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「もの」の集まりという「もの」

ラッセルのパラドックスが起きるのは集合を「ものの集まりというもの」として定義したために、ものとしての集合に内包的定義を適用すると矛盾が起きる場合が発生するからだ。集合をものの集まりの単なる記号と考えてものとは考えない方法も考えることができるが、そうなると、集合の集合のようなものが考えられなくなるので取り扱いが面倒になる。

階梯理論では「もの」に型を与えることによって、自己言及を防ぎつつ、集合の集合も作れるようにというのがアイディアの元だと思うが現在はあまり使われていないようだ。

集合を「ものの集まりというもの」と定義するやり方は、再帰的定義であるので、次々に新しい「もの」を創りだしてしまう。最初は空集合 {} のみを集合と考えていても、空集合を要素とする集合 {{}} 、空集合と空集合を要素とする集合からなる集合 {{}, {{}}} のように新しい集合を無限に構築していくことができる。この定義によって形成される集合の空間は必然的に無限の「もの」から構成されることになる。

だから、全ての集合の集合などと言うものを考えても、すぐに全ての集合の集合を要素とする集合を考えなくてはならなくなるので、全ての集合の集合という「もの」が存在しないことが簡単に分かる。全ての集合の集合というものは自然数の無限大のようなもので集合としては存在できないのだ。つまり全ての集合の集合が集合の中で最大のものだと仮定しても、全ての集合の集合の要素を含み、全ての集合の集合自身も要素とする集合を考えると、それは全ての集合の集合を包含し、その上に全ての集合の集合以外の要素を含んでいるため、全ての集合の集合より大きいことになる。

いや、無限集合の場合は濃度が同じ場合もあるので、簡単には言えないという考え方もあるかもしれないが、集合の大きさを全単射が存在するということと同じと考えるのはどうかと思う。自然集合 {1, 2, 3, ... } は、明らかに偶数の集合 {2, 4, 6, ... } よりは大きいと考えるのが自然な考え方だろう。確かに、次のように両者の列を並べると、1対1に対応しているように見えるが、

1, 2, 3, 4, 5, ...
2, 4, 6, 8, 10, ...

それは、順々に並べていって列挙できるという性質が共通しているということを意味しているのであって、決して集合の大きさが同じという風に無邪気に言ってはいけないのではないだろうか。

集合の濃度の考え方の疑問は置いておいて、要するに、「全ての集合の集合」という内包的定義があったとしても、それが集合を定義できない場合もあるのではないかということである。

閑話休題、ラッセルのパラドックスが問題とされたのは、このような集合の世界に排中律が成立できないということを証明したからだ。空集合から始まって構築された集合の世界であったとしても、それは多くの「もの」の集まりからできている。それらのうちから一つをとりだして、述語を充足できるかできないかを問うのが排中律だ。排中律が成立するためには、考えられる全ての「もの」について述語によるテストは真か偽の値を導かなければならない。

この場合、集合の世界の要素は述語 P(x) を充足し真を返すものと、充足せず偽の値を返すものに分けられる。すると、P(x)を充足する要素(集合)が存在するのでそれを集合と考えることができるはずだ。

しかし、ここで注意しておかなければならないのは、述語 P(x) を充足する要素の集まりはあくまでも「集まり」であって集合ではないということだ。この集まりを一括りにして「もの」ととして扱うことによってそれは集合という「もの」であるということができる。すなわち、この集合という「もの」にも内包的定義を適用するということである。つまり、自己言及である。この自己言及ができない場合、この集まりを集合と言うことはできない。

これについては、次のように考えたほうがわかりやすいかもしれない。内包公理で集合が定義できるできないに関わらず、要素や集合という「もの」がもともとあると考えるのだ。そうすると、その「もの」の集まりに排中律が成立するためには、P(x) という述語をすべての「もの」に適用した時に必ず真か偽の値が得られなくてはならない。この述語を適用するものの中には、述語の自己言及も必然的に含まれる。述語の適用を自分自身だけには行わないというわけにはいかないからだ。

しかし、述語の自己言及がパラドックスになってしまう場合、そのような集合という「もの」は存在できないと考えなければならない。つまり、内包的定義を満たす「もの」の集まりは考えることができるが、その集まりを集合という「もの」として扱えない場合がおきるということだ。

このような集合という「もの」として定義できない「ものの集まり」はラッセルの集合に限らない。「犬の集合」が集合として存在できれば、「犬でないものの集合」は集合としては存在できない。なぜなら、「全ての集合の集合」は集合としては定義できないからだ。

