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要素数が有限のクラスはあるか。

内包的定義を満たすが、集合と考えるとパラドックスになってしまうような要素の集まりはクラスと呼ばれているが、一般的なイメージでは要素数が無限大になると考えられやすい。

しかしながら、クラスをどのように定義するかによるかもしれないが、素朴集合論では要素数が有限なクラスも考えることができる。

それは、図書館目録のパラドックスの例から知ることができる。図書館に収納されている書籍は有限であるとする。図書館に収納されている書籍のうち、他の書籍の書名をリストにした目録は、図書館の書籍の中でも、書籍の集まりすなわち集合を表していると考えられる。この目録自身も書籍なのでこの図書館の蔵書の一つである。したがって、目録はその他の書籍と同列に書籍として扱われる。

また、素朴集合では自分自身を要素として含まない集合を禁止してはいないので、目録の中には自分自身の署名をリストに登録しているものもあるとする。

このようなやり方で次々に目録を増やしていったら書籍の数は無限に多くなるので、目録を作る作業はある程度のところで止めてしまうことにする。つまり、図書館の書籍の数は有限にとどまる。

最後に、仕上げとして、自分自身をリストに含む書籍の目録(集合)と、自分自身をリストに含まない書籍の目録(集合)を作ることにする。

ここで、自分自身を要素に含む集合を表す目録は自分自身をそのリストに登録しても、登録しなくても構わない。どちらの場合もパラドックスは発生しないからだ。自分自身を自分のリストに登録しない場合、その目録は自分自身を要素としない目録に登録されることになるが、それで不都合が起きることはない。

しかし、自分自身をリストに含まない書籍の目録は、自分自身を目録のリストに登録することはできない。その目録が自分自身のリストに自分自身を登録することは不可能であるのは明白だ。なぜなら、登録してしまうとその目録はその途端に自分自身を要素とする書籍になってしまうからだ。しかし、まさにそのためにその目録は自分自身をリストに登録していない書籍になってしまう。

図書館の書籍は有限だが、そのうちで自分自身を要素とする集合(目録)の集合(目録)は作ることができるが、自分自身を要素として含まない集合(目録)の「集合(目録)」は作ることができない。どうしても自分自身が余ってしまうのだ。

ところが、図書館の外から眺めると、図書館の書籍はきちんと自分自身をリストに含む書籍のあつまり、と自分自身をリストに含まない書籍の集まりに分かれていることを見て取ることができる。そうして図書館の外からなら自分自身を要素として含む書籍の目録(集合)と自分自身を要素として含まない書籍の目録(集合)を作ることができる。

図書館の書籍は有限であるし、自分自身をリストに載せた書籍と自分自身をリストに載せていない書籍に別れるのに、自分自身をリストに載せていない書籍の目録は存在しない。すなわち、そういう書籍の集まりは集合を作ることができずクラスになってしまう。

このような状況は床屋のパラドックスも全く同じだ。自分自身の髯を剃らない人の髯を剃る床屋は、自分自身の髯をそることはない、それは床屋のルールに反する。しかし、まさにそのために床屋は自分自身の髯をそらない人になってしまうのだ。この状況を村の外部の人が眺めると、村人は自分自身の髯を剃るひとと床屋を含む自分自身の髯をそらない人にわかれていることを見て取ることができる。

この場合も自分自身の髯を剃らない人の集まりは存在するのにその全員の髭を剃る人を見つける事ができない。そのためそういう人の集まりは集合にはならずクラスになってしまう。しかし、村人以外の人であれば、自分の髭をそらない床屋の髭を剃ってあげることができるのだ。そのため、村人ではない床屋は、村人の床屋を含めすべての自分で髭を剃らない村人の髭を剃ることができる。

「ものの集まりは集合というものである」という集合をものとして純粋な要素と同列に置いたために、ラッセルの集合の内包的定義をみたす集まりは集合を作ることができずクラスになってしまう。感覚的には無限にその罪があるように見えるが、上のように有限集合の中にもクラスが発生してしまう。

クラスの発生する原因は、無限に罪があるのではなく、集合と要素を等しくものとして考えた時点で、それらを一括する世界というものが潜り込んでいたのに気づかなかったからだ。上の2つの例で言えば、図書館の書籍はいずれも図書館に収納されているという共通の性質があるし、床屋のパラドックスでも村人は同じ村に所属しているという共通の性質がある。

それでは、このような世界とは何なのだろうか。それは、ノードとノードが所属関係というエッジで結ばれた有向グラフの全体を指している。こういう有向グラフでは「そのグラフ内の自分自身にエッジが繋がっていない(すなわち、自分自身を要素として含まない)ノード全てからエッジを受けるノード」は存在できないのだ。どうしても、自分自身が余ってしまうからだ。

色々な集合や要素を等しくものとして考える時、不可避にそれらの「もの」の「世界」が発生し、その「世界」の中では集合として定義できないものの集まりである「クラス」が発生してしまうということだ。

ちなみに、素朴集合論の「ものの集まりは集合というもの」であるという集合の定義と「内包的定義は集合を定める」という内包公理から発生するクラスはラッセルの集合だけのような気がする。

「全ての集合の集合」はクラスであるとされているが、図書館のたとえでは図書館の全ての書籍名と自分自身をリストに登録した目録を作ることができ、その目録の内容は確かに図書館の書籍全ての書名を集めている。これがパラドックスになるのは素朴集合の世界に集合の濃度が導入された場合だ。

したがって、ラッセルの集合がクラスであるという意味と、全ての集合の集合がクラスであるという意味は分けて考えなければならない。

素朴集合論の世界は元々は集合というノードと所属関係というエッジのある有向グラフだ。したがって、そのなかには自分自身を要素として含む集合や、所属関係を辿って行くと自分のところへ戻ってくるループのようなものも存在できる。公理的集合論はこれらの有向グラフに制限を加えて数学的対象を取り扱えるように整備したものだと考えられる。ラッセルのパラドックスは、その最も原始的な形においても集合を形成できないものの集まりが存在してしまうということを示した画期的な発見だったのだ。

しかし、同時にラッセルのパラドックスが排中律を破壊してしまうような深刻な矛盾ではないことがわかる。素朴集合論をその最も広い意味で有向グラフとしてとらえた時に、「自分自身を要素としない集合の集合」というノードが作れないことを示しているだけだ。


追記

少し数学的な表現をしてみた。

定理 

有限個の要素と集合を要素として含む集合 A において、集合 A の要素のうち「自分自身を要素としない集合」全てを集めた集合は存在しない。

証明

仮にBがそのような集合であったとすると、BはB自身を要素としては含まない。しかし、このためBは自分自身を要素として含まない集合である。したがって、集合Aの要素のうち「自分自身を要素として含まない集合」全てを集めた集合を集合Aの要素として持つことはできない。B自身はBに含まれないからである。

それにもかかわらず、Aの部分集合として、Bを含め「自分自身を要素として含まない集合」の集合は存在する。すなわち、そのような部分集合はAの要素の中では存在できずクラスとみなされる。
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by tnomura9 | 2014-11-29 20:16 | 考えるということ | Comments(0)

クラスの定義

前回の記事は、要するに内包的定義の自己言及に関して、自分自身が内包的定義を充足しないものを「集合」とよび、要素に自分自身が含まれていないにもかかわらず自分自身が内包的定義を充足してしまうものを「クラス」と呼んで、集合には内包的定義を適用できるが、クラスには内包的定義を適用できないと考えるといいのではないかという発想だった。

ラッセルの集合の場合は上の定義で十分理解できるのだが、「犬でないものの集合」や「全ての集合の集合」が集合と呼べない理由が今ひとつ薄弱なような気がしたので少し考えてみる。

