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ラッセルの集合の述語

前回のエントリーで、ラッセルのパラドックスの原因は、集合の内包的定義の手続きにあるのではなく、その手続に使われた述語の性質にあると書いた。では、ラッセルの述語にはどのような特徴があるのだろうか。

整数から偶数の集合を内包的定義で定義すると次のようになる。

E = { x | x mod 2 = 0 }

これは次の式と同じことを表している。

x ∈E ⇔ x mod 2 = 0

これは上の定義式が ∈ の意味を定義しているとも考えることができる。整数 x が2で割り切れるなら x ∈ E であるが、上の定義式で ∈ や E が何であるかという事については、右辺の定義が確定しないとわからない。∈ の意味についてあらかじめ限定されているわけではないのだ。

ところで、ラッセルの集合の内包的定義は次のようになる。

R = { x | x `属さない` x }

これは、次の式と同じだ。

x ∈ R ⇔ ¬( x ∈ x )

この定義が、偶数の集合の定義と異なっているのは ∈ の記号が右辺にも現れているということだ。したがって、上の定義式では、∈ が再帰的に定義されている。そのため、x に R を代入すると次のようになってパラドックスが発生する。

R ∈ R ⇔ ¬(R ∈ R)

上の命題はパラドックスであって、恒偽命題ではない、なぜなら ∈ の意味が上の命題で定義されるため、右辺も左辺もそれ単独では真とも偽とも言うことができないからだ。このように、ラッセルの集合の述語は再帰的な定義であるためパラドックスを発生することができる。内包的な定義に瑕疵があるわけではなく、パラドックスの発生原因は、ラッセルの述語の再帰性にあったということができる。

ラッセルの集合の述語は見かけほど単純な構造をしているわけではないのだ。
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by tnomura9 | 2011-04-28 07:08 | 考えるということ | Comments(0)

述語

集合を内包的定義で定義するときは、ある要素が述語を満たすかどうかでその集合の要素であるかどうかを決定する。例えば偶数の集合Aの定義は次のようになる。

A = { x | x が2で割り切れる }

このとき、2で割り切れるという述語は、x の一変数関数 P(x) であり、値 true または false をとる。すなわち、
P(2) = true だし、P(3) = false である。上の定義をP(x)を使って書き直すと次のようになる、

A = { x | P(x) == true }

したがって、どのような x にたいしても P(x) が true か false を返せば、集合の内包的定義にはなんの問題も起きない。しかし、P(x) がある x に対して true も false も返さないとき、この述語を使って集合を定めることはできない。P(x) が true も false も返さないのはどういう場合だろうと不思議に思うかもしれないが、コンピュータのプログラミングではよく起きる現象だ。例えば、次のプログラムでは、無限の再帰が発生するため関数 trivial (x) は値を返すことができない。

def trivial(x)
  trivial(x)
  return true
end

述語というと、「xは犬である」というような単純な構造をイメージしがちだが、一変数関数 P(x) で戻値が true または false であれば、何でも述語として働くことができる。したがって、上のような内部構造を持つ述語(関数)の場合、単純に true か false を返さない場合が生じてくる。

ラッセルのパラドックスの場合も、問題点は述語にあったのだ。述語の内部構造のために、「自分を要素としない集合の集合」という要素を述語に適用したときにパラドックスが発生したのだ。集合の内包的定義の手続自体に問題があるわけではない。このように、集合の内包的定義と述語とをはっきり分けて考えることによって、パラドックスの問題点を整理して考えることができる。

つまり、集合を内包的定義で定義するという方法には矛盾はないが、述語の関数の内部構造のためにパラドックスが発生するということだ。ラッセルのパラドックスが衝撃的だったのは、このパラドックスによって集合の内包的定義自体に矛盾があるように見えたためではないかと思う。

しかし、矛盾の発生源が述語の構造にあると考えれば、ラッセルのパラドックスによって素朴集合論が本質的な矛盾をはらんでいると考える必要はなくなるのではないかと思う。
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by tnomura9 | 2011-04-27 07:19 | 考えるということ | Comments(0)

床屋のパラドックスのトリック

床屋のパラドックスというのがある。ある村にはたった一軒の床屋しかなく、その床屋は自分のヒゲを剃らないひとのヒゲを剃る。たとえば、Aという村人が自分でヒゲを剃らなければ床屋はAのヒゲを剃るし、Bが自分で自分のヒゲを剃るなら、床屋はBのヒゲは剃らない。村人は自分のヒゲを剃るか剃らないかなので、この床屋にヒゲを剃ってもらうか、そうでないかに分かれるはずである。それでは、その床屋自身は自分のヒゲを剃るだろうかというパラドックスだ。