このように、述語 P(x) を真とすることと、そのような要素の集まりが集合という「もの」と考えるということを分けて考えなければならない。たとえ有限集合であっても、内包的定義による要素の集まりが集合という「もの」として考える事ができない場合があることは「図書館のパラドックス」によって知ることができる。

内包的定義で要素が色分けできるということと、それを集合という「もの」として考えることの間の微妙な差によってラッセルのパラドックスは発生してしまった。内包的定義をみたすものの集まりを考えることができるにもかかわらず、内包的定義では、集合という「もの」を定義することができない場合もあるというのが、ラッセルのパラドックスの正体だったのではないだろうか。

ラッセルのパラドックスによって暴露された素朴集合論の矛盾とは、集合を「ものの集まりというもの」と考える定義と、内包公理の微妙な不整合によって引き起こされたと考えるべきだろう。したがって、内包公理を制限した公理的集合論では矛盾を排除できたのではないだろうか。

何か靴の上から足の痒いところを掻くような議論になってしまったが、集合を要素と同一レベルの「もの」として扱う定義が、内包的定義の自己言及を必然的に発生させるために、排中律との間に微妙なズレができるのではないかということで、最近のラッセルのパラドックスの記事を締めくくりたいと思う。
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by tnomura9 | 2014-12-30 11:44 | 考えるということ | Comments(0)

実数が自然数の集合である理由

実数は自然数の集合であるというと奇妙に思えるかもしれないが、次のように考えると実数が自然数の集合としての性質を持っていることがわかる。

いま、二進数の小数点下だけで構成される数を考える。つまり、0以上1未満の数である。そういう数 a は一般に次のように表現することができる。

a = 0.1001101.....

つまり、こういう数は小数点下のどの桁が 1 または 0 であるかで数の値が決まる。そこで、自然数 1, 2, 3, ... をこのような数の桁に対応させる。すなわち、1 -> 小数点下1、2 -> 小数点下2、... のようにする。

このとき、上の a は小数点下 1 と 4, 5, 7, が1で 2, 3, 6 は 0 であるから、自然数の集合 {1, 4, 5, 7, ... } で表現することができる。このようにすると、0以上1未満の任意の実数は自然数のべき集合の要素と全単射で対応させることができる。すなわち、0以上1未満の実数の濃度は自然数のべき集合の濃度と等しい。

ここで、集合とそのべき集合の間では全単射が存在しないというカントールの定理を考えてみよう。いま、自然数 X から、そのべき集合 2X への写像 ψ を考えて見る。ここで、自然数の ψ による X の 2X への像を A とすると、A については ψ は全射であるから、A は対応する自然数 x を要素に含むもの、すなわち x ∈ ψ(x) のものと、含まないもの 、すなわち、x /∈ ψ (x) であるものに二分できる。

そこで、X の部分集合である Y = {x ∈ X | x /∈ ψ(x)} を考える。これは自然数 a に対応する ψ(a) が a を要素として含まないような a を集めた集合だ。ところで、このような Y は A の要素として存在できるだろうか。つまり、Y に対応するような自然数を見つけることができるだろうか。

この問題は次のように否定的に解決される。つまり Y に対応する b が存在するとしたとすると、b /∈ Y でなければならないが、このことは b ∈ Y であることを示している。逆に b ∈ Y であるとしてもパラドックスが起きる。したがって、Y に対応する自然数 b を見つけることはできない。したがって Y は A の要素として含まれることはない。

このことは、A = 2X となることは不可能であることを示している。2X の要素の少なくとも一つには対応する自然数を見つけることはできないからだ。したがって、自然数からそのべき集合への全射は存在しない。

ところで、上で述べた実数と自然数のべき集合の対応関係を考えると、この Y がまさに対角線論法で示された、自然数との対応関係が作れない実数に対応していることがわかる。なんとなく腑に落ちなかった自然数と実数の間の全射がないという議論も、このように集合とそのべき集合の間の関係に置き換えて考えることができれば納得がいく(かもしれない)。

このような置き換えをしてみると、自然数と実数の対応関係が数と数の対応関係ではなく、数とその桁との対応関係になっていることがわかる。したがって、この議論を持って自然数と実数の濃度が違うという表現をするのがふさわしいのかどうかという疑問が湧く。

また、実数に一点が存在するのかというのも実数を集合と考えれば納得でできる気がする。実数には隣の数というものがない。そのような数にはたして自然数の一点という考え方を適用できるのかという疑問があるが、実数を集合と考えれば納得がいく(?)。実数は無限集合として確かに一点であるが、他の点とはその要素の差によってのみ区別できるということである。