ラッセルの集合の構造との類比で、確かに、犬でないものの集合は、犬でないものを集めて集合を作った時に、それ自身が犬ではないし、全ての集合の集合は、全ての集合を集めて集合を作った時に、自分自身が集合になっている。これらのパターンはラッセルの集合と全く一致する。

しかし、ラッセルの集合の場合は、ラッセルの集合が自分自身の内包的定義を満たすかどうかを考えた時にパラドックスが発生するので、ラッセルの集合に自身の内包的定義を適用できないことが証明できるが、「犬でないものの集合」や「全ての集合の集合」に自身の内包的定義を適用した時に問題が起きるかどうかは、必ずしも明快ではない。

そこで、「犬でないものの集合」を考えてみよう。いま適当に「犬でない」要素や集合 x1, x2, ... を集めて「犬でないものの集合」A = {x1, x2, ... } を作ったとする。このとき A が集合であるためには、A は自分自身を要素として含まないとする。もし A が自分自身を要素として含むとすると、A = {A, x1, x2, ... }となるが、この場合 A を確定することができないからだ。A = {{A, x1, x2, ... }, x1, x2, ... } のように展開しても、無限に展開が続いてしまう。したがって A は自分を要素として含まない。しかし、A は明らかに「犬ではない」ので「犬ではないものの集合」の要素でなくてはならない。そこで、新しく A を要素として含む集合 A' = {A, x1, x2, ... } を作ってみる。A' は当然 A' を要素としては含まないが、しかし、これもまた「犬ではない」。どんなに「犬ではないものを集めて新しい集合を作っても、その集合が「犬ではない」のであれば、「犬ではない全てのもの」を集めた集合は作ることができない。したがって、集合ができないのであればそれに対する述語を適用することはできないと考えることができる。

上の議論で大切なのは、新しい集合を作る度にその集合に対しては、述語が適用できるということだ。次々に述語を適用できる新しい集合は作ることができるが、それらを全て集めた集合というものは作ることができない。クラスとはこのような構造をもつ集合の集まりだと考えられる。

クラスは無限集合とは異なる。無限集合も次々に要素を増やすことができるが、その要素は全てその無限集合の要素である。クラスの場合は、集合が次々に変化していって、すべての要素を含む集合というもの自体を確定できない。

「全ての集合の集合」も「犬でないものの集合」もラッセルの集合と同様に、どんなに集合を集めて集合を作っても、その集合が新しい集合になるし、どんなに「犬でないもの」を集めて集合を作ってもその集合自身が「犬でないもの」である。このような集合を全て集めた集合というものを作ることができない。「x は集合である」や「x は犬ではない」などの述語を充足する集合はいつでも見つかるが、それら全てを集めた集合と言うものを作ることができないのだ。これが、クラスの本質と行って良い。つまり「自分自身を要素とする集合」とは集合ではなく、クラスである。「x は犬ではない」という述語を充足する集合をどんなに集めても、その集合自体が「犬ではない」とき、集合は作ることができずその集まりはクラスになってしまうのだ。

このあたりの事情は、集合をノードとし、集合から集合への所属関係の射を持つ有効グラフを素朴集合論のモデルにすると良く分かる。集合が自分自身への射を持たない時、ある集合以外の集合からの射をすべて受ける集合を作ることはできない、その集合が自分自身への射を持たないからだ。それにもかかわらず、任意の集合にたいし、それ以外の集合の集まりは考えることができる(だが、それは集合にはならずクラスになってしまう)。

集合が自分自身を要素とはしないという原則を守る時、自分自身が自分自身の内包的定義を満たしてしまう集合が存在すれば、そういう集合の集まりはクラスになってしまう。また、クラスはその要素全てを集めた集合を作ることができないので、クラスに対して内包的定義を適用することはできない。

このように、素朴集合論の世界を集合とクラスからなる全体だと考えると、述語がクラスに適用できないため、ラッセルのパラドックスを起こさず排中律が成立できる事がわかる。


追記

「犬でないもの」という集合は、実際は「犬の集合」の要素以外の集合はすべて当てはまるので、全ての集合の集合と意味は同じようなきがする。何か「犬でないもの」を集めた集合は、どんな集合でも「犬でないもの」になるからだ。これは「全ての集合の集合」でどんな集合を作っても、それは集合となって内包的定義を満たしてしまうのと同じだ。

これは当然といえば当然で、クラス(自分自身を要素とする集合)は、どのタイミングで集合を作ってもそれが自分自身の内包的定義をみたしてしまうので、集合を形成すると同時に内包的定義をみたすと考えてよい。集合の形成と内包的定義の充足が不可分に同時進行すると考えられる。
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by tnomura9 | 2014-11-20 22:04 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論からパラドックスを追い出す

前回までの議論を再考して、素朴集合論からラッセルのパラドックスを追い出す方法を整理してみる。

ラッセルのパラドックス

ラッセルの集合に自分自身の内包的定義を適用するとパラドックスになってしまう。つまり、「自分自身を要素として含まない集合」というラッセルの集合の述語を R(x) = x /∈ x とすると、R(x)を満たす集合は普通に見られるのに、R(R) について考えると R ∈ R ⇔ R /∈ R となってパラドックスになってしまう。

しかし、Rの性質について詳しく見てみると、パラドックスの原因がわかる。すなわち、考えられる限りの自分自身を要素として含まない集合 x1, x2, ... を集めて集合 R' = {x1, x2, ... } を作ると R' はその要素の中には含まれない。なぜなら、R' = {R', x1, x2, ... } とすると、要素の R' が自分自身を要素として含む集合になってしまうからだ。したがって、R' は R' を含むことはないが、まさにそのために「自分自身を要素として含まない集合」という内包的定義をみたしてしまうのだ。

R' は自分自身の要素としては含まれないにもかかわらず、自分自身を規定する述語を充足してしまう。このような構造の集まりを内包公理で集合として定義することはできない。このような集まりを無理に内包公理で集合として定義してしまうとパラドックスが発生してしまう。

クラス

こういう、個々の要素は内包的定義を充足するが、その要素全体を集めたものが集合とは考えられないものはクラス(類)と呼ばれている。全ての集合の集合のようなものも類である。

このように集合に対して内包的定義の述語を適用すると真か偽の値がえられるが、クラスに対してはクラスは集合ではないため述語を適用することができないということがポイントのひとつだ。クラスには述語が適用できないのだから、ラッセルのパラドックスは発生しなくなる。

自分自身を要素として含む集合(クラス)

素朴集合論の困難のもうひとつは、どうしても「自分自身を要素として含む集合」という取り扱いに困るものが発生してしまうことだ。「自分自身を要素として含まない集合」が存在すれば、排中律から「自分自身を要素として含む集合」も存在するはずだ。

例えば「犬の集合」を考えてみよう。「犬の集合」は犬ではないので自分自身を要素としては含まない普通の集合という事ができる。

しかし、排中律から「犬ではないものの集合」も考えなければならない。「犬ではないものの集合」は「犬ではない」のでこれは自分自身の内包的定義を満たしている。したがって、「犬ではないものの集合」は自分自身を要素として含む集合であるといえる。

全ての集合は「犬である」か「犬ではない」という述語の排中律が成立するためには、どうしても自分自身を要素として含む集合が発生するように見える。しかし、自分自身を要素として含む集合を許容するとラッセルの集合のようなものが発生してしまう。

クラスと内包公理

上述の困難は、しかし、「犬ではないもの」の集まりが集合ではなく「クラス」であると考えると回避することができる。

「犬ではない」という述語は全ての集合について適用可能でなければならないが、「犬ではないものの集合」がクラスであれば、述語は適用できない。「犬でないものの集合」が「自分自身を要素として含む集合」ではなく、「自分自身を要素としては含まない」が「自分自身が自分自身を規定する述語を充足してしまうクラス」であると考えれば、ラッセルの集合が自分自身を要素として含むということは排除できる。

