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論理的に考えるということ

「小さい犬は可愛い。」という発言を聞いたときに、「大きい犬は可愛くない。」という推論をするのは論理的に誤りであるというのは論理学の初歩だが、それの説明で真理表などを持ち出して説明してもなかなか分かりづらいだろう。

常識的な発想では、犬は「小さいか」、「大きい(小さくない)」のどちらかだし、また、「かわいい」犬か「かわいくない」犬のどちらかしかいないのだから、どうして上の推論がいけないのだろうという感じをうける。

しかし、よく考えると、犬はたしかに、「小さい」と「大きい」、「かわいい」と「かわいくない」に二分することができるが、このふたつの分類を適用するときには、犬は「小さくて、かわいい」、「小さくて、かわいくない」、「大きくて、かわいい」、「大きくて、かわいくない」という四つの場合について検討しなければ全体について検討したということはできない。

「小さい犬は可愛い」と行った場合、「小さくて、可愛い」犬はいるが、「小さくて、可愛くない」犬はいないということを言明しているだけで、「大きくて、可愛い」犬の存在を否定してはいない。したがって、大きくても可愛い犬はいるかもしれない。

ちょっと議論が混みいってしまったかもしれないが、論理的な推論の本質は、上の例のように、「起こり得る全ての場合について検討する。」という事なのだ。畑村洋太郎氏が失敗学の中で強調しているのはまさにこのことで、想定した起こり得る全ての場合に当てはまらない事態が発生したために失敗が発生してしまう。

論理的に考えるためには、難しい論理学の法則はあまり役に立たず、全ての起こり得る可能性を検討することが、結果的に論理的に正確な推論をしていることになることが多い。

論理的な思考とは、全ての起こり得る可能性を考えつくす思考のことだ。理屈っぽい人の話が、現実から遊離しているのは、その理屈が全ての可能性を尽くしていないためだ。
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by tnomura9 | 2011-03-11 10:50 | 考えるということ | Comments(0)

太陽の下、新しいものは何ひとつない。

最近になって、効率的な勉強法の真髄は、とにかく問を発することと、その問の答えをしつこく探すことに尽きるのではないかと考えるようになった。

ところが、それと同じことを自分は40年も前に高校生の時に本で読んでいるのだ。

さらに、2500年も前に孔子がそのことには言及している。

全く、聖書のコヘレトの言葉にあるように、
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
のだった。

要するに、答えは既に示されていたのに、それを活用するまでには理解出来ていなかったのだ。無駄な時間を過ごしてきたものだと思うが、逆に言うとそれらの言葉が実感として分かるくらいには思考力が鍛えられてきたのかもしれない。

古来の教育が古典の知識を重視してきたのは、自分と同じような感想をもった教師が幾多もあったからなのかもしれない。思考法というのは一種のアートなので、師匠から非言語的に伝達されるべきものなのだろう。そう考えると、教師が自身の思考力について真摯に研鑽しそれを弟子に伝えるというのが、あるべき教育の姿のような気がする。
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by tnomura9 | 2011-03-10 12:43 | 考えるということ | Comments(0)

学びて思わざれば

論語の為政篇の中に、

子曰、学而不思則罔、思而不学則殆

という言葉がある。

物事を学ぶだけで自分で考えなければ身につかないし、自分で考えるだけで学ぶことをしなければ独善におちいり危険であるという意味だ。

いままで、色々と効果的な思考法について考えてきたが、結局この言葉に尽きるような気がする。よく勉強し、たくさんの経験を積み、自分でしっかりと考えれば思考法などは自然に身につくものだ。当たり前といえば当たり前だが、なにかうまくいかないときこの原理を思い出すと、自分の勉強法の問題点を思いつくことがよくある。

為政篇の中には、他に次のような言葉がある。

子曰、由、誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也。

自分が知っていることと、知らないことをはっきりとさせることが大切だということだ。自分が知っていると思っていることも本当に理解しているのか検討するために、いろいろと調べてみると理解が深まっていくのを経験する。自分が知らないことを知っていることの大切さは、ソクラテスが強調するところだ。

正確には知らないことを、知っているつもりになっていて恥ずかしい思いをすることがあるが、自分は知らないことを自覚していて色々と相談すると賢くなることが多い。また、知っていると思っていることも詳細に点検してみると、いろいろと知らなかったことがわかって驚くことがある。

また、次のような言葉もある。

子曰、温故而知新、可以為師矣。

過去の情報や現在進行中の情報を広く集めることが大切だという意味だ。

要するに、実効的な知識を身につけるためには、偏りなく知識を収集し、それについて、徹底的に考えぬき再構成して自分の知識として組み立てることが大切なのだろう。この、当たり前のことを実行していないので、管理人は何時までも宙ぶらりんの思考で自信が持てないのかもしれない。

真面目に勉強するのは大変だし、あまり面白くないからだ。
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by tnomura9 | 2011-03-09 07:49 | 考えるということ | Comments(0)

福祉と税の一体改革

菅政権の支持率は最低で、マスコミは政治の混乱を報道するのに喧しいが、何か忘れていないだろうか。

ロシアや中国の強硬姿勢や、国債の残高、企業の海外脱出、若者の就職難など危機的状況がすぐ傍に迫っているのに、それに関する真面目な報道を見たことがない。政争の問題も大切だが、こちらの方は日本の生死が掛かってくる。