こう考えていくと 1 = 0.99999 であるかという問いに別の見方が出来る。一般には両者の差を取ることはできないので両者は等しいと考えられている。しかし、実数を集合として捉える考え方からは、両者はあきらかに別の集合である。その要素があきらかに異なっているからだ。しかし、その差を取ることはできない。

実数を自然数の集合と考えることで、対角線論法が分かりやすくなるのではないかと思ったのでこの記事を書いてみた。
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by tnomura9 | 2014-12-27 06:07 | 考えるということ | Comments(0)

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武田梨奈の頭突き瓦割りをみたときの驚きを思い出した。なんでもCGでできる時代で、あえて実写というのがいいのかもしれない。
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by tnomura9 | 2014-12-25 08:15 | 話のネタ | Comments(0)

実数を集合で表す

2進数で、0.1, 0.01, 0.001, ... からなる集合 X を考えるすなわち、X = {0.1, 0.01, 0.001, 0.0001, ... } だ。分数で表記すると X = {1/2, 1/4, 1/8, ... } である。

そうすると、あきらかに集合 X のべき集合 2X の要素は 0から1までの実数と1対1対応している。したがって、カントールの定理から、2X の濃度は X の濃度より大きい。 一方、X の要素は x = 1/n で自然数 {1, 2, ... } との全単射があるから、自然数の濃度と等しい。したがって、実数の濃度は自然数の濃度より大きいことがわかる。

これをみると、実数のひとつの要素は他の実数の要素と違う個体として認めることができるが、それは集合としての個体であることがわかる。

そこで、集合 X の要素は 0.1, 0.01, ... のように順番に列挙していくことができるのでこれを自然数の集合 {1, 2, 3, ... } と同一視する。すると実数の集合は X のべき集合 2X と同一視できる。したがって、自然数と実数の対応関係は前回の記事で述べたような有向グラフで表すことができることがわかる。

そのような有向グラフのうち自分自身にエッジを送らない X の要素の集合 Y を考えるとこれは X のべき集合の要素のひとつになる。すなわち1個の実数をあらわす。そうして、このような要素に対応する X の要素は見つけることができない。これが自然数と実数の全単射が作れない理由だ。つまり、自然数の集合 X から X のべき集合という実数の集合を作り出す過程で必然的に自己言及を発生してしまうのだ。

しかしながら、はっきりと自然数と対応づけることのできないと分かる実数はこの Y しかない。これは、実数の要素が集合としての個体であるということがその本質をなしているからだ。実数の要素は自然数のべき集合だから、必然的に自己言及を引き起こしてしまうためだ。しかしながら、この Y 以外の実数についてはそれに対応する自然数を見つけることができる可能性は否定できない。自然数と濃度の同じ有理数はどれだけでも稠密にしていくことができるからだ。

自然数と実数の濃度の違いと言ってもこのように自己言及による高々1点に過ぎないのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2014-12-21 20:59 | 考えるということ | Comments(0)

カントールの定理と有向グラフ

カントールの定理は集合とその冪集合との全単射が作り得ないことを鮮やかに証明したが、鮮やかすぎてなぜそういうことが起きるのかのイメージが作りにくい印象を受ける。管理人がどうしても対角線論法に対する違和感を払拭できない理由だ。

数学の定理は「そうである」という証明とともに、「なぜそうなるのか」という意味も提示する必要があるのではないだろうか。対角線論法をよんでも「なぜそうなるのか」という部分がもう一つよくわからないのだ。

そこでカントールの定理の状況を有向グラフで表現するとどうなるかを考えてみた。今集合 X を取り上げて、その要素をノードとするグラフを考える。ここで、このグラフの任意のノードの集まりは集合 X の部分集合である、すなわち集合 X のべき集合 2X の要素であることは明らかだ。そこで、集合 X の要素の一つの a にこの部分集合の要素から集合 X の要素への有向のエッジを引くと、a がその部分集合を代表しているのは明らかだ。また、この関係は、a が 2X のひとつと対応しているとも見ることができる。

このようなネットワークのうち、a が対応する部分集合の要素として含まれている場合は a から a 自身へのエッジがある。また、a から a 自身へのエッジがない場合は、a は対応する X の部分集合の要素としては含まれない。そこで、集合 X の部分集合のうち a から a 自身へのエッジがないものを集めた部分集合 Y を考えてみる。集合 X から作ったこのようなグラフについて、どのようなエッジのとりかたをしても、そのノードからこのようなノードの集合 Y を考えることができる。