実際、全ての集合の集合がクラスであれば、「犬の集合」に対しては「犬ではないものの集合」ではなく、「犬ではないもののクラス」でなければならない。

内包的定義の自己言及については、どこかおかしいところがある。述語に適合するものを集めると集合ができるのは当然だが、その集合は内包的定義で集合を作るときには元々存在していなかったはずだ。集合が出来上がった後で、その集合に対し自分自身の内包的定義を適用するというのは、やはりおかしい話ではないだろうか。

しかし、ラッセルの集合だけでなく、自分以外の要素を集めた時にその集合が自分自身の内包的定義を満たしてしまう場合は多い。上にあげた「犬ではない物の集合」のように集合の補集合(クラス)は全てそのようなクラスになる。したがって、ラッセルのパラドックスを回避するためには、それらの自分自身の内包的定義を満たす集合は「自分自身を要素として含む集合」ではなく、「自分自身を要素としては含まないが自分自身を規定する述語を充足してしまうクラス」とかんがえるべきだ。

クラスの特徴は、自分自身が自分自身の要素ではないにもかかわらず、自身の内包的定義を満たすということだ。述語によって要素を集めた時に、それらの要素に含まれない自分自身という新しい要素を生成してしまう。したがって、新しい要素である自分自身ををそれまでに集めた要素に加えて新しい集合を作っても、新しい集合が再び自分自身の内包的定義を満たしてしまう。まるで、集合の無限大のようなものだ。これは無限集合とはことなり、次々に新しい集合を作っていってしまうため集合として確定できない。

このようなクラスには述語は適用できないので、「自分自身を要素とする集合の集合」は発生しない。集合は全て「自分自身を要素とはしない」ものになる。「自分自身を要素として含む」ようにみえるものは、集合ではなくクラスなのである。

集合とクラス

このように、全ての集合のクラスは「犬の集合」と「犬でないもののクラス」に類別できると考えることによって、素朴集合論の世界が随分見通しよくなる。

素朴集合論の世界を「集合」と「クラス」に分けても、述語の排中律は成立する。集合の要素もクラスの要素も等しく集合であるからだ。

全ての集合の集まりはクラスであって、それは「集合」と「その補集合(クラス)」に二分できると考えることによって、素朴集合論の世界にパラドックスを引き起こすことなく排中律を適用できることがわかる。
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by tnomura9 | 2014-11-20 08:02 | 考えるということ | Comments(0)

クラス

素朴集合論の集合を、集合名、属性のリスト、要素のリストの3要素からなるデータ構造として定義することで、集合を一つのものとして扱う事ができる。これを利用して、述語の排中律について考えてみる。

集合の集まりであって集合ではないものをクラス(類)という。共通の要素を持つ個々の集合は特定できるが、それらの集まりを集合としては捉えられないものがクラスである。

クラスの代表としてはラッセルの集合がある。ラッセルの集合は集合ではない。「自分自身を要素としない集合の集合」を仮定すると、ラッセルのパラドックスが発生してしまうからだ。なぜラッセルの集合が集合としては存在し得ないかは、このブログで何回も記事にしている。つまり、考えられる限りの自分自身を要素としない集合をあつめた集合 R は自分自身を要素とはしていないが、まさにそのことによって自分自身の内包的定義を満たしてしまうからだ。こういう構造を集合の枠でくくることはできない。

全ての集合の集合もやはりクラスである。考えられる限りの集合を集めて集合を作っても、その集合自身がまた、集合になってしまう。そうして、その集合は要素の集合とは別の集合であることが明らかだ。また、その集合が自分自身を要素として含んでいればいいかというと、その場合でも、その集合の要素から作ったべき集合の濃度はその集合よりも高くなるはずだから、カントールのパラドックスが発生してしまう。

したがって、3要素のデータ構造で表現した集合全ての集まりは集合ではなくクラスになる。

ここで興味があるのは、このようなクラスについて述語の排中律が成り立つかどうかということだ。ここでは述語の排中律の定義を述語 P(x) を集合(または要素)に適用した時に必ず真か偽の値が得られるということにする。そうすると、クラスの要素は全て集合だから、それらについて、述語 P(x) は必ず真か偽の値を取ると言える。なぜなら、集合というデータ構造の属性のリストに述語に適合するものがあれば真であり、適合するものがなければ偽であると定義できるからだ。しかし、述語を全集合の集まりであるクラスに適用することができないのは、ラッセルのパラドックスから明らかだ。

そこで、「x は犬である」という述語の排中律を調べてみる。すると、「x は犬である」という述語による内包的定義で定義された集合である「犬の集合」の要素には「犬の集合」自身は含まれない。したがって、犬の集合は「x は犬である」という述語を適用したら偽になる集合の仲間であることがわかる。しかし、この集合のあつまりは上述のようにクラスであって集合ではないから、このクラスに対して「x は犬である」という述語を適用することはできない。したがって、この述語は全ての「集合」に対して真か偽を定めることができるので排中律を満たしているとしてよい。

さて、ここで、動物の集合の要素について「x は犬である」という述語を適用してみよう。これは明らかに「犬の集合」と「犬ではない(動物の)集合」を作ることができる。「犬でないもの」のクラスに「犬の集合」自身が含まれていたが、動物の集合に対して述語を適用するときには、自然に「犬の集合」自身は要素として排除される。

素朴集合論で内包公理を使って集合を定義すると、必然的に自分自身を要素とする集合や自分の補集合の要素となる集合というような奇妙な集合が発生してしまう。しかし、自分自身を要素としない普通の集合について、その否定命題の集合を集めてもそれはクラスになってしまう。また、普通の集合についてその部分集合を内包的定義で定義すると、自分自身の集合はその要素のなかから自然に排除されてしまう。

素朴集合論の集合は、自分自身を要素とするような奇妙な集合を本質的に持っているが、自分自身を要素としない普通の集合のみを扱う場合には、そのような集合はクラスの要素として自然に排除して扱うことができることがわかる。

全ての集合を集めたものはクラスになる。これは全ての自然数の要素が無限大という自然数ではないものであるのと似ている。自然数を扱う関数は無限大を変数として扱うことはない。集合論でもクラスにたいし述語を適用しないのと似ている。

これで素朴集合論についての記事は終わりにできそうだ。素朴集合論は本質的に、自分自身を要素とする集合や、自分自身が自分自身の補集合の要素であるような奇妙な集合をはらんでいること。それにもかかわらず述語の排中律は成立すること。集合全体はクラスになるため、クラスに対して述語は適用できないが、それは集合に対する述語の排中律を否定するものではないこと。集合におけるクラスは自然数の無限大に相当するものであること。素朴集合論の範囲内で、自分自身を要素として含まないような普通の集合のみを扱う事ができることなどをイメージ的に明らかに出来たように思う。結局のところ公理的集合論は正しかったということを示したに過ぎないが、素朴集合論の奇妙さと、直観的な普通の集合との関係を明らかにすることができたのではないかと思う。
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by tnomura9 | 2014-11-19 00:42 | 考えるということ | Comments(0)

集合の属性とは何か

前回、図書館の書籍と目録を素朴集合論のモデルにして、自分自身を要素として含む集合や、自分自身が自分自身の補集合の要素である集合があっても、述語に関する排中律が成立することを見たが、それに関して驚くべきことに気がついた。それは、集合の属性をその要素のリストとは関係なく決めることが可能であることだ。

赤い表紙の書籍の目録はそれ自身が書籍だが、その表紙の色は、その目録のリストの内容に関係なく赤くも黒くもできる。完全に独立というわけではなく、そうやって決めた表紙の色は、赤い書籍の目録と黒い書籍の目録のリストに影響するが、しかし、自分以外の赤い表紙の書籍を集めた時点では、この目録の表紙の色は赤でも黒でも自由に選べるということだ。