もし床屋が自分自身のヒゲを剃ろうとすると、その床屋は自分のヒゲを剃る人の仲間であるので、ルールからは自分のヒゲを剃れないはずだ。また、もし床屋が自分のヒゲを剃らないとすると、今度は床屋は自分のヒゲを剃らないので床屋は自分のヒゲを剃らなければならない。結局、床屋が自分のヒゲを剃るとしても、剃らないとしても矛盾が生じてしまう。どこがおかしいのだろうか。

論点をはっきりさせるために上のパラドックスを記号化してみる。始めに村人の集合Aを次のように定義する。

A = {a0, a1, a2, ... an}

この時 a0 は床屋で、a1, .. , an は村人であるとする。次に床屋が村人のヒゲを剃るかどうかの判別関数を次のように定義する。

P(x, y) = if (yがyのヒゲを剃らないならば、xがyのヒゲを剃る) then true else false

そうすると、P(a0, a1) が真ならば床屋はa1のヒゲを剃り、偽ならば床屋はa1のヒゲを剃らない。ところが、床屋のパラドックスはP(a0, a0)が真にも偽にもなることができないということを示している。 いわゆる自己言及のパラドックスだ。

ところで、集合論では、集合を内包的定義で定義することができる。要素の集団があるとき、その要素 a が述語P(x)を満たせば、つまり、P(a) が真であればその要素は集合Aに属するとする。そうすると、要素の集団から集合Aを明白に定義することができる。これを記号化すると、

A = { x | P(x) }

と書くことができる。内包的定義にはなんの曖昧さもなく、集合Aは問題なく定義できるように思われる。

ところで、上の床屋のパラドックスでは村人の集合から、「床屋にヒゲを剃られる」という述語で「床屋にヒゲを剃られる人の集合」を作ることができるように見える。これを記号化すると次のようになる。

A = { x | P(a0, x) }

P(y, x) は二変数関数だが、y に a0 を代入した P(a0, x) は一変数関数なので述語にすることができる。ところが、x = a0 を代入すると、a0 ∈ A とも a0 `属さない` A とも言うことが出来なくなるのは上に述べたとおりだ。

実は、上のP(a0, x) を普通の述語とみなすことはできないのだ。P(x) の内部構造がxから独立したxの1変数関数であれば、これは問題なく述語として働くことができる。しかし、P(a0, x) は、P(y, x) という二変数関数のy にa0 を代入して作られた一変数関数であり、変数yとxの間に何らかの束縛関係がある場合には、P(a0, x)を完全にxから独立した一変数関数とみなすことはできない。P(x)が述語として働くためにはP(x)の内部構造が、xとは独立していなければならないが、P(a0, x) の場合はxから独立しているとは言えない。したがって、P(a0, a0) のときにパラドックスが発生してしまうことになる。

こう考えると、なぜ集合論のパラドックスが自己言及文について発生しているのかを理解することができる。自己言及をしている述語は、実は、2変数関数のひとつに定数を代入して作られた、見かけ上の1変数関数なのだ。

素朴集合論は、ラッセルの「自分自身を要素としない集合の集合」にパラドックスが発生したため、公理的集合論のような技巧的な工夫を凝らさなければならなくなった。明白な述語によって集合が定義できないなら、内包的定義を正当化できず、集合論の根底が覆されるからだ。しかし、ラッセルの集合の定義を見てみると、

R = { x | x `属さない` x }

であり、述語の内部構造を変数 x が束縛している。このような、ニセの述語で集合が定義できないのは、当然といえば当然だ。

素朴集合論の内包的定義に瑕疵があったわけではなく、述語として用いるべきでないニセの述語を内包的定義に持ち込んだために、ラッセルのパラドックスが発生してしまったと考えれば、素朴集合論の危機は回避できたのかどうかは専門家ではないのでわからない。しかし、ラッセルのパラドックスが集合の内包的定義そのものではなく、不正な述語の利用の仕方で発生したのだと考えると、事実上の数学の土台となっている素朴集合論に対する不安が少し解消されるのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2011-04-26 07:39 | 考えるということ | Comments(3)