そこで、この Y に対応する X の要素 b はどのようなものであるか考えてみる。つまり、この Y の要素全てからのエッジを b が受けると考えるのだ。このとき b は b 自身へのエッジを受けるのだろうか。b が自分自身へのエッジを受ければ、b は自分自身へのエッジをもたないノードの集合に対応しているとはいえないし、b が b へのエッジを受けていなければ、b は b 自身へのエッジがないノードなので b にエッジを送らなければならなくなる。

こういうふうに考えると、カントールの定理はラッセルのパラドックスと同じ構造を示しているに過ぎないということが分かる。ラッセルのパラドックスの場合も素朴集合論の世界を有向グラフでモデル化をすると「自分自身を要素として含まない集合の集合」は存在できなかった。「自分自身を要素として含まない集合」の集まりは存在するが、それを有向グラフの「中で」集合というノードとして表現できなかった。しかし、そのようなノードの集まりは、有向グラフの外からは集合という「もの」として表現できるのは、以前に述べた図書館のパラドックスからも明らかだ。

また、ゲーデルの不完全性定理のイメージについても同じようなことが言えないだろうか。公理から始まって、証明可能なエッジで結合された定理のネットワークにおいて、自分では自分自身を証明しない全ての定理を使って証明される定理を作ることができない。そのため、形式的方法でその体系の全ての定理を証明することは不可能なのだ、それは、そのネットワークにどうしても自己言及が発生してしまうからだ。

カントールの定理は、集合とその冪集合の要素との対応について、このような自己言及が発生してしまうということを証明している。したがって、集合と冪集合の要素の全単射は存在しないが、それに対し集合の濃度というイメージを与えたために、無限集合と無限集合の要素数の違いなどという甚だイメージの曖昧な解釈を生み出してしまったのではないだろうか。数学には驚きはあっても不思議はあってはならないような気がする。
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by tnomura9 | 2014-12-21 08:26 | Comments(0)

カントールの定理

カントールの定理では集合 X とその冪集合 2X の間に1対1対応がないことを対角線論法で次のように証明している。

集合 X からその冪集合 2X への写像 φ : X -> 2X において、つぎのような集合 Y = { x ∈ X : x /∈ φ(x) } に対応する x ∈ X は存在しない。なぜなら、x /∈Y ならば x ∈ Y でなければならないし、x /∈ Y ならば x ∈ Y にならなければならなくなるのでパラドックスが生じるからだ。

確かにどのような φ についても、全単射が存在しないのだから、集合とその冪集合とでは濃度が異なると言える。集合と冪集合に全単射が存在するという仮定は反例が一つあれば否定することが出来るからだ。

しかし、ここでは Y が一体どのような集合であるかが問題にされていない。定義からは集合 X の要素は、かならず x ∈ φ(x) になるものと、x /∈ φ(x) になるものに分けることができる。そうであれば集合 X の部分集合 Y は必ず存在することになる。

確かに X の要素のうちから集合 Y に対応する要素を見出すことはできないかもしれない。しかし、X の外に要素 a をとってそれを Y と対応させることができれば、a と X の要素からなる集合と 2X の要素とを1対1に対応させる写像が作れるのではないだろうか。それに対する否定的な証明は上の証明からは得られないのではないだろうか。

したがって無限集合と無限集合の冪集合の濃度の差はただ1点のみではないのかという疑問が生じてしまう。無限集合 X とその冪集合 2X の濃度差が無限であると証明するのにはどうすればいいのだろうか。
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by tnomura9 | 2014-12-19 13:40 | 考えるということ | Comments(0)

図書館の内と外

図書館の書籍を素朴集合論の要素にたとえ、書籍の目録を集合に例えるやり方は、単に寓話的なパラドックスを提示するという以上の意味を持っている。

書籍の目録を集合と考えることの意義は、集合を目録という書籍として把握することで、要素も集合も等しく書籍という「もの」として扱えることを示している。「集合とはもののあつまりである『もの』である」という定義を書籍の目録はきちんと体現している。目録が書籍のあつまりであることを代表しているのは、目録の内容が書籍の集まりに対応していることでわかるし、ものの集まりである集合が目録という書籍という要素としての書籍と同列の「もの」であることも集合の定義に合致している。