集合 = 内包的定義を満たすものの集まりという観点からは、ものの集まりがその集合というものの属性を決定してしまうような印象を持つが、集合をものとして考えた時、そのものの属性はその集合の要素の集まりとは別に考えることができるのだ。

たとえば、偶数の集合は赤色をしており、奇数の集合は黒色をしていると定義することもできる。このばあい、偶数の集合の要素はすべての偶数からなっているという属性の他に、偶数の集合は赤いという属性をもっている。したがって、偶数の集合というものは赤いものの集合の要素にもなることになる。

そう考えてくると、素朴集合論の集合の構造が見えてくる。つまり、集合をデータ構造として定義できるということだ。素朴集合論の集合のデータ構造は本質的には次のようになるだろう。すなわち、集合の名前、集合の属性のリスト、集合の要素のリストである。

集合の名前は集合を一つのものとして捉えるために必要だ。

また、その集合は属性を持っている。集合の属性とは何かというと、それは、述語を適用した時に真偽の値を与えるための性質のリストだ。リストというからには、属性は複数あるのを想定している。たとえば、犬の集合は、哺乳類の要素でもあるし、動物の要素でもある。「x は哺乳類である」という述語が犬の集合に適用された時、その属性に哺乳類が含まれていれば、「犬の集合は哺乳類である」という述語は真となり、述語を真とするような属性が犬の集合に含まれていなければ、「犬の集合は哺乳類である」という述語は偽となる。

さらに、集合は当然ながらその集合に属する要素のリストを持っている。

素朴集合論の集合をこのようなデータ構造として可視化できれば、自分自身を要素としていたり、自分自身の補集合の要素であったりなどの奇妙な構造も容認できる。また、このモデルによって、集合に対する述語の関数適用によって、集合の属性が変化するようなことが起こらない限り、述語の集合に対する適用は必ず真か偽の値を返し排中律を満たすことが予想できる。

ラッセルのパラドックスは、「RはRを要素として含まない」という「x は x を要素として含まない」という述語のRへの適用によって、Rの属性の性質が変わってしまうためにパラドックスになってしまうのだ。

素朴集合論の集合をこのようなデータ構造としてとらえる利点は、素朴集合論の世界を、植物分類の系統樹のようなしっかりした構造ではなく、データ構造間の自由度の高いゆるいネットワークとしてとらえることができることだ。そういう観点から素朴集合論を眺めると、自分自身を要素としたり、自分の補集合の要素となったりという一見受け入れがたいような状況も容認したイメージを作ることができる。つまり、自分自身の名前をそれらの要素リストに登録しているだけだということだ。そういう意味で、図書館の書籍と目録に集合を例えるやり方は秀逸な素朴集合論のモデルとなっていることがわかる。

「ものの集まりを集合というもの」と考えることで、素朴集合論の集合が直観的なものの集まりとは異なる構造になっていることが、図書館のモデルでよくわかる。また、素朴集合論の世界が理由の分からない矛盾をはらんだ不可思議な構造ではなく、きちんと視覚的にもわかるレベルでモデル化できることが分かる。

追記

このモデルでラッセルのパラドックスのメカニズムを見てみる。

まず R という集合のデータ構造を作る。Rの要素リストにはR以外の x /∈x となるような集合のリストを作成してある。ここで R をラッセルの述語 R(x) でテストする。R の属性はまだ不明なので属性のリストは空リストである。

ここで、R(R)がテストされる。R(x)関数は要素リストを検索してリストにRが存在するかどうかスキャンする。最初の条件ではRはないので R(R) は真となる。次の段階は、R(R)のテストの結果にしたがってRの要素フィールドにRを登録し、Rの属性フィールドに R を登録する。集合Rの要素であるという意味だ。

最後にこの集合が安定的に存在するかどうかをテストするために再び R(R) がテストされる。今度はRの属性フィールドで R ∈ R であるから、R(R) は偽を出力する。そうすると、再びRについて操作が行われ要素リストから R は取り去られ、属性リストから R が削除される。

こうして述語のテストと集合の登録の2つのステップが交互に繰り返されて終わることがない。ラッセルの集合とはこのように集合の海の中の点滅する灯台のようなものだ。あるいは、ライフゲームで変化を繰り返すが動きのないセルを思い浮かべてもいい。ラッセルの集合のように発振する集合は他にもあるかもしれないが、詳細は不明だ。他の集合の場合は述語のテストと集合の登録に関して安定的な応答を見せる。素朴集合論の世界とはこのような集合の海の世界だ。
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by tnomura9 | 2014-11-18 07:07 | 考えるということ | Comments(0)

図書館の書籍目録と排中律

素朴集合論から「自分自身を要素とする集合」を追い出すのは不可能なようなので、そのような集合と排中律の関係について考えてみた。つまり、素朴集合論の集合とは、自分自身を含む集合が普通に存在すると考えることにしたらどういう事が起きるかということだ。このような集合の存在する世界で排中律はどう充足されるかということを考えてみる。

図書館の蔵書は集合を図書目録と考えると、素朴集合論の視覚的なモデルにすることができる。そこで、図書館の書籍の表紙が赤か黒のどちらかしかない図書館を考えてみた。この図書館では背表紙が赤の本と、背表紙が黒の本に二分することができる。

ここで、背表紙が赤の本を集めた目録を作成することにした。この目録には背表紙が赤の本の題名が全て書き込まれる。ところで、この目録自体も図書館の書籍なので、背表紙は赤か黒である。目録の背表紙が赤の場合、この目録には、この目録自身の題名が書き込まれる。これは、自分自身を要素とする集合を表している。

一方、背表紙が黒の書籍を集めた目録を作ってみる。この目録の背表紙が黒であれば、この目録には自分自身の題名が書き込まれる。

この二つの目録には、この二つの目録を含むこの図書館の全ての書籍の題名が記されている。また、この二つの目録の内容は重複しないので、たとえばこの図書館の書籍の表紙は赤であるか、または赤ではないという排中律が成立する。すなわち、「x の表紙は赤い」という述語に対し、図書館のどの書籍を取り上げても、必ず真かまたは偽の値が得られる。さらにそうやって述語でテストした全ての書籍の集まりは、もれなく、赤い表紙の書籍の目録に記述されている。すなわち、内包公理によって「x の表紙は赤い」という述語から、赤い表紙の書籍の目録という集合を定義することができる。

また、この場合、赤い表紙の目録の内容と黒い表紙の目録の内容は、互いに補集合の関係になっている。二つの目録の内容を合わせると、図書館の全書籍になるし、両者のリストに重複する書籍はない。

次に、赤い表紙の書籍の目録の背表紙が黒だった場合を考える。この場合、この目録の題名は黒い表紙の書籍の目録に書き込まれる。また、この黒い表紙の目録の背表紙は黒だったとすると、この目録の題名は自分自身のページに書き込まれる。つまり、黒い表紙の書籍の目録は、赤い書籍の書籍の目録の題名と、自分自身の題名が記入されていることになる。

この場合は、赤い表紙の書籍の目録のリストには自分自身は書き込まれないので、赤い書籍の目録は普通の感覚の集合を表していると考えることができる。しかし、赤い書籍の集合の補集合である、黒い書籍の目録のリストには、ほかならぬ赤い書籍の目録と黒い書籍の目録がふくまれることになる。しかし、この場合でも赤い書籍の目録には、この図書館の赤い表紙の書籍全部のリストが記入されており、黒い書籍の目録には、黒い表紙の書籍全部のリストが記録されている。また、赤い書籍の目録と黒い書籍の目録の内容は、互いに補集合の関係にあることも間違いない。