キーワード

本を読みながら線を引く時、普通はキーワードになる単語に線を引くだろう。

「キーワード」を辞書で引くと、「問題の解明や内容の理解の上で、重要な手がかりとなる語」や「情報検索で、検索の手がかりとして使用する語句」と説明してある。キーワードはある概念の内容を理解したり、思い出したりすための鍵となる語句だ。かなりの量の情報を探索するための入口となる語句である。

ところが、実際にキーワードに下線を引いても、後で本を読み返したときになかなかその内容を思い出せないというのは、よく経験することではないだろうか。なぜそういう事になってしまうのだろうか。

それは、文章の内容への「重要な」手がかりとしてキーワードに下線を引いた場合には、後で下線を引いたキーワードを読み返すとき、そのキーワードとなる語句が単体としてしか認識できないからだ。なぜそういう事になってしまうのかというと、キーワードに下線を引いたときに、そのキーワードを他のキーワードの関連性や構造との関係の中で認識していないからだ。そのため、後で読み返したときにキーワードが単体としてしか読み取れず、そのキーワードから内容を連想するのが難しくなってしまう。

具体的な例を上げてみよう。次の文章は、『タイム・コンサルタントの日誌から』というブログからの引用だ。
先日、作業現場の安全に関連して「度数率」という概念を紹介したが(「安全第一とはどういう意味か」参照)、これに多少似た概念で「事故率」という尺度がある。こちらは交通輸送などで使われる数字で、一人(あるいは1台)移動距離あたりの事故発生数である。たとえば国交省の統計によれば、国内の全道路における自動車の走行台・キロあたりの「死傷事故率」は現在100件/億台キロ前後である。言いかえると、自動車で100万キロ走行すると、平均約1回死傷事故に巻き込まれる可能性があることになる。
明らかにこの文章のキーワードは「事故率」だ。そうして、このキーワードに下線を引いておいたとしよう。ところが、後でこのキーワードを読み返しても「事故率」がなんの事だったか思い出せないだろう。

それは、「事故率」というキーワードが大切だという意識だけで下線を引き、「事故率」という語句と他の語句との関連性を無視してしまったからだ。「事故率」に関連する語句で重要なものを拾い上げると、「一人移動距離」、「事故発生数」、「国交省」、「自動車」、「100件/億台キロ」、「100万キロ走行で平均約1回死傷事故」などの語句がある。しかし、「事故率」というキーワードに下線を引いたときこれらの語句を想定しながら線を引くということはまずないだろう。そのために、あとで下線を引いた「事故率」を読み返してもその内容を想起できないのだ。

重要なキーワードに下線を引くときは、参考書の余白に簡単なマインドマップを記述したほうがいいかもしれない。マインドマップを使うと、語句の間の構造が一目で理解できるので「事故率」というキーワードから文章の内容を思い出すのが楽になる。

ソシュールを引用するまでもなく、キーワードは単体としてではなく、語句の間の構造として認識すべきなのだ。
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by tnomura9 | 2011-04-24 04:53 | 考えるということ | Comments(0)

perfume macaroni

Youtube で Prefume のPVを見ながら、カラオケで歌えるのはないなあと思っていたら、「マカロニ」という曲に出会った。この中の

「これくら~いの感じで」

というフレーズが気に入ったので、もしかしたらカラオケで歌えるかもしれないと思いいろいろぶらついていたら、このビデオに行き当たった。

このビデオの歌手の多少の音程のズレは目をつぶるとして、ギター伴奏だけで聞くと、却って、中田ヤストシ氏がなかなかのメロディーメーカーなのが分かる。

そう思ってCDの 『GAME』を聞きなおしてみたら、面白かった。

「マカロニ」をカラオケで歌いたいな。顰蹙を買うかもしれないが。
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by tnomura9 | 2011-04-23 17:15 | 話のネタ | Comments(0)

想定外

福島の原発は地震のあと自動的に運転を停止している。地震に対する対策は有効だった。その後の大津波が想定外だったわけだ。

畑村教授の『失敗学』では、失敗の原因の多くが「想定外」の事態が発生したからだと述べている。「失敗学」の基本的な演習は、何かの企画(例えば登山)に対して、起こり得るあらゆる事態とその対策を考えることだ。これはかなり負担が大きく、学生はやがて「こんなことが必要なのか」と音を上げてしまう。「起こり得る全ての事態」というのは際限がないからだ。また、これが、企業の商品開発となると、かなりの過剰な開発費用が発生してしまう。これを商品の価格に転嫁すると、商品は全く売れない。