集合を図書館の書籍目録に例えるやり方は、論理的な素朴集合論をきちんと目に見える形で可視化している。

この図書館の書籍は、自分自身に言及する書籍と、自分自身に言及しない書籍にきれいに別れるにもかかわらず、図書館の蔵書に「自分自身に言及しない書籍全ての目録」を作ることはできない。そういう目録をつくろうとするとパラドックスになってしまうからだ。

つまり、明らかに「自分自身に言及しない書籍全ての集まり」があるにもかかわらず、その集まりを代表する目録という集合を作ることができない。そのような集まりは集合ではなくクラスになってしまう。

しかしながら、図書館の蔵書でなければ、つまり、図書館の外の書籍であれば、「自分自身に言及しない図書館の書籍全て」の目録を作ることは簡単だ。

図書館の中にはそういう目録は作れないが、図書館の外にはそういう目録を作ることができる。図書館の中と外とどう違うのだろうか。

それは図書館の中の目録は自分自身をその目録に登録するかどうかという判断が必要だが、図書館の外の目録はそれ自身が目録に登録されなくても構わないからだ。

ラッセルのパラドックスの場合は図書館のような境界線がないので、いつでもパラドックスになってしまうが、当面議論の対象としたい集合を集めた集合あるいはクラスを集めて「世界」というクラスを作れば、「世界」の外にはクラスの要素を全て集めた集合をつくる事ができる。「世界の全ての要素」のような集合は「世界」の中には作れないが、世界の外に作ることができる。

「世界の全ての要素」のような集合が作れたからといって、「世界」の要素を全て集合として定義することはできないだろうが、どのようなものがクラスでどのようなものが集合であるかという判別をすることができる。また、「世界」の外のクラスを表す集合によってクラスがものの集まりとして存在できるという根拠になれば、「世界」の要素をクラスに属するものとクラスに属さないものに排他的に二分することができ排中律の存在を保証できる。

圏論では対象が全て集合からなる小さな集合の圏や対象がクラスを含む大きな集合の圏などを扱わざるをえないが、「世界」と世界の外に「クラスの要素の集合」を定義することによって、議論の見通しが良くなるのではないか。
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by tnomura9 | 2014-12-14 18:00 | 考えるということ | Comments(0)

トグルスイッチと排中律

トグルスイッチは操作のたびに反応が異なる。電球が点灯しているときにスイッチを押すと電球は消灯するし、電球が消灯しているときにスイッチを押すと電球は点灯する。

いま、いろいろなスイッチを集めてきて、スイッチを押せば電球が点灯するスイッチとスイッチを押せば電球が消灯するスイッチのグループに分けてみよう。このときトグルスイッチはどちらのグループに属するだろうか。

明らかに電球が消灯していればトグルスイッチはスイッチを押すと点灯するスイッチの仲間であり、電球が点灯していればスイッチを押すと消灯するスイッチの仲間である。電球が点灯しているか消灯しているかで動作は異なるが、これらのスイッチはトグルスイッチを含めて、スイッチを押せば電球が点灯するか、スイッチを押せば電球が消灯するかのどちらかである。すなわちスイッチの動作について排中律が成立している。

しかしながら、トグルスイッチではスイッチを押した後ではその動作が変わってしまう。それは、トグルスイッチがスイッチを押す前の状態の記憶を持っているからだ。トグルスイッチを押した時の動作は、スイッチを押すという動作とスイッチの内部の状態に依存する。さらに、スイッチを押す動作でスイッチの内部の状態が変更されてしまう。

述語論理学では述語 P(x) を対象 a に適用することによって真偽が判別できる命題を作ることができる。すなわち、P(x) を a に適用した P(a) は真かまたは偽の値のどちらかをとる。a が内部の状態を持たない対象の場合 P(a) は必ず同じ値になる。しかし、a が内部の状態を持っており P(x) を適用することによって a の内部状態が変わってしまえば上のトグルスイッチの場合のように P(a) の値は a の内部状態によって真になったり偽になったりする。

嘘つきのパラドックスについても同様のことが言える。嘘つきは「私は正直です」としか言えないし、正直者は「わたしは正直です」としか言えない。しかし正直者に「わたしは嘘つきです」と発言させた途端にその正直者は嘘つきになってしまう。「わたしは嘘つきです」という発言によって、その正直者の内部状態が変わり嘘つきになってしまうからだ。