この場合には、赤い書籍の目録のリストには、元からあった赤い書籍のみが登録されるので、この目録は一般に考えられている集合のイメージに近い。しかし、この場合赤い書籍の目録の補集合である黒い書籍のリストには、赤い書籍の目録と、黒い書籍の目録という余分なものを二つも抱え込むことになる。

3番目の可能性は、赤い書籍の目録の表紙が黒く、黒い表紙の目録の表紙が赤い場合だ。この場合は赤い書籍の目録のリストに、その補集合の黒い書籍の目録が登場するというとんでもない現象が起きるが、しかし、この場合も、赤い書籍の目録と黒い書籍の目録は互いに補集合になり、「x の表紙は赤い」という述語も排中律を充足する。

以上述べた3つのケースが、「x の表紙は赤い」という述語について、素朴集合論で起こりえる可能性の全てだ。これらのどの場合においても、素朴集合論で、述語についての排中律が成立できることがわかる。

「ものの集まりを集合というものと考える」という素朴集合論に排中律を適用するためには、必然的に、自分自身を要素としたり、あるいは自分自身が自分の補集合の要素になったりなどという不可思議な現象が起きてしまう。しかし、そのような奇妙な現象にもかかわらず、素朴集合論では述語についての排中律が成立することができるのがわかる。

しかしながら、上のような考察は、集合の性質と集合の要素が全く独立しているために考えることができた。つまり、目録のリストの内容のいかんにかかわらず、目録の表紙の色は自由に選ぶことができる。だが、実際の集合では、要素の集まりが集合の性質を規定すると考えるべきだ。ラッセルのパラドックスはそのような要素と集合の相互作用のために発生しているのだろう。

もう一つ、ここで強調したいのは、素朴集合論の集合は、自分自身の要素になったり、自分の補集合の要素になったりすることが普通に行われるということだ。つまり、そのような形態の奇妙な集合が素朴集合論の集合の実体であるということだ。

また、上のモデルで感じたのは、集合を物として考えるときの集合のイメージだ。集合をものの集まりと考えると、実際のものを容器の中に入れたところを想像するかもしれないが、素朴集合論のように集合を要素と同じ物と考える考え方では、集合は実際のものの集まりではなく、もののリストを収めた目録のようなものだと考えたほうが良いということだ。それゆえ、集合がその補集合の要素になるなどという変な現象も許容できるようになる。

ラッセルのパラドックスのせいで素朴集合論は真面目に扱われてこなかったのではないだろうか。素朴集合論のモデルすら解説した参考書がないと感じるのは管理人だけだろうか。
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by tnomura9 | 2014-11-17 19:46 | 考えるということ | Comments(0)

内包的定義が自己言及しなければ問題は解決するか

集合を内包的に定義するとき、自己言及を許可すると集合に自分自身という余計な要素が発生してしまう。そうであれば内包的定義が自己言及するのを禁止すればいいのではないかと思いつくが、これもどうもうまくいかないようなのだ。

例えば「x は犬である」という述語で犬の集合を定義する。すると「犬の集合」という集合が発生する。しかし「x は犬である」という内包的定義は、「犬の集合」には適用されず「『犬の集合』は犬である」という命題は偽となるとしてはどうかということだ。

しかし、この場合「x は犬ではない」という述語について考えると「犬でないものの集合」は「『犬でないものの集合』は犬ではない」という命題を偽とする。この場合「x は犬ではない」という述語は「x は犬である」という述語の否定であるから、排中律から「犬でないものの集合」は「犬の集合」の要素でなければならないというおかしな結論になってしまう。

これを避けるために、「集合は自分自身を要素とはしないが、自分自身を定義する述語を適用された時、真または偽の値を与える属性を持つ」というような付加的な規則を加えてはどうだろう。この規定は集合に色をつけることになる。他の述語に対しては普通の対象として振舞うが、自分自身の内包的定義が自分自身に適用された時その性質に応じて真または偽の値をとる。これを、集合の属性と呼ぶことにしよう。

そうすると、上の例の場合、犬の集合は、自分自身の内包的定義に対する属性は偽である。また犬でないものの集合は自分自身の内包的定義に対する属性は真である。この場合「犬でないものの集合」「x は犬の集合である」という述語を適用しても偽となり、「x は犬でないものの集合である」という述語を適用しても真となって、「x が犬でないものの集合である」という術後の否定である「x は犬の集合である」という述語に対しても偽となるので、「犬でないものの集合」が「犬の集合」の要素となることはない。しかし、残念ながらこの工夫でも「犬でないものの集合」が「x が犬である」という述語に対しても、その否定の述語に対しても集合の要素となることができず、排中律が成立しなくなってしまう。

しかし、原点に戻って内包的定義の自己言及を許可し、自分自身が自分自身の要素になるということを認めると、「犬の集合」には犬の要素だけが属し、「犬でないものの集合」の要素には「犬の集合」と「犬でないものの集合」という要素が含まれてしまうが、すべての要素について「犬である」か「犬ではない」かという排中律が成立することになる。

だが、この場合にはラッセルのパラドックスを回避できなくなる。

どうやら、素朴集合論では自分自身を要素とする事態が問題を引き起こしているのではなくて、集合と要素を同列に対象として取り扱うやり方が、排中律を保つために自分自身を要素とする集合というものを必要としているような気がしてきた。

素朴集合論のわかりやすいイメージが作れないかとあれこれやってみているが、調べれば調べるほど素朴集合論の構造が混沌としたものに見えてくる。ひとつ思いつくのは、自分自身を要素としないようなわかりやすい集合を取り上げて、その集合の内包的定義の否定で定義される集合には上で述べたような混沌とした汚れ仕事をすべて押し付けられないかということだが、まだアイディアが湧いてこない。

素朴集合論の「ものの集まりを集合というものと考える」という一見明白な定義と、排中律というこれまた明瞭な公理のふたつだけで、これだけ色々遊べるのは面白い。
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by tnomura9 | 2014-11-16 17:32 | 考えるということ | Comments(0)

図書館目録のパラドックス

図書館のパラドックスというのがある。
ある図書館の書籍の目録をつくることにした。しかし、その目録に載せるのは自分自身に言及していない書籍だけにしたい。

しかし、図書館のそういう書籍を集めて目録を作った時、最後に問題が発生した。それは、その目録をその目録自身に登録すべきかどうかということだ。

もしその目録を登録すればその目録は自分自身に言及しているので、目録に登録するための条件に反する。もしその目録を登録しないとすれば、その目録は自分自身に言及していない書籍になるので、その目録に登録しなければならない。目録を登録すべきかどうかということについてパラドックスが発生してしまうのだ。
このパラドックスに対する答えは、その目録も含めた、その図書館の書籍目録を、図書館の「外に」作ればいいのだ。図書館の蔵書の中にはそういう目録を作ることはできないが、図書館の蔵書以外にはそれは可能だ。

全ての書籍は、「自分自身に言及しているか」または「自分自身に言及していない」かであるはずなのに、「自分自身に言及していない書籍」の目録をその図書館内に作ることはできない。それは、その目録自身が「自分自身に言及していない書籍」になるからだ。

目録を作成する前は、図書館の蔵書には目録という書籍はなかった。その状態の時は、確かに図書館の蔵書は自分自身に言及している書籍と、自分自身に言及していない書籍の2種類に類別することができていた。しかし、自分自身に言及していない書籍の目録を作成した時、図書館の蔵書には、その目録という新しい書籍が発生したのだ。この新しく発生した書籍に問題がありパラドックスが発生してしまった。

パラドックスにはならないが、「自分自身に言及している書籍」の目録についても同じようなことが言える。そういう目録は図書館には存在していなかった。しかしそういう目録を作成した時、最後に自分自身を登録すれば矛盾なく図書館の蔵書として存在することができる。その場合でも、その目録が図書館の蔵書には元々なく新しく作られた書籍であるということには変わりはない。書籍を集めて、「書籍の集まり」という書籍を作る時、その書籍についての自己言及の問題が必然的に発生する。