福祉と税の一体改革は、理想の問題ではなくて安全保障の問題と捉えなくてはならないのではないだろうか。最近のアラブの政変を見るとわかるように、独裁政治による財の偏在は、死んでも構わないと思いつめる大多数の国民を増やしてしまう。

資本主義的な経済活動の行き着く先は、財の偏在だ。これは、人間が経済活動を行うための原動力となるので、抑制することが経済活動を殺しかねないのは、社会主義経済の崩壊によって歴史的に証明されている。今の中国もロシアももはや社会主義国家ではない。

しかし、この傾向を放置することはその社会全体の崩壊へとつながりかねないという事実は、マルクスの主張が現代にも通じるものであることを示している。管理人はマルクス主義者ではないが、概括的に状況を推論するとそうなる。

福祉と税はそれについての安全弁と考えないといけない。福祉と税の主な役割は、財の再分配である。偏った財を再分配することによって、通貨の流通を刺激し、経済が循環不全に陥って経済主体が死んでしまうのを防いでいるのだ。福祉は思いやりではなく社会の安全保障と捉えなければならない。

福祉を行うためには財源が必要だ。したがって、福祉と税とは一体的に運用すべきなのだ。

消費税には逆進性があると言われるが、消費税があっても、ベーシックインカムによる保証があれば日常の生活に困ることはない。結果的に、大きな消費をする余裕のある人が税を負担し、消費しない人は税の負担が軽くなる。消費税の増税と福祉は一体的に運用されなければ効果が発揮できない。

また、ベーシックインカムに所得制限をかけるという意見があるが、所得を確認する事務的な費用を無視した空論だ。所得制限なく配分すれば所得の申告などの煩雑な事務を一切排除することができ、公務員の削減にもつながる。公務員の非能率性は、公務員の働きそのものの問題よりも制度が原因となっている場合が多いのだ。

子ども手当に所得制限をかけるという議論自体が、税や福祉についての議員の無知を晒している。

たしかに、せっかく身を粉にして働いて得た収入から税金を取られるのは割り切れないものがある。しかし、日本の国全体の安定が損なわれるのは元より望むところではない。福祉と税の意義とその運用について国民が無関心で良いはずがない。このままだと、それが損なわれていく可能性が高いのだ。

すぐ傍に迫っている破局を国民に報道する義務をマスコミは忘れてはいないだろうか。
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by tnomura9 | 2011-03-07 19:08 | 話のネタ | Comments(0)

『まんがと図解でわかるニーチェ』を読んだ。

宝島社の『まんがと図解で分かるニーチェ』 白鳥春彦監修 を読んだ。

書店をぶらついていたら、漫画風の女の子の描かれた表紙と、ニーチェという題名に惹かれて思わず購入してしまった。

記述が非常に整理されていて分かりやすかった。原典を読んでいないので、ニーチェの主張がほんとうにこの著者の書いている内容と同じものかどうかはわからないが、ニーチェの思想を手っ取り早く知るのには便利ではないかと思う。

冒頭の、真理とは個人の観点にすぎないという「遠近法的思考」の説明のあたりは、ほんとうにそうだと快哉を叫んでしまった。思想の恣意性という厳然たる事実に臆することなく、創造するという人間的な活動に意味を見出すという、ニヒリズムと超克の哲学は話としては格好いい。また、快楽を追い求めるという人間的な内的な衝動にも正面から対峙しているところも共感できた。

しかしながら、この本の説明では、ニーチェですら観念性という哲学者の性癖を抜け出すことができなかったのではないかという印象はぬぐい去ることができなかった。とくに、超人を称揚するくだりは、観念を捨て去ったはずのニーチェ自身がどっぷりと観念に浸かっているような気がした。

ここでいう観念とは、自分の脳の中の仮想現実を現実と考える脳の働きだ。カントが喝破しているように、我々が現実と思っているのは、我々の脳の中に構成された現実の映像としての仮想現実に過ぎない。自分自身は、この仮想現実の住人でしかなく、感覚を通して外部世界を覗き見ようと努力しているが、ついぞ外部世界を直接的に知ることはできない。

哲学の歴史をみると、この仮想現実と現実世界のかかわりをとらえようとする試みの連続だったような気がする。映画「マトリックス」のおかげで、現代人はそれをイメージとして感覚的に捉えることができるようになった。

観念の世界の住人でありながら、観念の外の世界を知ろうと奮闘しているというのが思索する人間の有り様ではないのだろうか。人工の環境に閉じ込められた人間が、その環境を脱出しようと冒険をはじめるというプロットはSF小説でよく見かけるパターンだ。

そう考えると、デカルトの「われ思う、故に我あり」というしごく当たり前の言明がどれだけ観念の本質を言い当てていたかが分かる。

哲学の思索を「認識論」の立場という視線で固定して眺めるのは、偏っているかもしれないが、哲学というものの本質を見ることができるのではないかと思う。

結局のところ、自分にとって(人類にとってではなく)確実に言えることは、「思索する自分が存在していること」であり、その自分が今現在思索しているという事実はおそらく永遠に存在するだろうということだ。いま、ここで平凡な人生の中で思索しているまさにその瞬間の自分こそが、自分が獲得することのできる永遠性なのだ。
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by tnomura9 | 2011-03-02 03:00 | 考えるということ | Comments(0)