リスク管理には、費用の発生が伴うのだ。

しかしながら、今度の福島の原発事故の例で分かることは、たとえ想定外だったにせよ、一旦原発事故が起こってしまうとその被害とその被害に対応する費用は膨大なものになってしまう。想定外の事故が起きたときのコストを真剣に考えていなければならなかったということだろう。

福島原発の最大のリスクはなんだったかというと、発電所が海岸にあったということだ。さらに、同じ場所に10個もの炉心が集中して立てられていたということもある。これは、日本の他の原発も一緒で、第二第三の福島原発事故が起こらないという保証はない。たとえ、想定内の津波対策をしたとしても、想定外の事態が発生すれば、その対策が無力なのは、今度の津波でいとも簡単に破壊された世界最大の防潮堤の例をみても分かる。

フェイルセーフの考え方では、一般に誤操作や事故で装置に事故が発生した場合それを停止することになる。しかし、原発のような事故の影響が甚大なものは、対処できない事故が発生しそのシステムが完全に動かなくなったときの影響とその対処法を考えておく必要があるのではないだろうか。

実は、アメリカでは廃炉になった原子炉の炉心を後で調べたら、炉心の鋼鉄に穴が空いていて、外殻のステンレス一枚でかろうじて炉心溶融をまぬがれていた例があるということだ。これも、想定外の事故だが、幸い事故が発生する前に廃炉にされていた。

大切な事は、福島原発の形式の原子炉の潜在的な危険性を認知するということだ。このような施設では、福島と同じ事故が起こり得る危険性を常にはらんでいる。事故を未然に防ぐ対策を考えたとしても想定外の事態が発生しない保証はない。そうではなく、全く事故を起こさないか、たとえ起こったとしても、その被害を最小限に食い止めることのできるシステムに可及的速やかに置き換える必要があるのではないだろうか。

原発に限らず、想定外の事態にともなうコストについての真剣な検討が必要なのではないかと思う。
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by tnomura9 | 2011-04-19 07:22 | 考えるということ | Comments(0)

次世代太陽熱発電

東京工業大学が次世代の太陽熱発電の実証実験に成功した。

太陽熱発電は、エネルギーの変換効率が太陽電池と同等かそれより高くできる。また硝酸ナトリウムと硝酸カリウムの溶融塩を利用すると、昼間の発熱を蓄熱して夜間も発電を続けることができる。原子力や化石燃料による発電の代替技術として有望らしい。しかし、日本ではあまり知られていないようだ。

ネットで調べても、日本の電力行政に対する評価は厳しい物が多い。高速増殖炉のもんじゅは多額の開発費を投入したが安定的に運転できず、今度の原発事故をみてもおそらく廃炉にしておいたほうが良い。一方では、超臨界を起こさないCANDLE炉の開発には予算がつかない。また、太陽光発電でもドイツにあっという間に遅れをとってしまった。

むしろ、政府主導の研究開発をするより、再生可能エネルギーを利用した発電を自前で運用する企業に対し、自家発電の設備投資に対する減税を施行したらどうだろう。企業は電力不足に対するリスク管理ができるし、全体の電力不足も緩和される。再生可能エネルギーによる発電では得られる電力量が不足するとはいえ、いろいろな企業が自前の発電所を持てば、その総和は結構な量になるのではないだろうか。また、各起業が様々な方式の発電施設を建設するだろうから、そのなかで有力なものが台頭してくるだろう。

いろいろな意味で衆知を集めるこの方法は様々なメリットがあるような気がするのだが。
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by tnomura9 | 2011-04-18 11:49 | 話のネタ | Comments(0)

スマートグリッド

昨日の日経の一面に「家庭用蓄電池を投入」という見出しで、電機メーカー各社が家庭用電源の発売に乗り出したことが書かれていた。

東電の電力不足や計画停電によって、潜在的な電力不足が衆知のものとなったためだろう。販売価格が20万円を切るようなら、普及に拍車がかかる可能性もある。蓄電器の普及や発電の自由化が進めば、電力供給のシステムがスマートグリッドに移行していくのも夢ではないかもしれない。