書籍の集合という書籍を他の書籍と同列に考えると、書籍の集合という書籍には必然的に自己言及の問題がつきまとうことになる。

これは、「赤い表紙の書籍」の目録のような普通の集合という目録についても同じである。自己言及のテストも通過して、普通に書籍として図書館内に存在できるが、「赤い表紙の書籍の目録」という書籍が図書館に最初から存在していたわけではなく、赤い表紙の書籍の集まりを考えた時に目録として新たに作られたことには変わりない。もし、この目録の表紙が赤ければ、この目録には自分自身が登録されるし、もしこの目録の表紙が赤くなければ、この目録は自分自身に登録されないだけである。

このように、集合という目録の書籍には常に自分自身を要素として含むか、自分自身を要素として含まないかという問題がつきまとっている。

集合を「ものの集まり」という「もの」として、「もの」と同列に扱う時、集合には自己言及に関連する要素が必ず付随してくる。つまり、集合は「自分自身を要素とする集合」と「自分自身を要素としない集合」に二分される。

一般の数学に集合が利用される場合は、全て「自分自身を要素としない集合」が利用されているように思われる。「ものの集まり」を集合と考えた時、あつめたもの以外のその集合自身という要素があっては面倒だからだ。「赤い表紙の書籍」のような内包的定義も、定義された集合が赤い表紙を持たず自分自身が内包的定義を満たさないで、その集合自身のような余分なものを含まないように用心しているようだ。

公理的集合論というといかにも抽象的にみえるが、このような正常な集合だけを取り出すための工夫だと考えると、別にやっていることは素朴集合論でイメージしていることと変わりないのだという気がする。一般の数学に集合を利用する限りは、素朴集合論のイメージを活用しても問題はおこらない。

「素朴集合論には矛盾があり、公理的集合論という抽象的なものでなくてはいけない。」といいながら、集合の演算や写像など素朴集合論を講義してお茶を濁していても、問題はないということだ。それならそうと、数学に集合を利用するについては素朴集合論で全然問題ないと最初からいってもらえば、頭を悩ませないで済んだのにと思う。

さて、「素朴集合論には矛盾が存在する」という点についてだが、ここでいう「矛盾」とは排中律が破られるということだ。命題 A が正しく、¬A が同時に正しければ、全ての命題が真になってしまって、数学がなりたたなくなってしまう。ラッセルのパラドックスが数学の危機と考えられたのも無理はない。

それでは、素朴集合論の公理のどこに排中律を破る瑕疵があるのだろうか。ラッセルのパラドックスが内包公理の自己言及によって起きているのは明らかだ。内包公理とは、述語 P(x) を真とする要素 x を集めたものは集合を形成するという公理だ。つまり、

A = {x| P(x)}

である。P(x) はどのような要素 x に対しても排中律から必ず真であるか偽であるかのどちらかであることが要求される。P(x) が「x は赤い表紙である」という述語であれば、どの書籍を x に当てはめても真偽が確定されなければならない。ラッセルのパラドックスは「x は自分自身を含まない集合である」という排中律を満たす述語を使用しながら、この述語 P(x) が集合 A に適用された時、P(A) が真とも偽とも定めることができなくなり、パラドックスを発生させてしまうのだ。

いいかえると、排中律を満たす(はずの)述語に対し、その述語をその述語が定義する集合自身に適用した時にその命題は真とも偽とも言えずパラドックスになってしまうというのが問題だということだ。

述語の自己言及は、ものを集めた集合にその述語が適用されるためにおきる。そこで、述語で集められるものの集まりと、それによって定義される集合とを分けて考えてみよう。これはものの集まりと集合を峻別する階梯理論の立場をとるという訳ではなくて、定義される集合をものと考えて述語を自己言及する前の状態でちょっと止まって考えてみようということだ。

上の集合の内包的定義を再掲してみる。

A = {x| P(x)}

これを、P(x) を充足する要素で A 以外のものを集めたものととして見てみようということだ。つまり、A は A 以外の元々あった「もの」で P(x) を集めたものの集まりだ。これは、P(x) を A に適用していないので、P(x) を充足するもので A 以外の全ての要素の集まりである。カントールが集合を考えだした時も、このような集合ではなかったのだろうか。ものの集まりを集合というものと考える時、その集合自身がその要素になるなどとは考えなかったに違いない。

しかし、集合 A をものと考える限りは、それは述語 P(x) で試験されなくてはならない。つまり、P(A) の真偽が問われることになる。この際に、P(A) が偽であれば、A は右のカッコの中には入らないので、問題は起きず内包的定義による集合の要素は確定する。しかし、P(A) が真であれば、当然 A も右のカッコの中に含まれないといけない。つまり、

A = {x| P(x)} = {x1, x2, ... }

のとき P(A) が真の場合、上の定義は次のようになる必要がある。

A = {x| P(x)} = {A, x1, x2, ... }

しかし、ここで問題が発生する。すなわち、上の定義では A は二つの定義で定義されることになってしまう。すなわち、P(A) が真であるという条件と、A が A の要素であるための条件の二つだ。

自分自身に言及しない書籍という述語を満たすという条件と、自分自身が自分自身の目録に登録されているという条件の間にコンフリクトが起きた時にパラドックスが発生する。この場合自分自身が目録に言及されてしまうと、その目録は自分自身に言及しない書籍の目録にはなりえないから、この目録に目録自身を登録することはありえないが、まさにそのことによって、自身が自分自身に言及しない書籍になってしまう。

しかし、これを図書館の外部から観察すると、図書館の書籍は「自分自身に言及する書籍」と「自分自身に言及しない書籍」の二つのグループに完全に分かれ、排中律が成立していることが分かる。図書館の蔵書の中で、「自分自身に言及しない書籍全て」の目録が存在しないだけだ。

ラッセルの集合は集合の世界には存在できない。それは、

R = {x| x /∈ x}

という定義でラッセルの集合以外の「自分自身を要素としない集合」を全て集めても、ラッセルの集合自身はパラドックスを発生してしまうからだ。しかし、集合の世界の外から眺めると、ラッセルの集合以外の「自分自身集合としない集合」とラッセルの集合を合わせると、「自分自身を要素としない集合」の集合を作ることができる。「自分自身を要素としない集合」の集まりは、排中律と矛盾せずに存在できる(かもしれない)。

「ものの集まりを集合というもの」と考える集合をものと同列に扱う定義は、内包的定義の自己言及を引き起こし、「自分自身」という集合を定義するときにはなかった要素を発生させる。このことが、内包的定義の述語が排中律に従っているにもかかわらず、集合を定義できない場合を引き起こす。しかし、その場合も要素と集合全体の集合を考えた場合、その集合の外からは、内包的定義を満たす集まりについて、排中律をみたす集まりを考えることができる可能性がある。
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by tnomura9 | 2014-11-16 10:30 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論の復権

「ものの集まりを集合というものと考える」という素朴集合論の一見自明な簡潔な定義は、しかしながら、ラッセルのパラドックスという深刻な矛盾を招いてしまう。そこで、その矛盾を解消するために、公理的集合論が考案されたが、抽象的になって素朴集合論のようなイメージの簡明さを失っている。

この記事では、素朴集合論が単純な有向グラフとして完全にモデル化できることを示し、この有向グラフが、自然にラッセルのパラドックスを排除できることを示す。素朴集合論は有向グラフとしてモデル化することによって、その全体が直観的に理解できるようになる。

1.集合という対象

まず、一匹の犬、一個の飴のように個体として認識できるものを対象と呼ぶことにする。対象は、こういう具体的なものに限らない。たとえば、犬の個体を全て集めた「犬の集合」は概念であり、目に見えないがこれも一個の対象と考えることができる。数の 1 や 2 のようなものも厳密には概念だが、ひとつの数として対象として扱うのが便利である。そこで、上述した集合の定義を言い換えて「対象の集まりを集合という対象であるとする。」と定義する。

2.集合は自分自身を要素とするか?