この正直者が「私は嘘つきです」と発言する前は、村人は正直者と嘘つきに綺麗に分けることができる。「わたしは嘘つきです」と発言する以前はこのひとは正直者だからだ。つまり村人が正直者か嘘つきであるかの排中律が成立する。しかし、村人の発言を聞いた途端に、このひとは嘘つきとなり、嘘つきのグループに属してしまう。この場合でも村人が正直者か嘘つきであるかの排中律は成立する、このひとが嘘つきのグループに属してしまうだけだからだ。

村人に発言させない状態では、排中律に矛盾はない。村人に発言させた後も排中律によって分けられるグループに変化が起きるが、変化前と同様に排中律に矛盾はないのだ。

しかしながら、この発言によって状態が変化するひとについては、一体正直者か嘘つきなのかを決めようとするとパラドックスになってしまうのだ。このひとがつねに正直者か嘘つきかという問いに対しては矛盾が発生してしまうことになる。

こういう内部状態を伴うシステムは現実には普通に存在する。矛盾を排除した論理学だけでは現実の事象を説明しつくすことはできないことがわかる。

ラッセルのパラドックスにも同じような内部状態を考えることができる。

x /∈ x ⇔ x /∈ R

という定義から

R /∈ R ⇔ R ∈ R

というパラドックスが発生してしまう。これにはどういう意味があるのだろうか。

いま自分自身を要素として含まない集合を集めて R を作るとそれ自身が自分自身を要素として含まない集合になってしまう。この時点で R を含みすべての集合について自分自身を要素として含まない集合と自分自身を要素として含む集合に分けられるが、R は明らかに自分自身を要素としない集合だ。しかしながら、まさにそのゆえにRは自分自身の内包的定義を満たすので、これをRの要素としなければならない。

そこでRにRを含ませるとこんどは R は自分自身を要素とする集合となってしまい、さらに、要素としてのRが自分自身を要素とする集合になって R の内包的定義を満たさなくなってしまう。それでは困るので R の現在の要素と R を合わせた新しい集合 R' を考えるとこの問題が解決される。しかし、この時点で R' が新しい自分自身を要素として含まない集合になってしまう。つまり R が R に含まれるかというテストをするたびに R の状態が変わって新しい R' が発生してしまうという仕組みになってしまう。

R をラッセルの内包的定義でテストするたびに、R の内部状態が変わり R の要素の内容が変化してしまうのだ。

静的な排中律はこのステップのどの時点でも成立しているが、対象の内部の状態の変化のために、静的な排中律の内容は対象へ述語を適用するたびにダイナミックに変化していくことになる。
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by tnomura9 | 2014-12-07 09:00 | 考えるということ | Comments(0)

共鳴の中心

カラオケの練習で自分が発声するときの音を聞いていたら、音が喉の中の一点から出ているような感じがするのに気がついた。そうして、その共鳴の中心部は音が高くなるにつれて喉の上の方に移動した。

本当に移動するのか確かめたいと思って胸に手を当ててみたら、低い音の時は手のひらに振動がよく伝わるが、高い音になるにつれて振動を触れなくなった。そこで、頭の後ろに手を当ててみたら、今度は高い音になるに従って手に伝わる振動が強くなってきた。

どうやら、本当に発声の共鳴の中心は喉に沿って上下に移動するようだ。胸声、頭声というのはそういう現象の観察からできた概念なのだろうか。

そこで、高い音を出すときはこの共鳴の中心を上に持ち上げるようなイメージで声を出してみたら楽に音が出るような気がする。非常に高い音の場合は、この共鳴の中心を頭の後ろの方の喉の先端部に持っていくイメージで発声すると良いようだ。

この発声法の注意点は、できるだけ喉の力を抜くことだ。声を出すための息は腹部を歯磨きのチューブを絞り出す感じで引き締めて息を出す。また、舌根を押し下げて、あくびをするときのように喉の奥を丸く広げる。舌根が下がっているかどうかは鏡で確認できる。このときも力を入れないことが大切だ。

あまり、大きな音は出さず小さめの音のほうがいい。カラオケなんて人に聞かせるものではなくて自分が楽しく歌えるように練習すればいいだけだ。

普段の発声練習の時にどの高さの音の時に、共鳴の中心がどこにあるかをイメージしておくといい。メロディーが低音から高音に切り替わる時に、あらかじめ高音の状態をイメージできるので、喉の筋肉の緊張状態の切り替えをスムーズに行うことができる。

自分の喉を一本の管楽器と考え、その管楽器のどの位置に共鳴の中心を持っていけばいいかと考えて練習すると、声の出し方が分かりやすくなる。
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by tnomura9 | 2014-12-06 08:01 | ボーカロイド | Comments(0)