今度の原発事故で明らかになったのは、電力供給の潜在的不足と、少数の電力会社に電力の供給を集中させることの潜在的な危険性だ。容量的にも、供給経路のリスク管理の上からも関東一円を東電だけでまかなうのが困難になりつつあるのではないだろうか。電気自動車の普及に拍車がかかれば、電力危機が発生するのもそう遠くないだろう。電力供給システムのスマートグリッドへの移行は必須のものなのかもしれない。

技術革新によって、電力需要は増加こそすれ減少することは無いだろう。また、今のシステムでは十分な電力を安全に供給することが不可能になってきているのではないだろうか。電力に限らず、通信や情報であっても、資源を分散化することによって、飛躍的にリスクへの耐性が増す。「分散化」というのは、21世紀の日本のキーワードになるかもしれない。

いずれにせよ、明らかに今世紀は「オイルの時代」から「電気の時代」へ移行しつつあることは間違いない。
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by tnomura9 | 2011-04-15 08:05 | 話のネタ | Comments(0)

電力

今回の東日本大震災で気づかされたのは、日本の産業における電力の重要性だ。

福島の原発事故がこんなに大きくなったのは、4つの原子炉がいっせいに不具合を起こしてしまったからだ。原子力発電所は多量の水を利用するので、臨海地帯に建設せざるを得ないのを置いても、第一福島原発、第二福島原発合わせて10基もの原子力発電所が比較的狭い範囲に、それも、地震や津波の多発地帯に建設せざるを得なかったというのは異常な事態だ。

たしかに、地震対策や、津波の対策がされていたにもかかわらず想定外の津波が発生したのが今度の原発事故の原因だ。しかし、過去の記録を見ても十数メートルの高さの津波が発生した記録はある。それを度外視して原発を建設せざるを得なかったことが、産業における電力供給の重要さを示している。

管理人は専門家ではないので分からないが、これから先どうやって電力を確保するのか心配だ。再生可能エネルギーの発電能力でまかなえるのか、CANDLE炉に見られるような超臨界の発生しないような原子炉が実用化されるのか。いずれにしても、これからの電力をどう確保するのかということは、日本の技術立国が存続できるかどうかの命運を握っているだろう。

ビルゲイツのTWR炉の開発は中国で行われるそうだ。どうしてそういうことになったのかの経緯は分からないが、中国は電力の重要性をしっかりと把握しているように見える。福島の原発の事故処理は数年かかるかもしれないが、電力の確保についての根本的な構想がもう始まってもいいころだろう。
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by tnomura9 | 2011-04-14 08:02 | 話のネタ | Comments(0)

多能工

生産システムでシステムの冗長性を増やすためには、多能工を育てるというのもひとつの考え方だろう。フォードのライン生産は、高度の技術を持った工員の確保難とコストを軽減するために、部分的な工程で技能教育をやるという方法で効果を上げた。多能工を育てるのはその逆の方向になる。

比較的賃金が安く、労働者の確保も容易な状況ではフォードの方式は効果を上げた。しかし、現在の日本のように高賃金の場合、雇用者を容易に増やすことはできない。生産ラインの変更や、雇用者の休職などのリスクに対応するためには、多能工を育てる必要があるだろう。

システムの冗長性とは、現在のシステムの生産性に加えて、潜在的なリスクに対応させることのできるようなシステムの余力を作っておくことだ。多能工が増えるということは、雇用者数を増やすこと無しに、潜在的な生産力を上げることになる。あるラインで欠員があっても、迅速に他の部署から派遣できるため生産がストップすることがない。また、リスクに対応させるための余剰人員を特定の部署ごとに配置しないで良いため、雇用者数を最小限に留めることができる。

たとえば、小さな診療所では、スタッフが若いと子供の病気や学校行事で欠員が出るリスクが大きい。この場合、看護職に受付事務や窓口会計の教育をしておくと、事務職員が休んだとしても業務が滞ることがない。

また、ブラジルのセムラー社は生産現場の人間にも貸借対照表の読み方などの経営教育をしている。セムラー社はこの他にも組織をできるだけフラットな構成にしたり、部署間の連絡はできるだけ口頭で行うようにして無駄な文書の発生を抑えるなどの実験的な取り組みをしているが、それが実際的な効果を挙げているというから面白い。

いずれにせよ、比較的小さなシステムでは多能工を育てることが、システムの生産力の余力をつけ、システムに冗長性をもたせてリスクに対応することができるようだ。
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by tnomura9 | 2011-04-13 11:02 | 話のネタ | Comments(0)