律が破られているように見えるが、正常な集合は自分自身を要素としては含まないので、「自分自身を要素とする集合」は存在しない。集合は全て「自分自身を要素して含まない」。したがって、全ての集合のクラスの個々の要素である正常な集合について排中律は破られていない。

7. まとめ

「自分自身を要素としない集合のあつまり」や「すべての集合のあつまり」や「猫でないもののあつまり」は要素の集まりとしては存在するにもかかわらず。集合の定義と外延性の公理を組み合わせることで、それが集合でないことを厳密に示すことができる。

したがって、集合とクラスとの曖昧にみえる区別は、上の2つの公理を適用することで厳密に定義できる。

8. 追記

上の議論のポイントの一つ目は、集合が健全な集合であるかどうかは、その集合に外延性の公理を適用した時に有限のステップで終了するかどうかで判定できるということだ。

集合の一意性は外延性の公理によってその要素に依存する。しかし、その要素に集合が含まれていた場合その要素である集合の一意性もまた外延性の公理によってその要素に依存する。その要素の要素に集合が含まれていた場合、さらに外延性の公理によってその要素を調べる必要がある。こうして、もとの集合を構成するすべての要素のうち集合であるものについてもれなく外延性の公理が適用されれば、最初の集合の一意性が証明される。

ところで、集合は、それが自分自身を要素として含む場合と、自分自身を要素として含まない場合に2分される。このうち、自分自身を要素として含む集合には、外延性の公理を集合から要素にとレベルを下りながら適用していった時に悪循環のためにその適用が永遠に終了しない。このような集合の一意性は外延性の公理の適用では証明されない。このような集合は病的な集合と考えて排除される。また、二つの集合で相互に相手を要素として含む場合もあるが、このような場合も外延性の公理の適用が停止することはない。集合の構成の中で悪循環が一つも含まれず外延性の公理の適用が有限で停止するもののみを健全な集合と考えるべきである。

したがって、健全な集合はすべて自分自身を要素としない、あるいは、その構成に悪循環を含まない集合のみから構成されていると考えられる。

ポイントの2つ目は、全て自分自身を要素として含まない健全な集合を集めて集合を作った場合でも、集合の要素が充足する述語を、それ自身が充足してしまう場合があり、このような集合を内包公理で記述することはできないということだ。

たとえば、「猫の集合」は猫ではないのでそれ自身は述語を充足しない。しかし、「猫でないものの集合」は猫ではないので自身が述語を充足してしまう。

述語は全ての要素や集合について適用されると必ず真か偽の値が得られる。したがって、集合の要素が充足する述語は、集合がそれを充足する場合と、充足しない場合に分けられる。集合がその要素が充足する述語を充足しない場合は問題は起きない。このような集合は述語を充足する要素の集合として内包公理で記述できる。問題は集合が要素が充足する述語を自分自身も充足してしまう場合だ。

内包公理は述語を充足するすべての要素の集まりは集合であるとするが、集合の要素が充足する述語をその集合も充足してしまう場合は、内包公理で集合を記述できない。健全な集合は自分自身を要素としては含まないので、たとえ述語を充足してもそれが自身の要素となることはない。このような状況を内包公理では記述することができないのだ。

言葉を変えると、集合を規定する述語がそれ自身に自己言及された時、その集合自身が述語を充足しないものが集合であり、それ自身が述語を充足する場合はクラスになるということだ。そうして、クラスを内包的定義で記述することはできない。

注意しないといけないのは、内包公理で集合が記述できない上のような状況でも、述語を要素に適用した時に真か偽の値しか現れないという排中律は破れないということだ。したがって、クラスの要素はどれも述語を充足する。にも拘らず、クラスが集合であると考えるとパラドックスになってしまう。クラスについては次のように考えることができる。すなわち、クラスの要素はどれも述語を充足する、しかし、それらの要素の外に常に述語を充足するクラス自身が存在してしまうということだ。

9. 追記2

集合が自分自身を要素として含まないにもかかわらず、要素が充足する述語を自分自身も充足してしまうという状況とはどういうものなのかと気になるが。たとえば、犬の集合 D と猫の集合 C を要素とする集合 A = { D, C } を考えてみよう。明らかに D は「自分自身を要素として含まない」という述語を充足しているし、C もそうである。さらに A も自分自身を要素としては含まない。

このように、普通に見られる集合について、集合が自分自身の要素でないにもかかわらす、その要素と集合自身が同じ述語を充足する場合はよくある。しかし、このような場合に内包的な定義で「自分自身を要素として含まない集合すべての集合」を作ろうとしても、そのような集合は作ることができない。集合自身は述語を充足するにもかかわらず、その要素としては含まれないからだ。

自分自身を要素として含まない集合を集めて作った集合は、自分自身を要素として含まないので、「自分自身を要素として含まない」という述語を充足してしまう。しかし、それゆえに、自分自身を要素としない集合「すべて」を集めた集合にはなり得ないのだ。

クラスのどの要素を取っても内包的定義の述語を充足するにもかかわらず、それを集合と考えるとパラドックスが発生してしまうのは不思議な感じがするが、クラスの要素の集まりを集合としてくくってしまうと、その集まりには含まれていない、集合という「もの」を考えなくてはならず、それが述語を充足してしまうために、内包的定義ではそれをそれ自身の要素として考えなくてはならなくなり、パラドックスが発生してしまうのだ。

また、外延性の公理の適用によって、健全な集合を定義することができる。健全な集合とは、外延性の公理によって、集合の要素を次々に調べてつくられる集合の構造図をもった集合である。このような集合では、自分自身を要素として含むことはできない。

ところが、「猫でないものの集合」は一見自分自身を要素として含んでも矛盾は起きないように見える。このため、ラッセルの集合と違って、「猫ではないものの集合」はラッセルの集合のような真のクラスとは分けて論じられているが、上で述べたように健全な集合は自分自身を要素として含む事はないため、「猫でないもののクラス」もやはりラッセルのクラスと同じ真のクラスなのだ。

10. 追記3

要するに、集合が自分自身を要素として含むことはないこと。集合の要素と集合自身が同じ述語を充足するとき、その述語では内包的定義で集合が定義できないことという2つのポイントを押さえておけば、素朴集合論のイメージでも特に矛盾はおきない気がする。

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by tnomura9 | 2015-07-01 08:30 | 考えるということ | Comments(0)