ラッセルのパラドックスでは、全ての集合は「自分自身を要素とする集合」と「自分自身を要素とはしない集合」という二つの集合に二分されるという仮定から推論された。たとえば、全ての動物のうちから犬を集めて、「犬の集合」をつくるとする。つまり全ての対象に対して「これは犬であるかどうか」と問い、犬であると判断したものだけを集めたものが犬の集合である。しかし、全ての対象に対して「犬であるかどうか」と問われるのであれば、「犬の集合」自身が犬であるかどうかが問われるだろう。「犬の集合」は「犬の集合」を要素としては含まないので、これは「自分自身を要素として含まない集合」である。一方「犬でないものの集合」を考えてみると、「犬でないものの集合」は犬ではないので、これは「犬でないものの集合」の要素となる。すなわち、「犬でないものの集合」は「自分自身を要素とする集合」であるということになる。

しかし、犬という対象を全て集めた時に「犬の集合」が出現する。「犬の集合」は確かに対象とみなすことができるが、しかし、それは犬の集合を定義する前には対象としては存在していなかったはずだ。「犬の集合」を定義するまでは存在していなかった「犬の集合」という対象を「犬の集合」の要素として考えるというのは問題がある。対象を集めて作られた「犬の集合」という対象は、定義によって、「新しく生まれた」対象である。これは、a が自然数ならば a + 1 は自然数であるという、ペアノの再帰的定義のように、再帰的定義によって新しく生まれた集合という対象と考えるべきだ。したがって、集合 A が集合 A の要素として含まれるかという問はナンセンスである。集合 A は自分自身を要素としては含み得ないと考えるのが自然だろう。

3.素朴集合論は有向グラフで表現できる。

ただし、「犬の集合」を対象のひとつとして認めることで、個体の犬と同列に扱うことができるようになる。したがって、集合を含めて全ての対象は有向グラフのノードとして均一に扱うことにする。このノードの中身を覗くことはできない。その代わり、対象と対象の間に要素と集合の所属関係を表す射を考える。つまり、A ∈ B ならば、A -> B である。また、集合 A の要素の全体は所属関係の射の domain の対象を全て調べることで知ることができる。こうすることで、興味の対象となる全ての個体と集合とその所属関係を有向グラフとして表すことができる。この有向グラフでは個体と集合は同じ対象として扱われ区別されない。

4.全ての集合の集合は有向グラフに記述できるか?

ここで、興味がでてくるのは、これらの対象全てを集めた集合という対象があるかどうかということだ。そこで、これらの全ての対象を集めた集合を考える。これは、このグラフの一つの対象であり、グラフのノードとして表現できる。このノードには他の全てのノードからの射を受けている。しかしながら、この対象(ノード)から、送られる射がないのだ。それは、この対象が全ての対象を集めるという操作から生じた「新しい対象」であり、集めるときに存在した全ての対象とは異なる対象だからだ。自分自身への射があれば、それは自分自身を要素として含んでおり、全ての対象を要素とするということができるだろうが、上に述べた集合の定義からそれはありえない。

したがって、「すべての集合を集めた集合」を表す対象は作ることができない。それまでのすべての対象からの射を受ける対象を作ると、その対象は、以前に存在していた全ての対象とは異なる新しい対象になってしまうからだ。

4.集合の定義の再帰性

「対象の集まりを集合という対象とする」という集合の定義が、再帰的定義であったために、どうしても定義の度に新しい対象を発生させてしまう。全ての対象を集めた集合は作れない仕組みになっているのだ。これが、ラッセルのパラドックスの正体だ。上の定義では集合は自分自身を要素としないのだから、「自分自身を要素としない集合の集合」とは単に「全ての集合の集合」ということだ。それは、集合の定義の再帰性のため作ることができない。

この辺りの事情は自然数には最大数は存在しないという議論ににている。最大数を N と仮定しても、再帰的定義から N + 1 はそれより大きい自然数になってしまう。全ての対象を集めた集合も定義の度に新しい対象を発生させてしまうので、集合の有向グラフでは、全ての対象からの射をうける対象を見つけることはできない。

5.素朴集合論と排中律

次の疑問は、このような有向グラフに排中律はどのように関わっているかということだ。全ての対象は、「犬の集合」と「犬の集合ではないものの集合」に分けることができるのだろうか。それに対する答えは簡単だ。全ての対象を集めた対象ができないのだから、「犬の集合」ではない対象の集合を作ることはできない。それは、犬の集合に含まれる対象とそれ以外の対象という分け方をしても同様だ。述語命題の述語は個体や集合として確定している対象についてのみ適用できると考えるべきだ。排中律は述語命題の述語が適用可能な場合に必ず真か偽のどちらかであるという意味であると考えられるべきだ。これは整数が偶数か奇数のどちらかであるが、無限大については偶数とも奇数とも確定できないのと似ている。

集合は内包的定義では、自分自身を要素とすることはないという制限をかけた素朴集合の世界では、そのどの対象をとっても「犬である」か「犬ではない」かであるという排中律は成立するが、「犬の集合」と「犬ではないものの集合」に二分することはできない。「犬ではないものの」集合は作れないからだ。

素朴集合論の全体を有向グラフとして表現することで、ラッセルの集合「すべての集合の集合」は自然に除外される。また、排中律は対象(すなわち個体と集合と定めることのできる対象)についてのみ適用できることが分かる。このような観点からは、素朴集合論には何らの矛盾点もみられない事が分かる。


追記(集合の定義の再帰性について)

集合の定義とペアノの公理の類似点は、集合を次のように定義すると良く分かる。

1.個体は集合である。
2.集合の集まりは(そのメンバーには一致しない新しい)集合である。

ペアノの公理の場合のように、集合を集めて定義することで、それまでの集合にはない新しい集合が定義される。ペアノの定義では最大数というものはない。N が最大数であると仮定しても、N + 1 はそれより大きい自然数になるからだ。集合の定義の場合も、それまでの集合を全て集めて集合を作っても、その集合はそれまでの集合にはない新しい集合であるから、「全ての集合の集合」を作ることはできない。

この観点から見ると、クラスの意味がはっきりする。クラスとは内包的定義で集合を作ると、その集合がその要素には含まれない新しい自身の内包的定義を満たすような構造である。このような構造では、内包的定義を満たす全ての集合を集めた集合を作ることはできない。

「全ての集合の集合」のようなクラスは、自然数のような無限集合とは異なる。自然数の再帰的定義はあくまでも自然数という集合の要素を作るが、クラスの場合は新しい集合ができてしまうので、集合という概念でまとめることができない。それは、要素の無限性ではなく、概念の無限性を体現しているからだ。

ラッセルのパラドックスは、このような集合の定義の再帰性を無視していたための現象だ。


追記その2(素朴集合論と排中律の関係について)

ラッセルのパラドックスで問題視されたのは集合の内包的定義の無制限な適用だった。しかし、ラッセルのパラドックスの問題点が集合の再帰的な定義であることが分かったので、内包的定義の制限は公理的集合論のものより緩める事ができる。

すなわち、内包的定義で集合を定義する場合、定義された集合がその内包的定義を充足しなければ、それは集合として認められるということだ。定義された集合が内包的定義を満たしてしまう場合、それは集合ではなくクラスとなる。また、内包的定義で定義すると、それは集合かまたはクラスのどちらかになる。

内包的定義では、全ての対象について述語 P(x) を充足するものを集めたものが集合であるとする。この場合述語 P(x) は x の値によってその振る舞いを変えてはならない。床屋のパラドックスのように述語 P(x) が x の値によってその振る舞いを変えるときは、述語 P(x) を用いて集合を定めることはできない。

述語 P(x) の振る舞いが x の値とは独立している時は、全ての対象は、述語 P(x) を真とするか、偽とするかのいずれかになり、排中律を充足する。つまり、全ての対象 x について P(x) が真であるか、P(x) が偽であるかのどちらかが成立する。

このとき、定義された集合は、排中律から P(x) を真とするか偽とするかのいずれかである。このように述語について排中律が成立しているにもかかわらず、矛盾が起きてしまうのがラッセルのパラドックスであったが、集合の定義の再帰性を考慮に入れると、内包的定義で集合を定めることができるのは、このうち、定義された集合が内包的定義を充足しないものであるということがわかる。しかし、述語で定義された集合が内包的定義を充足する場合もある。この場合は、内包的定義で集合を定義することはできず、定義されるのはクラスである。

したがって、内包的定義の適用を集合の要素の集まりに対して行われない時は、内包的定義を充足する集合と内包的定義を満たさないクラスに二分することができる。あるいは、内包的定義がクラスを定義するときは、その否定命題で集合が定義される。

一方、内包的定義が集合の要素に限定されているときは、必ずその定義を充足する集合と充足しない集合に二分できる。なぜなら、充足しない要素の集まりは、集合の部分集合であることが分かっているからだ。たとえば、「動物の集合」について「犬でないものの集合」を考えたとする。そうして定義された「犬でないものの集合」は「犬ではない」が、「犬でないものの集合」は「動物」ではない。したがって、動物の集合の要素に対して内包的定義を適用された場合は述語を充足するものも充足しないものも集合を作ることができる。

このように、集合の定義の再帰性に着目し、集合とクラスを混同しなければ、述語についての内包的定義は排中律に関して矛盾を発生させずに、集合を定義できる。


追記その3(アイディアの骨子)

この記事の考察の目的は、素朴集合論にラッセルのパラドックスを起こさせずに排中律を適用することだ。そのアイディアの骨子は次のようになる。

1.まず、対象を集めて作った集合は、集めた対象のどれとも異なる新しい対象であるということを明確にしておく。集合の定義は本質的に新しい対象を作り出すことだ。この、対象を集めて新しい対象を作り出すという集合の定義の再帰的な性質を明確にすることが、ラッセルのパラドックスを回避する鍵になる。

2.集合を再帰的に定義するということは、集合の定義が一種のアルゴリズムであるということを示している。

例えば犬の集合を作るときも、最初の犬をみつけ、次に2番めの犬をみつけ、次に ... というように全ての犬が見つかるまでこの操作を続けた結果であると考える。

ラッセルの集合の場合も、当面考えられる「自分自身を要素としない集合」を集めた集合を作る。すると、その集合自身が「自分自身を要素として含まない集合」なので、それを新たな要素として集合を作りなおすと、それもまた「自分自身を要素としない集合」になる。

このように、ラッセルの集合の場合は、要素を集めるというアルゴリズムが永遠に終了しないため、最終的な集合を作り出すことができない。ラッセルの集合は、集合の無限大のようなものになってくる。自然数の無限大が自然数ではないように、ラッセルの集合も集合ではないので、無理にこれを集合と考えるとパラドックスが発生する。

3.ある対象は内包的定義を満たすか満たさないかのどちらかであるというのが排中律だ。対象を内包的な定義の基準で集めて集合という新しい対象を作り出すと、その対象は、排中律によって内包的な定義を満たすか、内包的定義を満たさないかのどちらかである。

新しく作られた集合が自身の内包的定義を満たさなければ、要素を集めるというアルゴリズムは停止して、集合が定義される。しかし、この集合が自身の内包的定義を満たしていれば、これを新しい要素として、集合の定義をやり直さなければならない。こうやって、やり直した集合が再び内包的定義を満たしてしまうという状況が止まらない場合は、要素を集めて集合を作るというアルゴリズムは停止できず、いつまでも集合を確定することができない。

この場合、排中律を充足する内包的定義があるにも関わらず、その内包的定義によって集合を確定することができない。これがクラスである。

4.ラッセルのパラドックスはこのような確定可能な集合と、集合として確定するものが作れないクラスを同列に扱ったために発生したものだ。クラスが発生するのは、集合という新しい対象が対象を集めることで創りだされるという集合の定義の再帰的性質が関係している。

5.排中律を充足する内包的定義とその否定命題によって創りだされるのは、2つの集合ではなく、集合とクラスである。このクラスを集合としては扱えないので、ラッセルのパラドックスは自然に排除される。つまり、内包的定義の排中律と素朴集合論の間に矛盾は発生しない。

6.クラスは無限集合とは異なる。無限集合は要素の生成が無限に行われるがそれらは全て集合の要素である。クラスの場合は、集合自体が無限に変化するので、集合を定めることができない。
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by tnomura9 | 2014-11-08 19:47 | 考えるということ | Comments(0)

集合の定義の再帰性について

ペアノの公理を使った自然数の定義は再帰的定義だ。つまり、a が自然数であれば a + 1 も自然数であるという定義の仕方をする。このような再帰的定義では自然数の最大数を求めることができない。なぜならば、最大数が N であると仮定しても、N + 1 という最大数より大きい自然数が発生してしまうからだ。

集合の「対象の集まりは集合という対象である。」という定義も同じような再帰性がある。考えられる全ての(集合を含む)対象を集めても、それらを集めた集合という新しい対象が発生してしまう。したがって、「すべての集合の集合」はつくることができない。それ自身がすべての集合に含まれない新しい対象になってしまうからだ。ラッセルの集合の場合も同じことが言える。考えられる限りの「自分自身を要素としない集合」を集めて集合を作っても、それ自身が「自分自身を要素としない集合」になってしまう。これらすべては、ひとえに集合の定義が再帰的定義であるために起こるのだ。

このような状況に辻褄を合わせようとすると、「全ての集合の集合は自分自身を要素とするはずだ。」などのおかしい議論が出てくる。素人の常識的な感覚から言うと、対象の集まりとしての「集合」はひとつの概念なのだから、それを対象と考えるにしても、自分自身の要素とはならない。そうでないと、対象を集めた途端に、その集合という新しい対象が忽然と出現してくる。集合を定義したと同時にその要素の内容が変わってくるというのは同意できない。集合は自分自身を要素とすることはないと考えるのが自然だ。

集合を定義することによって集合の内容が変わってくるというおかしなことが起きなければ、集合の要素については排中律は完全に機能する。ある集合の要素について、述語を満たす要素からなる部分集合とそれ以外の要素からなる部分集合に類別することはいつでも可能だからだ。

しかし、排中律を再帰的定義によってダイナミックに変化していく集合の外側の世界に適用するとたちまちラッセルのパラドックスのようなものが発生してくる。全ての集合の集合のようなものは、再帰的定義を採用する限り作ることができないからだ。全ての集合の集合は自然数の無限大のようなものだ。自然数は偶数か奇数かのどちらかであるはずだが、無限大はそのどちらとも決めることができない。無限大という自然数はつくれないからだ。したがって、集合の場合も、集合の内部については排中律はいつでも適用できるが、「全ての集合の集合」のようなものに排中律を適用することはできない。「全ての集合の集合」は集合ではないからだ。

このように素朴集合論について、「集合は自分自身を要素とはしない」、「全ての集合の集合は集合ではない」、「排中律は集合の内部にしか適用できない」という付加的なルールをはっきりとさせることで、ラッセルのパラドックスも含まず、排中律も安全に適用できる健全な姿を呈するのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2014-11-08 07:29 | 考えるということ | Comments(0)